見出し画像

訳者あとがき③『デブシー料理の味付け』

(本作は2,134文字、読了におよそ4〜6分ほどいただきます)


 私事ではあるが、ここ数年体調が優れず、具体的にどこが悪いというわけではないにしろ、倦怠感と虚脱感が慢性的に纏わりつくようになっていた。身体中、あちこちに綻びが目立ち始め、その所為か、いわゆる「キレやすい老人」のように、些細なことでも苛つくようになった。こんな老耄に自宅に居られると、堪ったものではないだろう。なので、同居する息子夫婦の負担を軽減すべく、また妻の美智子の後押しもあり、平日はデイサービスを利用するようになった。
 ある日のこと、デイサービスの談話室で老耄仲間と談笑していた際、突然彼が面会に来た。元公団車文庫編集長のA氏だ。そして、彼は「お互い隠居の身ですが、どうでしょう、最後に一冊、一緒にやりませんか?」と誘ってくれたのだ。

 A氏とは長年の親友でもあり、また、厳しい文藝の世界で異なる立場から切磋琢磨し合った戦友でもある。彼此九年前、私の翻訳によるシモーネ・タスキ著「チョピンの情熱(Appassionata di Chopin)」(絶版)の出版を最後に、A氏は公団車文庫を定年退職し、悠々自適の老後生活を謳歌していた。しかし、ここに来て昔の血が騒いだのだろうか、また本の出版を……今度は自費出版でやりたくなったそうだ。
 とは言え、彼は物書きではない。良書を世に送り出す使命感に駆られたところで、肝心の良書を書き下ろす術はない。一方で、彼は、未だ陽の目を見ずに埋もれている、隠れた良書を探し出す能力には人一倍長けている。本書、コゲッタ・ニモーノ(Cogetta Nimono)箸「デブシー料理の味付け(Condimento della creazione di Debussy)」も、彼がイタリアを旅行した際、ボローニャの古本屋で発掘した書物だ。

 翻訳を含めた全ての執筆業から身を引いて久しい私だが、A氏の熱意に胸を打たれ、また、現役の頃の緊張感が急に懐かしくなった。それに、デイサービスでのんびりと書く分には、なかなか良い時間潰しにもなるのでは? と思い、久しぶりに筆を取ることにした。本書は、私とA氏にとって、おそらく人生最後の共同作業となる、言わば「遺書」のような作品と言えよう。

 さて、本書はフランス近代の芸術家、デブシーの作品について、主に料理の味付けに特化した論述を分かり易く解析した、参考書とも呼べる論文だ。個人的には、デブシーなる人物は知らなかったのだが、フランス近代の音楽に大きな影響を与えた作曲家でもあり、フランス語読みで日本では「ドビュッシー」と表記されることも多いそうだ。
 また、本来は「(創作の)作品」と幅広い意味を持つタイトルの一語「creazione」を、本書の主旨に沿い、大胆に「料理」と意訳したことを追記しておく。これは、私なりにかなり思い切った決断ではあったが、結果的にデブシー料理の味わいが、より一層鮮明に伝わったのではないだろうかと自負している。

 本書にも書かれてあるが、デブシーの料理は、過去の伝統とは明らかに一線を画した新しい手法による独自の世界観が溢れており、同時期に活躍したマウライス・レイヴェル(Maurice Ravel)と共に「印象派」を確立し、後世に多大な影響を与えたと言われている。
 特にデブシーの料理はとても色彩的で、芳醇な香りが漂い、エスプリの効いた中毒性のある味わいがあったと言われている。適度なスパイスの刺激、辛味と甘味のバランス、滑らかな舌触り、上品でアッサリとした味付けによる軽快な歯応えは、気品に満ち溢れ、洒落た印象を与えたようだ。
 また、喜びの島と呼ぶ孤島にて、月明りの下で髪の毛が亜麻色の少女と、水面に映る影を見ながら食事を嗜んだエピソードは有名だ。

 丁度、翻訳作業の佳境に入った頃、妻の美智子にデブシーの話をしたことがある。彼女は大変興味を持ち、東京までピアノのコンサートを聴きに行ったそうだ。幸い、「喜びの島」「月の光」「亜麻色の髪の乙女」「水に映る影」など、オールデブシーによるプログラムだったそうだ。美智子にとって、それはとても素晴らしい体験となった。
 以下、余談にはなるが、妻によるデブシー音楽の感想を紹介しておく。本書を読むにあたり、何らかの参考になれば幸いである。

 美智子によると、デブシーのピアノ曲はとても色彩的で、芳醇な香りが漂っていたそうだ。随所にエスプリの効いたパッセージは中毒性を孕み、適度にスパイスの効いた刺激が音楽にアクセントを与えた。激しい動機と甘美なメロディーのバランスも良く、滑らかな感触で音楽は進行した。全体的に上品でアッサリとした味付けだが、軽快な歯応えのリズムと気品に満ち溢れたハーモニーから、洒落た印象を受けたそうだ。

 最後に、自費出版の為に本書翻訳のご依頼を下さり、デイサービスでのマイペースな作業を寛容に見守って下さった、元公団車文庫編集長のA氏に深謝申し上げると共に、少しでも協力したいからとデブシーの音楽作品を実際に体感し、感想を伝えてくれた上、一度だけ私の要望に応えてくれ、デブシー料理によるディナーを作ってくれた妻の美智子に感想の意を表明し、あとがきとさせて頂く。

2016.X.X デイサービス「オリーブ園」にて 訳者