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影踏み

(本作は3,400文字、読了におよそ6〜9分ほどいただきます)


[AM7:00]

 この世界の唯一の居住空間である巨大な集合住宅の食堂にて、朝食にしては多過ぎる量の食事を摂っている。しかしながら、この一食が、今日一日に摂取出来るカロリーの全てなのだ。
 目の前の席には、歪な髪型の美しい女性が座っているが、勿論声を掛けるわけにはいかない。何故それがダメなのか、目的も理由も知らない。詮索することさえ禁じられている。そもそも、何故ここに連れて来られたのかも分からない。そして、何故僕が選ばれたのか、ここは何処なのか、どうすれば元いた日常に戻れるのか……誰も教えてくれない。
 唯一分かっていることは……決められたルールには、否応なく従わなければいけないこと。ルール違反は、決して見逃されない。そして、違反者は即……



[AM8:00]

 外を見る。どうやら、今日は曇っているようだ。ここに来て、今日で十日目……まだ生き長らえていることを不思議に思うが、もちろん、感謝の気持ちなんかは生まれてこない。この生活に、少しは慣れてきたのかもしれないが、体中の筋肉痛と疲労は一向に改善しない。
 先程の女性が目の前を通過する。当然ながら、こちらに興味を持つことはない。ましてや、僕の女神になってくれることもないだろう。遠くを睨みつけるように、強張った表情を保っている。
 よく見ると、彼女は、左手の先端がないようだ。



[AM9:00]

 食堂で、一日分の水5リットルをもらってきた。1リットルの容器が五本……でも、今日は曇っている。おそらく、日中もそれほど気温が上がらないだろうと予想し、三本だけリュックに入れた。少しでも軽い方が、何かと有利なのだ。そして、気持ちを落ち着かせながらゆっくりとストレッチを始めた。今日もまた、始まってしまうのだ……「影踏み」が。
 毎日十時に始まり、日没まで休み無く続く地獄の影踏み。アイツらに影を踏まれないように、僕たちはひたすら逃げるしかないのだ。その間、僕たちは、喋ってはいけないし、協力してもいけない。もちろん、助け合うことも禁じられている。違反すると、重いペナルティが課される。
 だから、僕もみんなも、一人で逃げ回るだけなのだ。影を踏まれないように。



[AM9:50]

 僕達は、今、無言でゲートが開くのを待っている。勿論、待ち侘びているわけではない。恐怖と諦念と惰性、そして、生への執着。今日一日を生き延びる為だけに、意識を集中させる。
 しかし、今日は慌てる必要はない。予想通り、雲が多く、影がないのだ。とは言え、決して油断するわけにはいかず、神経を擦り減らす一日に、昨日も明日も大した違いはない。いや、明日に関しては、存在するかさえ定かでないが。
 まもなく十時になる。ゲートが開くと、僕は、兎に角遠くまで走ろうと思う。それが安全なやり方のかは分からないが、今のところ、この作戦で生き抜いてきたことも事実だ。



[AM10:00]

 ゲートが開くと同時に、僕はゆっくりと走り始めた。アイツらがどこに潜んでいるのかは、分からない。でも、最初の三十分は現れないようだ。そういうルールがあるのかは知らないが、昨日まではそうだった。
 それでも、油断は出来ない。なるべく視界を広く保つ為、人の少ない所に居た方が良い気がするのだ。
 そして、大切なことは、常に三百六十度に向けて注意を払うこと、それと体力のコントロールだろう。特に、夕方が一番危険だ。空腹と疲労が極限に達するだけでなく、傾いた陽は、長い影を作るのだ。注意力や判断力も鈍り、油断や隙も生まれ易くなる。
 実際、終了間際に捕まったヤツを、毎日のように見てきたのだ。



[PM12:30]

 予想は外れたようだ。昼が近づくに連れ、徐々に気温が上がってきた。そして、天気も回復に向かい、時折気まぐれに太陽が顔を出し、僕らに短い影を作るのだ。
 一口水を飲み、3リットルしか持ってこなかったことを後悔した。西の空を見ると、そこにはもう雲が無く、真っ青に晴れ渡っている。
 数時間後には、ここもきっと……。



[PM14:30]

 朝の天気が嘘のように、晴れ渡った青空が憎い。 気温も上昇し続けており、今はおそらく三十五度を超えているのではないだろうか。
 まだまだ日没までは遠い。チビチビ節約しながら飲んでいる水も、ついに三本目を開栓してしまった。残り1リットルか……日没まで凌げるのだろうか?



[PM16:05]

 それは、突然のことだった。目の前にヤツが現れたのだ。慌てて走り出す僕。太陽を背に逃げられたのが、せめてもの救いだった。つまり、追い越されない限りは、影を踏まれることもないのだ。背後に迫る気配を感じながらも、振り返ることなく走り続けた。
 背中に強い陽射しを受けつつも、僕は、なるべく人が多いポイントを探した。しかし、僕が近付くより早く、皆、アイツに気付き、走って逃げた。アイツは、僕を嬲り殺しにしたいのか、一定の距離を意図的に保っているようだ。僕の体力が尽きるまで、楽しむつもりだろう。そのまま三分近くも、アイツに追われる羽目に。周囲の人も、遠巻きに眺めながら、僕から……いや、アイツから逃げようとしている。



[PM16:08]

 逃げ惑う人の中に、足を痛めたのだろうか、片足を引きずりながら歩く男がいた。僕は、一か八か、最後の望みを賭けて、その男の方へと舵を切った。すると、僕の目論見通り、アイツは、ターゲットを彼に変えたようだ。追われている気配が消え、恐る恐る後ろを振り返ると、彼は影を踏まれていた。悪いな、でも、仕方なかったんだ……息を切らしながら、小声でそう呟いた。
 アイツに影を踏まれると、身動きが出来なくなる。そして、アイツはその影を粉々に切り刻んだ。
 影は物質を反映するが、物質と影の関係に矛盾は許されない。物の形が変われば影も変わるように、この世界では、影が変われば物が同期するのだ。
 アイツに捕まった彼の体は、バラバラに切り刻まれた影を正確に反映した。



[PM18:30]

 完全に水がなくなって、一時間以上経過しているだろう。脱水症状から熱中症気味になっており、全身が痺れ、体が重い。十六時頃の長距離ランの疲労は癒えることがなく、立っていることさえ覚束なくなった僕は、十八時頃にはついに座り込んでしまった。そして、そのまま動けないでいる。今、アイツがやってきても、僕は立ち上がることさえ出来ないかもしれない。
 日没は近い……しかし、限界も近い。影は、秒刻みで長く伸び続ける。せめて、あと一口でも水が飲めると、完全に日が沈むまで持ち堪えられるかもしれない。



[PM18:32]

 しかし、いよいよ僕は、死を覚悟しないといけないようだ。背後に気配を感じ振り返ってみると、朝見掛けた彼女がアイツに追われていたのだ。最悪なことに、彼女は、僕に気付いている。いや、僕が動けないことに、気付いているのだ。必死の形相で、彼女は僕の方へ走ってきた。
(そうだよな、僕だってそうしたさ)
 このままでは、アイツのターゲットは僕に変更されるだろう。逃げなくては……分かってはいるものの、身体がなかなか言うことを聞かない。立ち上がることさえ出来ないでいる。こんな体力では、もし今すぐ立ち上がれたところで、とても日没までアイツから逃げ切れない。



[PM18:33]

 だから、彼女が僕の傍を通過しようとした時、僕は最後の力を振り絞り、彼女の足を引っ掛けた。彼女は派手に転倒し、足首を捻ったようだ。起き上がれずに、のたうち回っている。
 僕は、泣き喚く彼女のリュックを奪い取り、よろよろと這うように逃げた。数秒後、後ろで悲鳴が聞こえたが、僕は彼女の水を飲みながら必死に逃げた。
 アイツは、まだ彼女の影を切り刻んでいるのだろう。追ってくる気配はない。とにかく、距離を離そう。かなり陽は傾き、薄暗くなってきた。何とか逃げ切れるかもしれない。
 彼女は、やっぱり僕の女神だったようだ。
 ありがとう、僕の女神さん、おかげで助かりそうだぜ……小声で彼女に感謝の言葉を投げ掛けて、明日は水を全部持って出ようと思った。