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意図の切れた蛸

(本作は1,407文字、読了におよそ2〜4分ほどいただきます)


    眩い陽光が、とてつもなく大きな広がりを誇る水面みなもに、程よく反射する。キラキラと煌めく穏やかな海。私は、そっと素足を浸けてみた。微かな波動が軽やかなワルツのリズムで水上に広がり、仄かな潮の香りが爽やかに立ち込めた。

    浅い海底の砂を、両手でそっと掘り返してみる。サラサラのパウダーのような手触りの中、上手く紛れた小石がアクセントとなり、指に纏わりつく海藻は適度な演出をもたらす。マーブリングのように、或いはやわらげな煙幕のように濁った海水が、少しずつ透明度を取り戻すイリュージョンの向こう側で、海底をせわしく動き回る沢山の巻貝が視認出来た。
    蜘蛛の子を散らすように、慌てて逃げ惑う小さなヤドカリ達が可愛くて、無駄な抵抗に命を賭ける愚かさが愛しくて、何度か繰り返し苛めてみた。サディスティックで残酷な行為も、少しぐらいならここでは許してもらえる……根拠もなく、私はそう信じたのだ。

    私はそのまま海の向こうにあるだろう大陸へ向けて、ゆっくりと歩き出した。しかし、僅か数メートル沖へと進んだだけで、水位は膝上に達し、波の力も強くなる。大陸まで、まだ数万キロも残っているだろうが、早くも断念しようかと検討を始める。
   その時、透き通った海水の下に、ヨロヨロ歩く不思議な貝を見た。 きっと、大きなヤドカリだろう。私より先に、大陸に辿り着く気なのだ。そうはさせまいと、そっと掴み上げてみると、中には小さな蛸が入っていた。

    驚いた蛸は、貝から抜け出し、慌てて墨を吐きながら逃げ出した。八本の足を器用に回し、全力で水上を疾走する。その姿が何とも無様で滑稽で、可愛らしくもあり、一緒に遊びたくなった。いや、きっと私と遊びたくて誘っているのだ。
    そうして、私と蛸の追いかけっこが始まった。死に物狂いの形相で、必死に逃げる蛸。迫真の演技だ。私は、そんな蛸を嬉々と追いかける。自然と笑みがこぼれ、気分も高揚する。 

    蛸は、ついに砂浜に上がった。ある意味、大陸へ到着したのだ。それでも蛸はペースを落とすことなく、そのまま砂浜の斜面を駆け登り、国道へ到達。更に、行き交う車の流れの合間を縫って、国道を横切った。
    私も、見失わないように追い掛けた。もっとも、本気を出したら簡単に追い付けるだろう。でも、それだとあまりにもつまんない。
    蛸は、ガードレールをくぐり抜け、道なき道を走り続けた。そうなると、流石に追うのは難儀した。雑草が足に絡みつき、小枝がチクチク突き刺さる。唐突に始まった追いかけっこなので、裸足のままだったのだ。

    それでも懸命に見失わないよう追っかけていると、突如、目の前に大きな畑が広がっていた。蛸は、躊躇なく畑に逃げ込んだ。
    やられた。そこで、私はついに見失ったのだ。 

    ——えぇ、分かったわ。鬼ごっこはおしまい、今度はかくれんぼを始めたのね。また、私が鬼みたいだけど、まぁ、いいや。

    畑の中を捜索していると、ほどなく、大きく育ったパプリカの中に隠れている蛸を見つけた。上手く入り込んだつもりでも、詰めが甘いのだ。と言うのも、足がはみ出していたのだ。

    ——でもね、もうしばらくは、気付かない振りしてあげる。 

    素足で踏む、畑の土が気持ちいい。私は、蛸を探す振りをしながら、そして、ビクビクしながら必死に隠れている蛸を尻目に、大陸の感触を楽しんだ。