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羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊(1)

あらすじ

(1)ファミレスにて〜プロローグに代えて〜


「あのぉ、ブラインドを下ろして頂けますか?」

 ファミレスの窓際の席で隣席から女性に声を掛けられた時、松本響はコーヒーをチビチビと飲んでいた。
 嗜んでいたヽヽヽヽヽ、とスマートな表現を用いたいのが本当のところだが、実際の行為は「味わう」という舌の快楽に比重は置かれておらず、また身体や脳の要求に応えた行動ですらなく、無為で機械的な「摂取作業」と化していたのだ。
 実際に、この後に訪問する仕事のことで頭が一杯だったのだ。これ以上、何かを詰め込むと脳が破裂するのでは、と思うほどに。いや、本当にオーバーヒートぐらいなら起こしそうな感じではあった。
 厳密には、苛立ちを必死に抑えるべく、仕事に思案を向けるように集中していたとも言えるだろう。ある意味では「営業職」に就いている松本だが、この数ヶ月は芳しい成果を上げておらず、今朝の定例会議の席でも社長から厳しく叱責されたばかりだった。

「すみません、直射日光が眩しいので、ブラインドを下げて頂けますか?」

 見知らぬ女性に二度目の声を掛けられた時、松本はようやくそれが自分に向けられた言葉なのだと認識した。無愛想に、そして、半ば睨みつけるように声の主に目をやると、相手は二十歳そこそことおぼしき女性だ。人に要求はするくせに、目を合わそうとはしない。

 性別問わず、彼は若者を敵視していた。業務の邪魔にこそなれ、金蔓にはならない存在なのだ。
 昨今は、スマートフォンなんて余計なアイテムが普及した所為で、些細なことでも簡単に調べられる世の中になった。全くもって、仕事がやりにくい時代だ。松本自身、その利便性を享受している一人だが、スマートフォンの普及は脅威でもあった。と言うのも、松本が下した査定の内容すら、それが妥当なのかその場で簡単に調べられてしまうのだ。
 いや、元々ネット上には業界の様々な情報がさらされていたので、PCを開けば「誰でも」閲覧可能ではあった。しかし、スマートフォンの存在は、「誰でも」だけでなく、「何時でも」と「何処でも」を追加したのだ。つまり、検索という行為が、ずっと手軽で安易になったと言えるだろう。
 それは、Webでの検索に限らない。LINEやSNSなどでデータを拡散し、評価を収集することも手軽に出来てしまう。松本が、ここ数週間、業績を上げられずにいる理由の一端も、そこにある。
 実際に、何度かは契約寸前まで運べたが、金額をいぶかしく感じた身内が——しかも、必ずと言っていいぐらいに若い世代ヽヽヽヽの身内が——その場でスマートフォンを開いたのだ。

 松本の勤める会社「ピアノ専科」を検索すると、お世辞にも良いとは言えない口コミにたくさんヒットする。しかも、大型掲示板サイトには「ピアノ専科」限定の被害者が集うスレッドまであった。そこでは詐欺の実態が詳細に報告されており、訴訟を起こすべきとの意見や、相場から逸脱した法外な査定の批判など、その手口が事細かに明かされているのだ。
 ネット情報なんてアテにならないと確信している松本だが、「ピアノ専科」による違法な詐欺行為の暴露ネタのほとんどが、ほぼ事実であることは知っていた。何せ、実際に詐欺行為を働いている当事者なのだから。
 目の前でその手口を分析されると、もう契約までは漕ぎ着けない。それどころか、平穏にその場を引き取ることさえ困難な空気になり、逃げるように退散するしかないのだ。
 この数週間、松本の仕事はそんな状況が続いていた。運が悪いのだ。松本が訪問した家庭に限り、たまたま若い人が在宅しており、本能的な嗅覚から芽生えた猜疑心により、松本の言動の真偽をスマートフォンで検索する……つまり、若い人さえいなければ、幾つかは契約が取れたかもしれないのだ。
 そんなことを考えながら、松本は目の前の女を値踏みしていた。派手な色彩の露出度の高い服で大きな胸を強調し、短いタイトなスカートでヒップラインをひけらかし、惜しげもなく素足を晒す。濃い化粧も含め、男へ必死にセクシャルなアピールをしながら生きる憐れな女……そう「査定ヽヽ」した。

「ちょっと、おっさん、ブラインド下ろしてくれってお願いしてるんですけど?」
 松本が座るテーブルの窓から斜めに差し込む日光が、なるほど隣席に強く射し込んでいる。女の彼氏だろうか、今度は男が話し掛けてきた。
 見るからに軽薄で、低脳丸出しのチャラ男だ。どうせ、肉体の快楽だけが目的で女と付き合っているのだろう。そもそも、平日の朝の九時半頃にファミレスに来る若者に、「まとも」を求めてはいけない。

「おい、ガン無視かよ!」
 短気な男が、女の前だからかイキがって立ち上がる。威嚇のつもりだろうか、典型的なDQNの風貌と言動で、松本を睨みつける。どうせ、殴り合う勇気も根性もない。茶髪と口髭とサングラスは、コンプレックスの裏返しだ。
 それに、もし殴り合ったところで、こんなヒョロヒョロの身体で何が出来るつもりだろうか。松本も喧嘩は不得手だが、187cm92kgの筋肉質な体躯を誇っており、四十七歳という俊敏性と柔軟性を失いつつある年齢を考慮に入れても、多少のことではやられない自信もあった。
 いずれにせよ、目の前のガキは口先だけの馬鹿だ……松本は、目の前でいきり立つ男をそう「査定ヽヽ」した。

「あのさ、これブラインドじゃなくて、ロールカーテン」
 男を無表情で見つめながら、ようやく松本は口を開いた。窓際に座る彼の横に、ループチェーンがぶら下がっている。これがプルワイヤー方式なら下ろしてやってもいいのだが、チェーンの操作は嫌いだった。
「おい、コラ、馬鹿にしとんか! 何でもええから下ろせって言っとんじゃ!」
 些細なことで男はキレる。そして、肩を揺さぶりながら、松本のテーブルに詰め寄ってくる。要因は松本にあるのだろうが、キレるほどではない瑣末なことだ。こんな奴、まともな社会ではやっていけないだろう。
 やはり、しょうもない男だ……今度は、そう断定した。

「下ろすならご自分でどうぞ。丁度席を立とうと思ってたんでね……あ、コーヒー残ったけど、飲む?」
 故意に、挑発的な言い方を選択した。喧嘩する気なんて全くないのだが、喧嘩になっても構わないと思っていた。松本もまた、抑え切れない苛立ちから不機嫌でもあったのだ。
「はぁ? おっさん、今何て言った、コラ!」
「あらぁ、ボク、ご機嫌ななめでちゅか? ……そのねぇちゃんにおっぱいでももらって大人しくしときな」
「何だと? ワレ、ホンマにしばくぞ!」

 松本は、伝票を手に立ち上がった。そして、20cm程は小さく、優に30kg以上は軽そうな男を見下ろすように睨みつけた。
 松本の、プロレスラーのように大きな筋肉質の体躯を見誤っていたのだろう。さっきまで虚勢を張っていた男が、ターミネーターのような厚い胸板の大男を前に、明らかに緊張しビクついている。サングラスの向こうにある怯えて泳ぐ目を捉えた松本は、コイツには手を出してくる勇気はないと確信した。
「授乳室はアッチだぜ」
 意図的に出した低い声で男にそう告げて、松本はレジへ向かった。ある程度の距離が出来てから、背後から悪態を吐く男の声と必死に宥める女の声が入り混じって聞こえた。相手が去ってから強がる弱犬の遠吠えに過ぎないのだが。

 ファミレスを出た松本は、予め調べておいた目的地近くのコンビニに車を停め、缶コーヒーとブレスケアを購入した。時間調整の車内で、今度は不味いコーヒーを嗜み丶丶ながら、今朝の定例会議での出来事を思い起こしていた。
 先程のDQNのことなんて、既に頭から消去している。脳のオーバーヒートなんて望んでいない。


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