心身一如

「心身一如」なんて言葉もありますけど、心と身体、つまり精神と肉体は一体であり、分けることは出来ないものである、という考えは、東洋文化に根付く思想かもしれません。
 東洋医学、仏教、ヨガなどに共通した考えで、心と身体を分別させず、一つのものと捉え、両面性や相補性を重視するものです。

 一方の西洋文化は、宗教でも医学でも、基本的には心と身体は切り離して考えられてきました。
 元を辿れば、デカルトの「心身二元論」からと言われているそうですが、要は「心は心、体は体」という二元性を重視しているのです。
 日本と比べ、欧米では「精神科・心療内科」が発展しているのも、おそらくはこの影響でしょう。
 しかし、近年では、東洋的な考えが浸透しており、特に医学では「心身一如」の考えも受け入れられ、取り入れられるようになってきたと言われているそうです。
 だからと言って、東洋医学の方が先を行っているという意味ではありません。そもそも、優劣や真偽の話ではありません。
 むしろ、医学は東洋医学より西洋医学の方が「科学的には」進んできました。でも、どちらが優れているとか正しいとかではなく、思想の差異のトピックです。将来的には、また違う考えが主流になっている可能性もありますし、そういった柔軟性こそ進化を推し進める土台になるはずです。現に、日本では逆に心療内科が増えています。
 こういう過去の伝統や風習にとらわれ過ぎずに、違う考えや新しい発想を柔軟に取り入れている限り、医学はまだまだ進化していくだろうと思うのです。

 話が逸れましたけど、心身一如(「身心一如」と書くこともあります)の考え方は、この言葉を知らなくても日本人には DNAに組み込まれているのでは? というレベルで浸透していると思うのです。良くも悪くも「精神論」や「根性論」に通じるものでもあります。
 中学生の頃、授業中に「暑い」と言えば、「集中してないからだ!」と叱られました。「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんて言葉を返されたこともあります。
 法事などで正座を強要され、足が痺れるのは、根性が足りないのです。徹夜の業務をこなせないのは、やる気がないからです。夏場のスポーツの練習中に水を飲むのも、甘ったれた行動なのです。痛いのは我慢、多少の熱は気合い、軽度の頭痛や腹痛は気にしてはいけない、酒は飲めて一人前……全て、フィジカルの足りない部分は、メンタルで何とかしないといけない、そんな「思想」が日本には根付いていたのです。
 流石に、近年になり「科学的根拠」という威厳に押し切られ、「根性論」は廃れつつありますが、それでもフィジカルの問題をメンタルで切り抜けようとする文化や哲学は、今なお刷り込まれていると思うのです。これもまた、心身一如と言えるのではないでしょうか。
 しかし、面白いことに、こちらは逆にデカルトの「心身二元論」へと修正されつつあります。肉体的な苦痛や疲労は、気合いや根性でカバーする時代じゃないのです。なぜなら、心身は別物ですから。
 徹夜で仕事を出来ないのは、やる気がないからではなく眠たいから。お酒が飲めないのは、体質の問題。心頭滅却しても室温は下がらないし、肉体の苦痛はメンタルでは乗り切れないのです。当たり前の話……ですけど、本当にそうと言い切れますでしょうか?

 心身の一如と二元論を行ったり来たりしていますけど、実際のところは、互いにシンクロしたり影響し合うこともあるけど、切り離して考えるべきケースもある、という、「どっちでもいいじゃん」というのが落とし所でしょうか。
 身も蓋もないことを言えば、「どうでもいいじゃん」とも換言できます。この記事は何なんだ? って話になってしまいますが。

 実際のところ、私は身体の不調が続いており、と言ってもそれは限定的なものであって、何不自由なく何の制限もなく動ける時間も沢山確保出来ているのですが、メンタルがどうしても上がらなくてnoteにあまり顔を出さなくなっている、という言い訳を書きたかったのです。
 心と身体は別物だとしても、絶対にシンクロすることもあるし、片方が片方に引っ張られることもあるのです。要は、身体がしんどいとやる気が出ないこともあるのです。デカルト嫌い。