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訳者あとがき②『チョピンの情熱』

(本作は2,114文字、読了におよそ4〜6分ほどいただきます)


 公団車文庫の編集長A氏から突然電話があり、「面白い本を見つけた」と聞いた時、率直なところ嫌な予感が脳裏を支配した。と言うのも、その数ヶ月前、彼の依頼で翻訳することになったズボラ・デ・タラメーノ著「ビースオベーンの生涯(La Vita di Beethoven)」(絶版)での、ほろ苦い記憶が蘇ったためだ。
 この仕事以降、今度こそ二度と翻訳はしないと公言していた私ではあるが、A氏の顔を立てるべく、読むだけは読んでみようと決めた。しかし、それがどういう訳か(或いは、A氏の策略だったのか)受託の返事と誤解され、気付いた時には翻訳出版化が引き返せない状況になっていたのだ。  
 実は、この本はこういったネガティブな経緯を経て、どうにか出版される運びとなったのである。

 さて、本書「チョピンの情熱(Appassionata di Chopin)」は、1950年にイタリアで出版され、ヨーロッパでのチョピンブームのきっかけとなったとも言われている、チョピンの人間的魅力に焦点を当てた「官能的歴史小説」である。
 作者は、北欧系イタリア人のシモーネ・タスキ(Simone Taski)で、チョピンの華やかな社交界での生活や超絶的な技術について、女性ならではの視点で掘り下げた、歴史的にも貴重な資料と言えよう。  
 いや、個人的にはこれは結果として知ったことであり、正直なところ私はチョピンという人物について、何の前知識も持ち合わせていなかったのだ。しかし、原書を読み解くに連れ、チョピンの官能的な魅力に引き込まれていくことになった。

 本書でもしばしば取り上げられているのだが、特筆すべき彼の特徴は、並外れた指技にあったようだ。彼は、十指をとてもしなやかで自在に操り、その情熱的で超絶的なテクニックは、あらゆる女性を官能の淵へと導き、恍惚とさせたのだ。
 そのタッチは、時には優しく撫でるように、また時には激しく荒々しく……紳士と野獣を演じ分けるかのような、繊細さと力強さを臨機応変に駆使する彼のテクニックの前では、世界中のどのような女性も満足したであろうと言われている。
 しかし、彼は自身の神憑かり的な指技に固執することはなく、むしろ情緒的且つロマンティックに女性の心理を揺さぶることを重要視し、その術に長けていたようだ。これは、今昔問わず、世の女性にとっては大切なファクターである。このようなチョピンの考えは、そういったシチュエーションに挑む際、単に経験やテクニックを競うかのようにそれらを誇示し、それらに頼り過ぎる傾向のある現代の男性諸氏へ向けた警笛とも受け止められ、興味深い。

 私にとって、本書のような強いエロティシズムを漂わせる文学は未経験であり、新境地とでも言うのだろうか、不慣れな点も多く、翻訳作業は苦労の連続であった。
 その為、翻訳そのものに労力を集中せざるを得ず、本来なら最も時間を掛けるべき下調べを、疎かにしてしまった感は否めない。
 チョピンの人物像についても、少しぐらいは調べておくべきだったと反省している。そこで、せめてもの罪滅ぼしと言おうか、ここでチョピンについて、後に知ったデータを参考資料とて紹介させて頂く。

 まず、チョピン(Chopin)は、ポーランド生まれの実在した音楽家であり、正式にはショパンと発音するらしい。音楽に疎い私にとっては馴染みのない名前であるが、十九世紀半ばにヨーロッパを舞台に活動した、作曲家兼ピアニストだったそうだ。また、生活の為に、主に上流階級のご婦人方を相手に、ピアノの個人レッスンも数多くこなし、生涯を通じピアノ曲を中心に、数多くの作品を残したと言われている。
 現在の日本においても、しばしば彼の作品は演奏される機会があるらしく、知る人ぞ知る名曲もたくさん残しているようだ。

 以下、ショパンの人生を詳細に書き記した名著、シモン・テイシュキー著「情熱のショパン(Simone Taski / Appassionata di Chopin)」より、一部引用させて頂く。

「ピアニストとしての特筆すべき彼の特徴は、並外れた指遣いにあったようだ。彼は、十指をとてもしなやかで自在に操り、その情熱的で超絶的なテクニックは、あらゆる聴衆を官能の淵へと導き、恍惚とさせたのだ。  
 そのタッチは、時には優しく撫でるように、また時には激しく荒々しく……繊細さと力強さを臨機応変に駆使する彼の演奏の前では、世界中のどのような聴衆も満足したであろうと言われている。  
 しかし、彼は自身のスキルに固執することはなく、むしろ情緒的且つロマンティックに、聴衆へ訴えかける演奏を重要視した。これは、今昔問わず、つい技巧に走りがちな世のピアニストに対する警笛とも受け止められるだろう」(引用ここまで)

 最後に、本書出版に当たり、毎度の如く期日から大きく遅れながらも、忍耐強く待ってくださった公団車文庫のA氏、また、理解を深める為にチョピンの指技を試してみたいと思った私に協力してくれ、自ら被験者となってくれた妻の美智子に感謝の意を表明し、あとがきとさせて頂く。

2007.X.X イタリアントマトにて 訳者