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ガーゼカウント

 年間に述べ数百件の家庭を訪問し、時には一つ屋根の下、人妻と二人っきりで数時間を過ごすこともあるピアノ調律師の仕事は、そこだけを悪意で切り取ると特殊な職業に映るかもしれない。特に、男性調律師の場合は憂慮すべき問題だろう。ピアノの音合わせを行うという大前提の元とは言え、公然と日中に他人の家庭へ上がり込み、数時間も人妻と二人っきりで過ごすことも当たり前なのだから、客観的事実だけを抽出すると、不適切な関係にも誤解されかねないだろう。
 女性調律師にとっても、男性客と二人きりで数時間過ごすことは、色んな意味で危険なことでもある。
 勿論、実際のところは、調律師と顧客の関係なんてそんな艶かしいものではない。これといった決まった型もなく、個々に応じて多様な関係を築いているのが実情だ。

 例えば、殆んどピアノを使っておらず、それでも執拗な説得に負け渋々調律を依頼する人は、調律師のことを言葉巧みに大金をかっさらっていく悪人と見做しているかもしれない。
 一方で、子どものピアノ教育に熱心な親にとっては、ピアノ調律師は頼りになるアドバイザーであり、貴重な情報収集源にもなり得るのだ。また、プロのピアニストやレスナーとなると、自分の相棒とも言える愛器を好みにセットアップし、コンディションを管理してくれる主治医のような位置付けになるだろうし、愛好家にとってもメンテナンスの相性は重視されるものだ。

 また、調律師と顧客の関係は、ピアノを媒介したものだけとも限らない。つまり、仕事を抜きにした関係に昇華するケースも珍しくないのだ。お客様のご家族と交際に発展し、結婚にまで至った事例も幾つか知っているし、友人としてプライベートでも親密な間柄になった人も結構いるものだ。
 私の場合は、ありがたいことに、何人かのご年配のお客様に、娘や姪のように可愛がってもらえることがある(いや、あった)。特に、結婚する前はその傾向が顕著だ(った)。
 同年代のお客様だと、作業後のトークタイムは、今も昔も完全なティータイムのようなものだ。時には、一時間以上も話し込むことがある。子育てやファッション、女性特有のヘルスケア、旦那の愚痴など、ピアノとは全く関係のないテーマの女子トークに終始することも珍しくない。
 独身の時は、それこそ縁談を持ち込まれることもしばしばあったし、家庭菜園の野菜を食べ切れないほど持たされたり、時間帯によっては昼食や夕食が準備されていて、ご一緒することも珍しくなかった。
 考えてみると、年に一度、或いはそれ以上の頻度で何年も継続して会う人って、大人になるとそう多くもないだろう。そう思うと、年賀状のやり取りだけで何年も会ったことのない親戚より、ずっと親密な関係になっても不思議ではない。実際に、毎年会うことを楽しみにしているお客様もたくさんいるし、仕事とは関係のない用事でお誘い頂くことも結構な頻度である。家族、親戚、友人、恋人……そのどこにも属さないカテゴリで、尚且つ、顧客と事業者という間柄からは完全にはみ出した関係を築いているのだ。

 仕事中のお客様の様子も、千差万別だ。自分の家なのに、居場所がないかのようにソワソワと落ち着きを失う人もいれば、「終わったら声掛けてくださいね」と告げて別の部屋に移動する方も多い。信頼なのか無頓着なのか「一時間ぐらいで戻りますので」と言って、調律師一人自宅に残して外出する人もいる。不安なのか警戒なのか、見張るかのように同室で時間を潰す人もいる。普段通りに黙々と家事を熟す人も多い。
 そういった多様な対応の中でも、仕事上一番困るのは、作業に入っても中断なく話し掛けてくる人だ。単なるお喋りなのか寂しいのか、退屈な日常のちょっとした刺激になるのだろうか、或いは静寂や沈黙が耐えられない人なのか、理由は定かではないにしろ喋り止まない人もいる。
 言うまでもなく、ピアノ調律師の仕事は聴覚情報が最も重要だ。特に音合わせの作業は、ピアノの音だけに集中したい。余計な音の干渉は、時には仕事の妨げになる。だが、よく喋る人ほど、何故かピアノと同室でテレビや掃除機を使う傾向がある。おそらく、気遣いや配慮の欠如というよりも、単に「鈍い」のだろう。とはいえ、必要な二音の間に生じる波動の唸りを適切化する作業に於いて、そこに関係のない音が絡むと、時として調律不能状態に陥ることも事実なのだ。



 六十代後半に差し掛かろうとしている横田恵(仮称)は、毎年定期的に調律をご依頼くださる、ありがたい顧客の一人だ。
 数年前にご主人に先立たれた恵は、突然趣味としてピアノを習い始めた。スタンダードタイプの中古の縦型ピアノを購入し、いわゆる六十の手習いで近所の教室に通った。全くの初心者だった恵だが、根気と意欲は漲っており、五年が経つ頃には初心者向けにアレンジされた美空ひばりのヒット曲や映画音楽集などから、覚束ない指使いながらも数曲弾けるようになった。

 生真面目で潔癖症の恵は、毎年三月になると必ず調律を依頼してくれた。殆んどの顧客はこちらでデータを管理し、時期が近付くと恐る恐る調律の伺いを立てるのが一般的だ。しかし、恵に関しては、こちらから調律の打診をしたことは一度もない。必ず向こうから電話をくれるのだ。何よりも「アポ取り」が一番大変な業務である我々調律師にとって、恵はとても有難いお客様なのだ。
 しかし、横田恵宅への訪問調律は憂鬱でもあった。彼女は、いつもピアノと同室にあるテレビを付けたまま、作業中もどうでもいいような世間話を絶え間なく続けるのだ。
 基本的に、最低限の接客マナーとして、お客様を無下にすることは出来ない。だからと言って、時間と環境は変えられない。肝心の調律作業がおざなりになるなら、本末転倒だろう。何度となくテレビの音を消してもらうように頼んだり、せめて音合わせの間だけでも静かにして欲しいことをそれとなくほのめかしてはみるが、彼女には一向に効果がない。テレビも消さなければ、話も止まらない。
 そのうち、私も諦めの境地まで引き下がり、最低限の仕事を遂行すればいい、と切り替えるようになった。集中出来ない環境なりに、出来ることをやればいい。いや、そうするしかないのだ。

 ある年のこと。厳しい残暑も勢力を衰退させ、朝晩は少し冷えるようになった頃、突然横田恵から電話が掛かってきた。
 彼女の定期調律は三月なので、こんな時期に掛かってくるということは、何かのトラブルだろう。話を伺うと、予想通り鍵盤が急に動かなくなったとのこと。ただ、それだけだと原因は何通りも考えられるので、見てみないことにはどうしようもない。なので、翌日の夕方、最後の調律客の後に急遽訪問させてもらうことになった。
「急に呼び立ててしまってすみませんねぇ」と言葉とは裏腹に、全く申し訳なく思ってる様子が皆無の恵に迎えられ、早速ピアノを見せてもらった。すると、真ん中の1オクターブぐらいの範囲で、酷いキースティックを起こしていた。

 ちなみに、スティックとは、動きが鈍くなる症状のことをいう。恵のピアノは、中音域の鍵盤が下がったまま上がらなくなっていた。強引に指で摘んで引っ張り上げても、再度その音を鳴らすとまた下がったままになる。
 これは、鍵盤の裏側に貼られているフロントブッシングクロスと呼ばれる羊毛製の部品が、湿気により膨張したと考えるのが一般的である。しかし、真ん中の1オクターブぐらいだけに発症し、他は全く異常がない。環境に問題があるのなら、全体に満遍なく発症することが多い。そうじゃなくても、最低音部や最高音部など、あまり演奏に使われない音域の方が影響を受け易い。だが、横田恵のピアノは、最も影響を受けにくい中音域の1オクターブが極端なスティックを起こしている。となると、考えられる理由は一つしかない。

「すみません、この辺に水をこぼしませんでしたか?」
 すると、「さすがよくお分かりね! 薬を飲もうとして、コップの水をドバッとこぼしちゃったわ」と平然と答えた。
「でも、すぐに拭いたわよ」と、それで過失が帳消しになるとでも思っているかの様な口振りで、全く反省の色も伺えない。
「えぇと……すぐに拭かれたのは正解ですけど、隙間から中に染み込んだ水は、表面を拭いても意味ないですよ。これはね、中のフェルトが膨張しちゃったんです。この部分だけ、調整しないとダメですね」
「でも、ホントすぐに拭いたのよ」
 ちゃんと話を聞いていたの? ……過失の認識と反省を感じない返答に、どうしても私の心中はイライラとモヤモヤに占領されていく。いや、認めるとか反省するとかではなく、それ以前に全く話を聞いていないのだ。ここで、言い合っても仕方がない。兎に角、故障しているので調整すると宣言し、料金を一方的に伝え、仕事に取り掛かった。それが適切な対応か否かを論じる気もない。そうでもしないと、何時まで経っても始められないのだ。
 そもそもが、息子のお迎えや夕食の支度を無理言って旦那にお願いし、夕方に無理矢理捩じ込んだ仕事だ。早く終わらせたいし、早く帰りたい。どうでもいい無駄話に付き合う気はなかった。

 横田恵は、相変わらず大音量でテレビを付けている。ただ、この日は音合わせの作業はない。膨張した鍵盤ブッシングクロスを専門工具で圧縮する調整なので、聴覚は必要ない。視覚と触覚に委ねる作業だ。
 だから、テレビの音なんて何の影響もない……理屈ではその筈だ。なのに、やはり気が散って集中出来ない。それに、膨張した部品はブッシングクロスだけでなかった。パンチングクロスという、鍵盤の底に敷かれたドーナツ型のクロスも膨張して厚みを増しており、その分、鍵盤のストロークが減少し、タッチが浅くなっていたのだ。

 このパンチングクロスは、圧縮調整が効かない部品だ。なので、鍵盤の深さは、パンチングクロスの下に敷かれてある数種類の様々な厚みの紙パンチングを抜き差しして、0.01mm単位で調整するようになっている。そこまでの精度を求められることは稀だとしても、僅か0.1mmにも満たないストロークの差はアクションの動きに大きく影響し、時に不具合を引き起こすこともあるのだ。
 そんな繊細な調整が必要な箇所に於いて、横田恵のピアノは1mm近くも浅くなっていた。これは、調律師から見ると致命的な狂いだ。厚い紙パンチングをゴッソリと抜いて調整しようにも、その決断は容易に下せない。というのも、この膨張が一時的な可能性もあるからだ。
 つまり、そのうち水分が完全に抜けた時に、元の厚みと全く同じにはならないだろうが、それに近い数値に戻る可能性は十分に考えられる。そうなると、逆に1mm近くも深いタッチになってしまうだろう。つまり、この状態での調整は、あまりにもリスキーだ。でも、このままではリバウンド(二度打ち:一回の打鍵で二回以上発音してしまう症状のこと)が起きる可能性が非常に高い。

 では、どうすべきだろうか?
 幾ら考えたところで、答えは一つしかない。パンチングクロスを取り替えるしかないのだ。幸い、一台分のパンチングクロスは、常に車に乗せてある。交換するなら、水が掛かった音だけではダメだ。クロスの質感がまるで違う為、深さを揃えたところで、弾いた時の感触は揃わないのだ。やるなら、八十八鍵全部交換しないといけない。
 もっとも、そんな繊細なタッチの違いに、恵が気付くとも思えない。部分的な交換でもまずバレないだろう。だが、これは恵やピアノの為ではなく、調律師としてのプライドの問題だ。一部分のみの交換は、どうしても抵抗がある。なので、全鍵分の交換をすることにした。
 その為、十分程度で終わるはずだった作業が、かなり面倒な調整になってしまった。小一時間は掛かるだろう。その間もテレビは付けっ放し——ただ、いつもと違うのは、恵がテレビに熱中しており、私に話し掛けてこないこと。個人的には全く見なくなった夕方のニュース番組も、ネットを見ない人には今でも貴重な情報源なのだろう。
 視覚と触覚をフリーに使える状態が保証されていても、必要のない聴覚から余計な音と情報が通過すると、なかなか作業に集中出来ない。私がまだ未熟なのだろう。でも、もっと過酷な環境での仕事も経験している。それに比べたら……この違いは、仕事の重要度とやり甲斐に起因しているのかもしれない。
 ともかく、苛つきながら作業を続けた。息子も待っているだろうし、旦那もきっと疲れた体に鞭打って、苛々しながらワンオペ育児に翻弄しているだろう。気持ばかりが急いて、ミスやモタつきを連発し、更に苛立ってしまうという悪循環に突入していた。



 その頃、ニュース番組では医療事故を取り上げていた。ある男性の体内に、何十年もの間ガーゼが残っていたらしい。別の手術時に発見されたそうだが、数十年の間に取り残されたガーゼは異物性の肉芽腫となり、臓器に癒着し、摘出が大変だったそうだ。
「これって、ガーゼオーマって言うんでしょ?」
 唐突に恵が話し掛けてきた。ガーゼオーマって言うんでしょ?  って私に確認されても、何のことなのかさっぱり分からない。
 そもそも、テレビの音声は否応にも聞こえてくるが、真剣に音声を拾っているわけではない。むしろ、シャットアウトしたいぐらいなのだ。勿論、画面は全く見ていない。なのに、まるで一緒に鑑賞を楽しんでいるかのような口振りに、内心ウンザリした。いやいや、あなたの所為でこんな時間に緊急の仕事ヽヽをしているんでしょ? 少しぐらい黙っててよ! と口から出掛かった台詞を辛うじて飲み込んだ。

「主人にもガーゼオーマがあってね……まぁ、癌の手術だったんで、無視されたけどね」
 だから、ガーゼオーマって何なの? と聞きたいのを堪え、そうなんですね、と適当に相槌を打っておいた。
 すると、恵は勝手にペチャクチャと喋り始めた。いつものパターンに突入だ。テレビも付けっ放しで、音量も下げない。こちらは必死に平常心を装いながら、繊細な調整作業中。それなのに、大声で一方的に話し続ける。まるで独演会だ。
 私の苛立ちもピーク寸前、ストレスとプレッシャーがイージーミスを誘発する。早く終わらせようと、勝手に焦る。焦りがまたミスを生み、更に苛立ちが積もっていく。なかなか平常心が保てない。悪循環の回転速度が増していく。

 一方で、この日に限り、恵の話はそれなりに興味深くもあった。
 彼女によると、ガーゼオーマとは、体内に残されたガーゼから発生した腫瘤状変化のことらしい。オーマとは、腫瘍や腫瘤を表す接尾語だが、「ガーゼオーマ」は異物性の肉芽腫のことで、厳密には腫瘍とは全く違うそうだ。だが、臓器に癒着したガーゼオーマは、CTやエコーでは腫瘍のように見えることから、このようなネーミングになったらしい。
 こういったガーゼや器具を体内に置き忘れる医療ミスは、意外と多い。もちろん、その対策も年々進歩してはいる。例えば、もっとも置き忘れの多いガーゼは、最近はX線に写る素材が使われるそうだ。病院によっては、術後にX線写真を撮り確認するそうだが、そうじゃなくても健康診断等で見つかる可能性も高くなる。少なくとも、この日の報道のような何十年も気付かれないまま放置されていたという事例は、今後間違いなく減っていくだろう。

 そして、今も昔も行われている何よりも有効な防止策は、数を数えることだ。この方法を、ガーゼカウントと呼ぶ。
 これは、術前と術後のガーゼの枚数を数えるという、至ってシンプルでアナログな方法だが、結局のところ、これが一番有効な手立てには違いない。
 しかし、ガーゼカウントは何処の医療機関でも必ず行っているにも関わらず、何故体内置き忘れの医療事故は発生するのだろうか? この理由は二つあるのだが、どちらも本質的には同じ要因で、信じ難いぐらい単純なことだ。
 つまり、数え間違えたのだ。
 一つには、術前に用意した数、或いは術後に使用した数を数え間違えたケースが挙げられる。五十枚用意したつもりが、実際は五十一枚あったのなら、術後に一枚無くなっていても気付かないだろう。また、単純に術後の数え間違いというケースもあるらしい。
 もう一つの数え間違いのパターンは、術中にガーゼを追加した場合だ。急な容態の変化など予想以上に出血量が増え、術中にガーゼを追加することも珍しくない。しかし、その追加分の枚数を数え間違えると、同じようにミスが起きることもある。

 ただ、誰かが数え間違えたにしろ、実際に体内に置き忘れるのは執刀医に他ならない。現場の雰囲気やその時の執刀医のコンディションも、ミスを誘発する原因となり得るだろう。医者も人間だ。例えば、気の利かない鈍臭い看護師がアシスタントに入れば、苛つくこともあるだろう。或いは、たまたま体調が優れなかったのかもしれない。寝不足や疲れが蓄積されていたのかもしれない。
 いずれにしても、これはイージーなヒューマンエラーなのだ。数時間以上、長ければ十時間以上にも及ぶ繊細な手術は、執刀医も看護師も心身ともに疲弊を極めるだろう。どれだけ優秀な人材も、へとへとの状態ではプリミティブなミスも起こしがちだ。
 もちろん、命に関わる恐れもある医療ミスは、どんな些細な事例も許されてはいけない。そこを否定するつもりはない。だが、それを不注意だと一刀両断するだけではなく、最善を尽くす為、心身ともに限界まで磨り減ったコンディションに起因するという、一定の擁護すべき点も無視してはいけないだろう。

 横田恵の旦那、横田忠行は、数年前に大腸癌で亡くなったそうだ。よく聞く話でもあるが、忠行の場合も気付いた時には末期だったらしい。緊急の摘出手術の際、忠行の体内でガーゼオーマが見つかった。それまでに、忠行は手術の経験が一度しかなかった。五十歳になったばかりの頃、虫垂炎により、盲腸を摘出したのだ。その時に、置き忘れられたのだろう。いや、それしか考えられないのだ。
 忠行のガーゼオーマは、幸い小腸の裏側に癒着しており、自覚、不自覚問わず、健康被害は見受けられなかったようだ。大腸癌との因果関係も、まずないだろう。何より、本人は自分の体内にずっとガーゼがあったことすら、知る由もない。
 とは言え、これはれっきとした医療ミスだ。見つかったことは幸いだったのだろうが、摘出が困難な場所で、尚且つ、癌の摘出手術中の発見だ。忠行のガーゼオーマは、執刀医のギリギリの判断で、そのまま放置することになった。

 恵は、当時虫垂炎の手術を行った病院へ出向き、忠行のガーゼオーマの話をした。幸いなことに、恵の実弟が現役の弁護士なのだ。他に手術の経験がなく、ガーゼオーマの場所から判断しても、その時の手術の際に置き忘れたことは明白だ。そして、弁明しようのない証拠が、今尚忠行の体内に残っている。
 病院側は、評判に直結する訴訟を最も恐れている。なので、うちうちにお見舞金の支払いと、誠意ある謝罪により示談にしないかと申し出てきたそうだ。忠行の先が長くないことを聞かされていた恵は、元より裁判で争うことなんて念頭にはなく、もっと言えば、金銭を要求するつもりも全くなかったそうだ。ガーゼオーマも、もう摘出することはないだろう。それでも、医療ミスという重大な過失を認め、謝罪をして欲しかったのだ。
 そんな恵にとって、病院が提示してきた条件は、まさに渡りに船。しかも、お見舞金の額が、予想外の大金だったらしく、ただただ驚いたとのこと。その上、公式な謝罪も条件に含まれていたのだから、恵は二つ返事で受け入れることにした。そればかりか、臨時収入に大喜びし、不謹慎ながらも「旦那からボタモチ」とか「体内からボタモチ」なんてくだらない駄洒落を言っていたそうだ。誰も笑えず突っ込めないネタに、きっと周りは凍り付いただろう。
 唯一、恵の悪趣味な駄洒落を微笑みながら聞いていた忠行は、その数ヶ月後に他界した。

 興味深い話とは言え、仕事中は積極的に会話に参加したくない。どうしても集中を欠いてしまうし、簡単な手順を間違えたりもする。
 それでも、「どんな理由であれ、プロがそんなミスをしたら駄目ですよね」なんて、適当に話を合わせ、意見らしきものも挟み込む。無視を貫くよりは、ずっとマシな対応だろう。仕事の邪魔でしかないが、一方的に喋られるのもストレスが溜まる。まだ中身のない会話の方がマシなのだ。
 そして、何とか調整を終えると、鍵盤はスムーズに動くようになった。予定時間からは大幅に遅れ、精神的にとても疲れていた私は、早く帰りたい気持ちもますます強くなり、大急ぎで工具を鞄に詰め込み、外装を取り付け、後片付けを行った。
 恵に試弾してもらうと、普通に動くようになった鍵盤に満足してくれた。くれぐれも水には気を付けてくださいね、と改めて忠告すると、でも直ぐに拭いたんですよ……と、まだそんなことを言っていた。私の疲弊バロメーターは、頂点に達した。



 それから一週間程経過した頃、別の現場で鍵盤のフロントパンチングを交換することになった。横田恵のピアノとは違い、こちらは虫喰いが原因だ。
 しかし、その作業は順調にはいかなかった。というのも、工具がなかったのだ。具体的には、パンチング交換に使い易いように先端を薄く加工した、オリジナルのピンセットが工具鞄に入ってなかったのだ。
 仕方ないので、別のピンセットで代用したが、やはり慣れない工具での作業は手間が掛かる。不思議なことに、結果的に要した時間はそれ程変わらなかったのだが、もどかしい作業はイライラが募り、何倍もの時間が掛かったような錯覚に陥った。少なくとも、精神的な疲労は数倍掛かっていた。

 さて、ようやく調整は終わったものの、次なる大きな課題が私の前に立ちはだかっていた。横田恵のピアノの中に置き忘れたであろうピンセットを、どうやって取り戻すか考えなけらばいけない。
「どんな理由であれ、プロがそんなミスをしたら駄目ですよね」
 あの時、どうしてそんな余計なことを口走ってしまったのだろうか。よく「ピアノの医者」と比喩される調律師にとって、ピアノ内部への工具の置き忘れは、件の医療ミスと大差ないではないか。
 確かに、あの日は想定外のことが重なった。そもそもが、訪問した時間帯も遅かった上、無理を言って旦那に息子を任せているという負い目もあった。その為、ついつい慌てて片付けをしたので、細かく工具のチェックをしなかった。普段なら、使った工具は必ずチェックするように心掛けているのだが、焦りと苛立ちから、通常のルーティンを見失っていたようだ。
 おそらく、ピンセットは鍵盤の下に置き忘れたのだろうが……まぁ、忠行の体内に取り残されていたガーゼと同じで、ピアノの中にピンセットが入っていることなんて、誰も気付くことはないだろう。
 しかも、幸か不幸か、ピンセットはガーゼとは違い、「ピンセットオーマ」にはならないだろう。下手に架空の言い訳を並べて摘出丶丶に伺うより、次回の調律時にコッソリ取り出す方が無難かもしれない。

 機具等を体内へ置き忘れるという医療ミスは、やはりイージーなヒューマンエラーが原因であると身をもって証明した。もちろん、ガーゼカウントも重要な防止策だ。だが、きっちりとガーゼカウントを行っていても、エラーは発生する。そして、ガーゼカウントは、ミスを防ぐ丶丶丶丶丶システムではなく、ミスがないか確認する丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶為のシステムなのだ。
 調律師も、自分の工具ぐらいはしっかりと管理しないといけないはもちろんのこと、ミスそのものをなくす為に気を引き締めないといけないだろう。確かに、今回は医療の「ガーゼカウント」に相当する「使った工具の確認」を怠った。だが、それはエラーの原因ではない。そもそも置き忘れていなければ、確認の有無に関係なくエラーは発生しないのだ。
 テレビが煩かったとか、予定と違うアクシデントが発生したとか、旦那と息子を待たせている負い目があったとか、ずっと話し掛けられて鬱陶しかったとか、プロならば、一切を言い訳にしてはいけない。自戒と反省をもってこそ、次に繋がる成長の糧となる。繰り返すが、「ガーゼカウント」を怠ったことが問題ではない。工具をピアノの中に置き忘れたのは、他ならぬ私のミスであることは真摯に認めないといけない。

 しかし、横田恵は、仕事に集中出来ないぐらいに大音量でテレビを付けっ放しにし、大声で喋り掛けてくる人なのだ。



(了)