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家族人形

(本作は977文字、読了におよそ2〜3分ほどいただきます)


 愛する我が子を亡くした悲しみは、計り知れないものだ。現実に直面出来ず、途方に暮れるだろう。
 それは、私達夫婦も例にもれなかった。妻は、突然の悲劇を直視出来ず、現実から逃避し続け、やがて精神に異常をきたした。すると、愛娘が肌身離さずに可愛がっていた人形に目を向け、空想が織りなす危険な解決へと収束した。しかし、そのベクトルは、とても脆く危うく、そして、悲哀だけを向いている。
 どうやら、妻は、その人形に生前の娘を投影したようだ。その幻想から陥る歪んだ錯覚は、妻の中では実像へと変換された。毎夜、我が子にしていたように優しく頭を撫で、そっと髪を梳き、穏やかに話し掛けた。口元に優しい笑みを浮かべ、慈愛に満ちた表情で、人形を寝かし付けた。
 朝になると、服を着せ、食事を与え、一緒に音楽を聴いた。買物に出掛ける時も一緒だ。そして、夜になると、また絵本を読み聞かせながら寝かし付けた。



 いずれ、妻は気付いてくれるのだろうか? いかにして、妻に真実を話すべきなのだろうか? 果たして、理解出来るのだろうか? もう元には戻れないのだろうか?
 私は、己の無力を嘆いた。愛する娘を失い、愛する妻は壊れた。悲しみに暮れる間もなく、日常は過ぎ去っていく。とても静かに、そして、慌ただしく。
 時は、心の隙間には何も充填してくれない。ただ単調に、その上を通過していくだけ。ポッカリと空いた心の穴を、感情と理性が、立ち止まることなく吹き抜けていく。
 そして、また、己の無力を嘆いた。



「……つまり、ご子息は、お嬢様が死んだと思い込んでいるのです。奥様が亡くなられたことが受け入れられず、人形に奥様の姿を投影してるのでしょう。愛する娘を失い、人形を娘だと思い込んでいる哀れな奥様を思い描き、ご子息は人形を通じて演じているのです」
「……」
「要するに、自分が操る人形を、奥様だと思い込んでいるのです。彼の中では、奥様ではなく、お嬢様が死んだことになっています。その矛盾を解消する為に、実際のお嬢様を人形だと思い込み、生きてる奥様が人形の世話をしている……ご子息の中では、そうなっているのですよ」
「……」

 男は、寡黙な相手と向き合い、抑揚のない、それでいて紳士的で静謐な口調で話している。決して諭すでもなく、説得するでもなく、ただ丁寧に説明することだけに専念していた。

 人形に向かって。