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箱庭療法の思い出〈12/11の休憩室〉

ここ数日は箱庭療法の話題で賑わっていました。

箱庭、描画、…大人になってからも、私はよくやりました。言語による自己表現がすごく苦手だったからです。書字表出ならばできました。ただし、いわゆる“自動書記” でした。

私は解離性障害があります。頭の回転数でごまかせているだけで、おそらく極めて重度です。

・離人症状
子どもの頃は常に離人感がありましたが、それを異常なんだと知りませんでした。いつもあるのだから、ない状態なんか想像つきません。それに他の人がどんな景色を見ながら生きているか、想像するのは限度があります。だから、「みんな 離人感がいつもあるんだろう」と思っていました。

気づいたのは16才頃。心理学や精神医学関連の本を読んでいるときに気づきました。もとい知りました。本で読んで、知識として理解してから初めて、「私のこれらは正常とは違う何かなのだ」と発見したのです。

・人格交代
近いことは頻繁に起きても、ビリー・ミリガンのように意識や記憶が途切れることはありません。性格や能力が根本的に変化することもありません。
人格ではなく、意識の分裂という方が近いと思えます。意識の数が同時に複数あり、その全ての意識が主人格なのです。

「人格交代」のように見えるときでも、交代はしていません。モードチェンジしているだけです。※1)



…さて、自動書記として表出される“私”は、文字になり絵になり音楽にはなっても、口話になって表出されることはありませんでした。36才をすぎた頃、幸運にも過去形になり、口話のみの心理カウンセリングが成立するようになりました。


自分の心を言葉にしようとしても口話にできない。なのに、知識の理解力だけは年齢の2倍くらいある子どもでした。大人たちは化け物を見るように褒めたたえ、

「都合が悪いときだけ黙るな。怒らず、泣かず、穏やかに、はっきりと答えなさい(いつもそうしているように)!!」

同じ大人たちに命じられました。 正しくは暴行されました。


…口話しか使えないカウンセリングは、私にとって、これの繰り返しでした。本当はとても苦痛でした。…でも「苦痛」という心が言葉になってくれないんです。自覚していても、口からは出てきてくれないんです。

もしもカウンセラーに黙るなと言われたら、ウソを言うしかありません。言わずとも、「口話で答える空気」が強ければ同じことです。

そういうとき、大人が満足してすみやかに解放してくれる「適切な応え方」を、子どもの私はとてもよく知っていました。そして、治療の場でそれを用いることの意味も知っていて、限界まで使わない子どもでした。

箱庭療法。
人生で初めてウソを言わなくても、沈黙がゆるされた空間でした。思春期をすぎた年齢でも、私は、言語以外の方法でしか「話せなかった」んです。
成人後も、描画療法のやれる心理療法家(セラピスト)を探したものです。その頃はすでに「ユング系を辿ればいい」とわかっていたので、探しやすかったですね。

これからカウンセリング受けたい人に「どこがいい?なにがいい?」と訊かれたしても、こういう流派のセラピーを第1選択で薦めることは(残念ながら)出来ませんけどね。


〈公認心理師と箱庭療法や表現療法〉
公認心理師の扱うスキルとして適正なのか、あるいはエビデンスなどの事情で不満がわく、そういった声があがるのは当然だと思います。

ここで述べた私の経験をもとに、自分の中の良い悪いあるいは好き嫌いを決めることは簡単ですし、個人の好き嫌いは大事にすべきです。でも、「公認心理師としてどうするか」は別のものです。
これからの時代、伝統伝承の威力で抑えるのではなく…、みんなで全力で戦って(学術的な意味で)、みんなで考えて悩んで、みんなで選んでほしいと強く願います。

〈祈りのことば〉
今年も受洗してない仏教徒のまま、待降節を迎えました。
公認心理師の試験日たる12/20,受験する者と試験に関係する者の全てが、あらゆる災難をこえて健闘のかないますよう。祈ります。

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解離症状や障害ではない人でも、役によって言動が変わる(変える)のは当たり前ですよね。性格や能力、言葉や動作…など、これらの同一性を統べているのも多くの場合は「配役」なのです。

ほんものの自分らしさは?どうなったら異常なの? 全ての人が納得できるボーダーラインは存在しません。配役の交代が激しすぎたり、役をこなすために我慢や苦痛の多すぎる状況。これらが続けば何かしらの症状が出てきたり、記憶の途切れや混乱することもあるかもしれません。

自分らしさがわからなくて迷うでしょうし、とても生きづらくなるでしょう。

ところで「自覚できる生きづらさ」と「自覚できない生きづらさ」では、どちらが重いでしょう。自覚できる方が重くて自覚できない方が軽いのでしょうか。生きづらさを感じることは重要なことですが、生きづらい人が自分の生きづらさを自覚できるとは限りません。

「生きづらく感じる」というのは、原石を発見したみたいな、きっかけというか、ヒントというか、攻略対策が見つけやすくなると思います。

「生きづらさが永久に主訴になる」ようなときは、攻略方法を他の切り口で考える方が良いかもしれません。投げ出すとか無責任に捨てる意味ではなく、自分を守るために合わないことを捨てる勇気ある決意です。

【参考文献等】
※1)
サトウタツヤ・渡邊 芳之 著(2011)『あなたはなぜ変われないのか ─性格は「モード」で変わる 心理学のかしこい使い方』ちくま文庫
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480428776/

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