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夜のひととき

(本作は4,305文字、読了におよそ7〜11分ほどいただきます)


「ただいま……」
 一応、そう声は掛けてみた。もちろん、返事どころか、反応さえ期待していないが。そして、結果は予想通りのシカトだったが、予測していたところで、きゅっと胸が締め付けられそうな感じがするのは変わらない。
 寧々は、今日も壁にもたれるように立ち、物憂ものうげに窓から見える夜景を眺めている。沖縄出身の寧々は、よくハーフに間違えられるぐらい、そのシルエットには何処となくエキゾチックな雰囲気が漂っている。何度見ても美しい。こんなに冷め切った関係に成り下がった今でも、寧々を見ると、衝動的にぎゅっと抱き寄せたくなる。
 今夜の彼女は、一際美しいと思った。間接照明だけの仄暗い室内。月明かりがかもす微かな陰影。寧々は、いつもにも増してミステリアスに映えている。会社でのキャラとプライベートのキャラ、正反対の二面性を持つ寧々だが、最近は常にその中間にある三つ目の表情を浮かべているかのようだ。マンションの一室で一緒に暮らす僕のことを、まるでその存在に気付いてすらいないように、こちらを全く見ようともしない。そんな暮らしが、もう数週間も続いていた。
 何がきっかけだったのか、今では知る由もない。ひょっとしたら、些細なことだったかもしれない。しかし、ある時点を境に、寧々と僕の間に大きな溝が出来ていたのだ。気付いた時には、もう、埋めることも塞ぐことも不可能だった。そのままズルズルと、寧々は僕の存在を無視するようになった。
 でも、希望的観測かもしれないが、僕のことを拒絶しているわけではなさそうだ。きっと、本当は僕と向き合い、話をしたいのかもしれない。いや、そう思いたい。ただ、その術を知らないだけだ。ちょっとしたキッカケを求め、タイミングを探っているのかもしれない。だとしたら、僕と同じだ。それなのに、どうしてこんなチグハグな関係になってしまったのだろうか。
「寧々……」
 今度は名前を口に出してみた。しかし、夜空に特別な思い入れでもあるのだろうか、彼女は窓の向こうの漆黒の世界に思いを馳せているかのようで……僕の声は届かない。じっと、暗い窓の外を眺めている。彼女の視線の先に見えるのは、空なのか星なのか、闇なのか光なのか、僕には分からない。確かなことは、窓の中にある現実の世界には、無関心に近い状態なのだ。今、ここに僕がいるというのに。

 つい、出会いの頃を回顧する。
 いや、付き合う前から彼女のことは知っていた。というのも、職場が同じだからだ。部署こそ違うものの、彼女を見掛ける機会は頻繁にあった。お互いに顔見知りでもあったし、何度かは挨拶程度だが話をしたこともあった。
 それに、彼女は社内では有名人でもあった。仕事は極めて有能で、人目を引くような美貌でありながら、いかにも性格の悪そうな気質……ブランドのアクセサリーをひけらかせ、傲慢で気の強そうな「いけ好かない」印象の女。そんな評判だった。確かに、僕から見た印象もそんな感じだった。間違いなく美人ではあるが、近付き難い雰囲気で、はっきり言って苦手な女性。
 彼女が所属する総務部の友人に聞いた話だが、かつて、部内の若手男性陣の中で「誰が彼女とやれるか」という下衆な賭けが行われていたそうだ。実際、何人かは接触を試みたそうだが、けんもほろろに弾き返されたそうだ。
 その為、一時期は若手の男性陣から総スカン状態となり、逆恨みからいびりやパワハラ紛いの扱いを受けたりもしたそうだが、寧々にはその上を行く能力と強さがあった。業績も若手の中では抜き出ており、やがて、面と向かって寧々に苦言を呈する者はいなくなった。若手の男性社員達は、いつか寧々の部下になるかもしれないことを悟り、恐れたのだ。その分、陰口やデマなど、まるで女子社員同士のような陰湿なイジメが横行し、いつしか寧々はレズビアンだと噂されるようにさえなっていた。多分、そう思い込むことで、フラれた男達はメンツが保てたのだろう。
 まさか、そんな寧々が僕と付き合うようになるなんて、当時は全く想像も出来なかった。

 きっかけは、保護猫の譲渡会だ。猫を飼いたいと思っていた僕は、飼うなら保護猫と決めていた。まだ飼うと決めたわけではないが、愛護活動にも関心のあった僕は、見学を目的に隣の区で開催されていた譲渡会に参加した。すると、そこでボランティアに勤しむ寧々がいたのだ。
 会場で見た寧々は、普段とは全くの別人のようであった。スッピンに近いナチュラルメイク、ジーンズにTシャツだけのラフな服装、普段のイメージとは真逆のぺったんこの胸、ポニーテールにキャップ、そして、爽やかで明るい笑顔が絶えない親しみやすい雰囲気……何より、誰よりも可愛らしかった。いや、顔立ちが完璧なぐらいに整っている美女であることは知っていたが、会社で見掛ける時は常にギスギスしたような、人を寄せ付けない尖った印象しかなかったので、寧々がこんなに愛くるしい表情をしているなんて想像も出来なかった。
「総務の田所寧々さん?」
 思い切って声を掛けた僕に、寧々はニッコリと微笑みながら、仔犬のような足取りで近付いてきた。間近で見る寧々は、予想外に背が低く、意外なぐらいに童顔で親しみやすい顔付きだった。心なしか、声や性格まで反転している感じに思えた。人懐っこくて、メロンパンナちゃんみたいな妹キャラに見えたのだ。ものすごく振り幅の大きなギャップ萌え……僕は一撃でノックアウトされた。
「あら、情報システム部の林さん?  ってか、なんで林さんが?  もしかして猫ちゃん、お好きなんですか?」
「うん、飼うなら保護猫って決めてるんだけど、なかなか飼う決心が付かなくて……それに、今の生活だと猫が可哀想かもしれないしね。まぁ、でも見るだけ見ておこうと思って……あと、愛護活動にも興味あってさ」
「嬉しい!  安易にペットショップとかブリーダーで買わないで、保護猫から探してくださる人、私大好き!  それに、好きだから飼うって短絡的に考えてないところもステキです!  こんな可愛い子たちも、貰い手が見つからないと殺されちゃうんですよ。この国、おかしいですよね!  でも、林さんのような方のおかげで、助かる命もあるんです。ありがとうございます!」
「寧々さんも飼ってるの?」
「私も林さんと同じ会社ですよ?  あの会社で働いてる限りは、猫さまのお仕えなんて出来ないです。なので、お休みの日だけ愛護活動で猫さまのお手伝いをしているんです」
「そうだよね。折角保護された子だから、キチンとお世話出来る人に引き取って欲しいよね」
 結局、その日の僕は、猫の代わりに、猫以上に猫っぽい寧々を手に入れたのだ。

 付き合い始めた僕達は、数ヶ月後には同棲することになった。なんとなく、会社の人間には黙っておくことにした。社内恋愛にうるさくない会社だし、部署も違うので問題はないのだろうが、寧々が同僚に知られることを嫌がった。
 寧々は、同棲が始まっても、職場では太々しいぐらいの高飛車なキャリアウーマンというスタンスは変えなかったが、部屋に戻ると仔猫のように純粋で甘えん坊だった。おそらく、その事実を会社の人には知られたくないのだろう。それに、僕が色んな人から寧々のプライベートについて詮索されることになるから、交際をオープンにしなかったのは、そのことを危惧したのかもしれない。
 実際のところ、見た目と性格の大き過ぎるギャップは、社会人としてなめられないように寧々が自ら纏った鎧のせいなのだ。確かに、譲渡会の時のような寧々だと、男社会の中では甘やかされ、チヤホヤされるだろうが、大事な仕事は任されないかもしれない。残念ながら、男女平等なんてまだまだ口先だけの理想論が先行している。
 実力だけで勝負する為に、実力を真っ当に評価してもらう為に、寧々には鎧が必要だったのだ。そして、常に「戦士」でいるように努めていた。ずっと張り詰めた状態で懸命に闘っていたのだ。でも、その分、部屋に戻ると僕だけが知る本当の寧々に戻った。そう、寧々は、ようやく本当の自分を解放出来る環境を得たのだ。そう思うと、寧々こそ僕の保護猫だ。
 半年が経ち、一年が過ぎても、僕と寧々の愛は順調に育まれていると思っていた。少なくとも、僕の中での寧々に対する思いは、出会った頃と全く変わっていないつもりだ。しかし……何かを機に、二人の間から言葉が消えた。肌に触れることも、身体を重ねることも、キスさえもなくなった。
 寧々の中では、僕への評価が変わったのかもしれない。何度も思い返してはみるものの、上手く記憶が繋がらず……どうしても、こうなってしまった原因に辿り付けないのだ。なので、関係改善も出来ないまま、奇妙な同棲を継続している。

 仄かに差し込む月明かりが、彼女が佇む窓際の微かな空間だけに、妖しげな演出を齎している。微かに目を細めている彼女は……ひょっとして、泣いているのかもしれない。どれだけ忙しくても、入念な手入れを欠かさない自慢のロングヘアーも、今は譲渡会の時のように、無造作に一つに束ねているだけた。疲れ切った表情からは、外で見せる勝ち気な張りも消え、僕にしか見せない可愛いらしい笑みも失っている。
 その時、一瞬だけ目が合った。確かに、寧々は僕を見た。少し離れていても、吸い込まれそうなぐらい、神秘的にきらめく大きな瞳。微かに青い。深い海に吸い込まれていくように、青い目は感情を吸収する。僕は無意識に、再度寧々の名前を呼んでいた。
 しかし、寧々は、またもや僕の呼び掛けに応えてくれなかった。さり気なく聞こえなかった振りを装うかのように、ゆっくりと奥の和室の方へ歩き出す。それでも、時折り振り返っては物言いたげに僕の方を見つめ、無言でそっと前に向き直した。
 何かを感じ取っているのだろうか、どこか淋しそうでもあり、少しだけ安堵したような表情も見せる。彼女もまた、僕との関係性に迷っているのだろう。そして、僕に見つめられていることを知ってか知らずか、とてもエレガントに、柔らかくしなやかに、ゆっくりと僕の方を振り返った。
 今すぐにでも、寧々を抱きしめたい。今なら受け入れてくれるはず……理由もなくそう思った僕は、静かに寧々へと歩み寄った。寧々も、異変を感じたのだろうか、こっちを向いたまま立ち止まっている。もう、今更言葉なんて要らないだろう。そして、有無を言わせずにそっと正面から抱き締めようとした。しかし、僕の身体は寧々をスルリと通り抜けた。そして、思い出した。数週間前に、僕の身に起きたことを。
 ほんの一瞬だけ、寧々が安心したように微笑んだ。