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名無し草

(本作は4,629文字、読了におよそ8〜12分ほどいただきます)


 ある日の終業後のこと。その日は急を要する残務はなく、珍しく定時とほぼ同時に帰宅準備を終えた私に、部下が声を掛けてきた。
「はい、課長、コレ。いつもご迷惑お掛けしてます。ささやかですが、お誕生日のプレゼントです」
 部下に手渡されたのは、シンプルな植木鉢に植えられた、見たこともない植物だった。
「あ、あ、ありがとう。でも……俺、植物って小学生の時の朝顔以来、まともに育てたことないんだけどなぁ……」
「大丈夫ですよ。日当たりの良い所に置いとくだけで育ちますから。あとは、土の表面が乾いたらお水をあげてくださいね」
「う、うん……まぁ、折角なんでやってみるよ、ありがとね。ところで杉本君、コレ、何ていう名前なの?」
「へへ、実は私も知らないんです。すみません、お店の人に聞いたけど忘れちゃいました。でも、いいじゃないですか、名無し草で。上手く育つと、お花が咲くこともあるそうですよ」
 確かに、名前はさして重要ではない。ともあれ、こうして私は花が咲くかすら定かでない「名無し草」を育てることになったのだ。

 名無し草の置き場所は、ベランダのコンテナの上に決めた。というより、1LDKの殺風景なアパートだと、他に選択肢などないのだ。
 しかし……上司の誕生日を祝ってくれる部下の気持ちは純粋に嬉しいのだが、よりによってこんな物くれなくたって……正直なところ、戸惑いの方が大きかった。どうせすぐに枯らしてしまうのだろうと思いつつも、さすがに捨てるわけにもいかない。それに、可愛がっている部下の気持ちはありがたく受け止めるべきだと思い、出来る限りは育ててみようと決めた。
 そうして、気乗りのしないまま最低限の世話をすることからスタートした私だが、僅か数日後には、毎朝、名無し草の世話をし、様子を見るのが楽しみになってきた。
 いつの間にか生えてくる雑草の芽を見つけると、直ぐに摘み取り、虫を見つけると捕殺する。一〜二週に一度ぐらいの頻度で、薄めた液肥を与え、枯れた葉は早目に切り落とす。
(今日は、葉が生き生きしてるな)
(何となく、今日は元気がないみたいだな)
(アレ? 昨日より少し大きくなったか?)
 毎日世話をしているうちに、微妙な植物のコンディションの違いを感じ取れるようになっていた。

 植物は、人間や動物と違い、何かを訴え掛けてくることはない……そう思っていた私だが、どうやらそれが間違いだと気付くのに、それ程の時間は必要なかった。もちろん、常にこちらから気に掛けている前提ではあるが、葉の艶や色合い、張り具合い、樹勢などから、植物は、実に様々な要望を訴え掛けてくるのだ。
 いや、それらのシグナルを読み取るか否かは、結局のところは人間次第だ。そういった意味では、やはり植物は寡黙である。しかし、植物が発する信号に気付き、何らかの対応を施すと、必ず「変化」という形で回答が得られることを知った。
 それこそ動物と違い、反応速度は極めて遅いのだが、必ず結果は表れるのだ。つまり、植物ともコミュニケーションは取れる……これは、新たな発見だった。
 そうして、名無し草から学んだ相手のシグナルを読み取る能力、そこから発展するコミュニケーションの取り方は、人間関係にも通じるのかもしれないと思うようになった。

 実際に、名無し草を育てるようになり、私を取り巻く社内での人間関係は、かなり改善されるようになった。
 名無し草を育て始めてからの私は、仕事中は名無し草と同じように人と接することを意識するようになった。つまり、会話以前の段階で、予め、相手が発するシグナルを常に読み取るように心掛けたのだ。
 すると、部下も上司も同僚も、誰もが常に何かを抱え、無意識のうちに何らかのシグナルを発していることに気付いた。注視しなければ気に止めることもないような微細なアウトプットを、私は敏感に受信出来るように常にアンテナを張り、センサーの感度を上げるようになった。いわゆる「気遣い」というものの進化形と言えよう。
 いつしか、私は部下には慕われ、上司には信用されるようになっていた。必然的に、社内での評価も高まり、業務、プライベート問わず、様々な相談を受けるようにもなった。
 私自身、自分の立ち位置の変化に気付いており、当初は喜びと充実感を感じていた。しかし、一方では、多様となった人間関係により、必然的に雑務も多数抱え込むことなっていた。やがて、毎日時間に追われ、ストレスも抱えるようになってきたのも必然だろう。
 ちょうどその頃、名無し草は見るからに萎れ始めたのだ。

「杉本君、忙しいところ悪いのだが……実はね、あの名無し草だが、最近葉っぱがしおれててね……」
 名無し草の状態が私の手には負えなくなった為、思い切って部下に相談することにしたのだ。
「わぁ、課長、まだ育ててくれてたんですか? 嬉しい! すぐ枯らされるって思ってましたぁ」
 部下の杉本ゆかりは、子どもっぽく無邪気に喜んでくれた。
「ちょっと、小さな声で頼むよ……ありがとね、アレ、結構はまっちゃうね」
「でしょ? ……あ、すみません。あの、気に入って頂けて嬉しいです」
「今は敬語じゃなくていいよ。就業中だけど、仕事の話じゃないからね。こっちが君にご指導仰ごうとしてるんだから。でね、何がいけないのかな?」
「う〜ん、水はあげていますよね?」
「勿論。君に言われた通り、土が乾いたらたっぷりあげて、でもあげ過ぎにも気を付けてるつもりだけど」
「そうですか……となると……あ、もう結構大きくなりましたか?」
「そうだね、もらった時の倍ぐらいになったかな」
「じゃあ、そろそろ一回り大きな鉢に植え替えないといけませんね」
 杉本君は、その日のうちに植え替えの手順を、レポートに分かりやすくまとめてくれた。用意する鉢の大きさ、鉢底石や元肥の種類、使い方、名無し草に適した土の作り方など、丁寧に説明されていた。
 それを就業中にコッソリ作成したことは、流石に無視してあげることにした。

 杉本君の指示通りに鉢変えを行ってから、名無し草は息を吹き返したように元気になった。成長期の子どもが、小さくなった靴をいつまでも履き続けていたような感じなのだろう。成長の妨げとなる窮屈な苦しみから、ようやく解放されたのだ。
 時を同じくして、私は社運を賭けた大仕事を任されることになった。
 そのプロジェクトの為に新たな部署が設置され、私は部長に抜擢されたのだ。イレギュラーな形とは言え、実質的な出世である。しかも、保守的な会社ということもあり、三十代での部長就任は、創業以来、初めてのことなのだとか。私は、入社以来、最高にモチベーションが高まり、気力が漲っていたのも当然のことだろう。
 そう、この仕事を完遂する為に、今まで地道にキャリアを積み上げてきたのだ……そう思える程にやり甲斐を見出し、積極的に取り組んでいた。連日、深夜まで激務が続くのに、精神的な充実は肉体にも活力を生み出し、生活リズムもむしろ整っていた。
 名無し草は青々と生い茂り、張りのある葉を生き生きと伸ばしていた。

 しかし、僅か数週間後、事態は急変した。
 予想も出来なかった急激な為替の変動により、私のプロジェクトは座礁に乗り上げたのだ。勿論、それは私の責任ではない。ただ、運が悪かったとも言えるし、経済状況を読みきれなかった上層部の責任でもある。だが、私への風当りは厳しくなった。
 事実として、会社に莫大な損失が生じたことには違いないし、その損失を生んだプロジェクトの責任者が私だったのだ。
 否応無く、プロジェクトは無期延期となったのだが、それでも、むしろ仕事は残務処理に追われ、更に忙しくなった。モチベーションの保てない激務は、精神的にも肉体的にも、最も負担が大きいのだ。生活のリズムは崩れ、不眠症になり、食生活も乱れていた。
 毎日寝つきも目覚めも悪く、体が重く感じた。常に苛々していた為か、気が付けば慕ってくれていた部下には距離を置かれ、上司からの信頼も失っていた。人のシグナルを読み取るゆとりも気力も、完全に失くしていたのだ。
 しばらく放置気味になっていた名無し草は、私の精神状態に同期したかのように、萎れ出していた。大きな鉢の隅の方から、いつの間にか雑草が生い茂っており、若葉は全て虫に喰われていた。
 正直な所、名無し草に構っている時間などなかったのだ。それでも、枯らさないように気を付けてはいたのだが、もう見込みがないと思える程に萎れてしまっていた。

 ようやく仕事がひと段落したところで、杉本君にお願いし、一度名無し草を見てもらうことにした。
 休日にやってきた杉本君は、大胆に思える程、名無し草を切り始めた。葉も枝も、こんなことしてもいいのだろうか? と見ていて心配になるぐらい、バッサリと切り落とした。
 そして、土を掘り返し、根も太い部分だけを残し、細い根がモジャモジャ絡み合っている部分を切り捨てた。更に、土を変え、遅効性の肥料を土中に埋め込んだ。
 会社では、人事異動により事実上の降格となった。しかし、むしろそのことが幸いに転じた面もある。部署の解体と転属により、いつしかキャパを超えてまで抱え込んでいた様々なしがらみや重圧から解放され、心機一転、新鮮な気分で仕事にやりがいを見出すことが出来るようになったのだ。
 杉本君とは、その後頻繁に会うようになった。私の異動により、今はもう直属の部下ではない。だからこそ、人目を気にすることもなく、休日も一緒に過ごす日が増え、いつしかお互いに特別な感情を抱くようになった。
 名無し草は、少しずつ元気を取り戻し、安定したコンディションと柔和な表情を見せてくれるようになった。そんな折、名無し草に大きな変化も起きた。
 ある朝のこと、見たことのない新芽が、葉の脇から顔を出していたのだ。確か、上手く育つと花が咲くと言っていた。もしかすると、これは花芽かもしれない。期待に胸を膨らます自分がいた。

 数週間後、私は杉本君にプロポーズした。もっとも、その頃には杉本君ではなく「ゆかり」と名前で呼ぶようになっており、互いに特別な存在として想い合っていたのだが。
 ゆかりは、にっこりと微笑みながら、快く受託してくれた。
 その翌朝、名無し草は大きな一輪の花を咲かせた。

 いつしか、結婚して二年が経っていた。
 ある日のこと、名無し草の根元の土が、こんもりと盛り上がっていることに気付いた。
「おい、ゆかり、ここ見てよ! これこれ、土が盛り上がってきてるよ、ほら、ここ、新芽が出てくるんじゃない?」
「……」
「なぁ、ゆかり、ちょっと見てよ!」
 しかし、今のゆかりは、名無し草に関心がないようだ。神妙な顔つきで、しゃがんで鉢を覗き込む私を静かに見下ろしている。ほんの数秒の沈黙の後、ゆかりは意を決したように話を始めた。
「ねぇ、あなた……実は、私ね、昨日病院に行ってきたんだ……」
「えっ? どうしたんだ? どこか具合でも悪いのか?」
 不安と心配と驚きが入り混じり、ただ戸惑うだけの私を尻目に、ゆかりは、先程までのシリアスな表情を一転させ、何とも照れくさそうな微笑みを浮かべていた。
 優しく、愛おしく、自らのお腹をさすりながら。



(了)