全体重を乗せた突きを放て

広告の世界でよく使われる言葉に、「What to Say」と「How to Say」というものがあります。「何を言うか」と「どう言うか」です。例えば軽自動車のテレビCMをつくるのに、安全性能をアピールするのがいいか、広々とした室内空間がいいか。これは「何を言うか」の議論です。一方で、広い室内空間をアピールするのに、家族でキャンプに行くシーンを描くのがいいのか、ストレートに広さのスペックを伝えるのがいいのか。これは「どう言うか」の議論です。

現場では、この2つが混ざってしまうことがよくあります。ある人は「どう言うか」の話しをしているのに、別の人は「何を言うか」の話しをしている。そんなときには、まずは「How to Say」ではなく「What to Say」の話しをしましょう、などと整理します。なぜ広告の世界では、このような問題が頻繁に起こるのでしょうか。それはみんなが「どう言うか」の大切さをよく解っているからです。普通はそこにあまり注意が向かないので、必然的に「何を言うか」の議論が中心になります。例えば各政党が発表する選挙の政策などは、えてして「どう言うか」にあまり注意が払われていません。

ただ、歴史を顧みると、この「どう言うか」が政治を変えた、というイベントがいくつもあります。キング牧師の「私には夢がある」演説は、公民権法の制定につながり、200年続いていた「人種差別を許す法律」に終止符を打ちました。この演説の「何を言うか」は、「人種差別を許す法律をなくそう」ということです。演説が行われた集会は、「奴隷解放宣言」の100周年を記念したものでした。奴隷解放宣言により奴隷制はなくなりましたが、黒人への人種差別を許す法律は、それから100年たった当時もまだ各地に残っていたのです。まさにここぞ、という「何を言うか」です。

しかし、この演説を歴史的なものにしたのは、それだけではありません。演説のもともとのタイトルは「差別の常態化 - この先は繰り返さない」というものでした。「何を言うか」をストレートに伝えている表現です。このままの演説だったら、この時歴史は動いていなかった。これは研究者の多くが意見を一致させるところです。「何を言うか」の適切さだけではなく、それを「どう言うか」に大きな力があった。だからこそ歴史は動いたわけです。広告において「どう言うか」が重視されるのは、まさにこのようなことがあるからです。

そして、まさにこの「どう言うか」を考えるプロが、コピーライターだったりクリエイティブ・ディレクターだったりするわけです。そうしたプロたちの技術には、あこがれと尊敬の眼差しが注がれます。そうした方々が「伝え方」を解説する本には安定したニーズがありますし、何冊かはビジネス書の歴史に残るような大ベストセラーになっています。

一方で、そうした「どう言うか」の技術の結晶とも言える広告が、特に若い世代に嫌悪感をもって受け入れられることも増えてきています。調査会社のメディアインタラクティブ(当時)が2009年に行った調査では、広告に不快感を感じたことが「非常にある」と答えた人は20代で約20%おり、60代の約3%と比べると際立って高いという結果でした。10年以上前のデータですが、綺麗な階段を描いて若い人ほど数字が高くなる傾向は、10年たっても加速こそせよ変わってはいないでしょう。

1990年代には就活生の人気企業だった広告会社が、2000年代以降大きく順位を落としています。2021年の夏、自著のプロモーションとして、7つの大学をまわって(全てZOOMですが)、広告関係のゼミやサークルで講演をさせてもらいました。質疑応答などで直接やりとりした人だけでも、100人はくだらない学生さんたちと接しました。その中で、広告・マーケティングの仕事をしたい、と言っていた方は数人、片手で足りる程度でした。全員広告・マーケティング関連の学生さんにも関わらず、です。

知的な職業ならコンサル。クリエイティブなことがしたいならYouTuberやTikToker。「みんなのため」なら公務員や団体職員。それが人気職業の傾向でした。かつてはそれら全てに答えていた広告業界ですが、今はよくて無関心、悪くて嫌悪の対象になりつつあります。著名な広告クリエーターさんが、SNSである政策の広報戦略を提案したら批判が殺到した、ということがありました。「汚いものを綺麗に取り繕うな」という批判です。

これは、現代において広告が持つイメージを象徴する出来事だと感じました。「どう言うか」の技術が研ぎ澄まされた結果、「何を言うか」を取り繕うこともできるようになり、それが当たり前になっている。広告はそういうものだと思われているのです。私は広告主としてそうした広告のプロに仕事をお願いする立場ですが、誰かがそのように「何を言うか」のテクニックを悪用するのを見たことがありせん。私の知る広告のクリエイターさんたちは、むしろ人一倍職業倫理が高く、そうした技術の悪用を誰より嫌ってています。

にも関わらず、広告がそうしたイメージをまとってしまうのはなぜなのでしょうか。それは、残念ながら、中にはそうした技術を悪用する広告もある、汚い中身を取り繕っているだけの広告もある、ということなのでしょう。そうした広告は今に始まったことではありません。しかし、SNSの登場によって、より目につくようになってきたのです。

SNSに投稿されるコンテンツは、多くが個人の日常です。嘘偽りのない、そもそも嘘偽りを語る必要がない、等身大の真実です。そこに「つくられた」「取り繕われた」真実が混ざってくると、情報の受け手は敏感にそれを察知します。それはさながら、大量のイヌの画像に、オオカミの画像を混ぜて違いを判別できるようにする、AIによる機械学習のプロセスです。SNSネイティブの頭の中には、無意識に稼働する、優れた「ウソ発見器」が搭載されているのです。

また、本来は嘘や偽りが必要なかった個人の日常にも、それが混ざり込んでしまうようになりました。SNSでは個人と企業が横並びになり、ときに個人が企業の影響力をしのぎます。すると、個人でも自分を「ブランディング」するために、事実を取り繕ったり偽ったりするケースが出てきます。規制や取り締まりがゆるい個人では、ここの歯止めがきき辛く、一定数発生するそうした人たちが、「ウソ発見器」の目につくことになります。こうして「どう言うか」の技術には、いきおい冷たい視線が集まるようになります。

しかし、「どう言うか」はやはり大事なのです。岸田政権が誕生した今になって、退陣した菅総理の功績をたたえる論調が増えてきました。菅政権が何をしたか、は退陣した以上は何も変わっていません。すると、菅政権に足りなかったのは、国民に「どう言うか」「どう伝えるか」の努力だったはずです。「何を言うか」に一本の筋が通っていれば、「どう言うか」はそれを届ける大事なアンカーになるのです。

そして、「何を言うか」に一本の筋を通すのは、「誰が言うか」です。どんな人生を生きてきた、誰がそれを言うのか。日々SNSに投稿されるのは、生い立ちを知る友人・知人が投稿する、等身大の真実です。そんな筋の通った真実を日々大量に浴びているSNSネイティブは、「どう生きてきた誰が」「何を」「どう言うか」に潜むウソを直感的に見抜きます。だからこそ、そこに通る一本の筋が大事なのです。

「どう生きてきた誰が」「何を」「どう言うか」。現代におけるコミュニケーションでは、この全てがモノを言うのです。それは言ってみれば、これまでの人生を自分の重みにして、それを全て乗せて放つ渾身の一突きです。企業の広告・広報活動でも、アーティストの表現活動でも、個人の情報発信でも、そんな一突きでないと人の心を打つことはできません。

だから私も、こうしてnoteを書くときは、ほかならぬ自分が、何を、どう言うかを考えます。自分だからこそ書ける真実は何なのか。自分のこれまでの経験やそこで得られた知識、感情を、自重として思いっきり乗せた一突きを放ちます。そうでないと、受け手の「ウソ発見器」をパスすることはできません。そして、宝石箱をひっくり返したようにSNSに広がる素晴らしいコンテンツのなかで、自分のコンテンツに目を止めてもらうことはできないのです。

冒頭のキング牧師のスピーチですが、有名な「私には夢がある」というパートは、クロージングに近づいた後半部分ではじめて登場します。というのも、その日の朝に書き上げた「差別の常態化 - この先は繰り返さない」という原題の原稿には、そのパートはなかったのです。あの有名なパートは、その場で即興で入れ替えられたものなのでした。

スピーチの中盤。今も続く黒人差別の不当さを、熱を込めて語る牧師の演説に会場のボルテージは高まります。そこで、すでに自分の出番を終え、近くで演説を聞いていたマヘリア・ジャクソンというゴスペル歌手が、こう叫びました。「マーチン、あの夢の話しをしてあげなよ!」。そして、牧師は語り始めるのです。「私には夢がある。私の4人の子どもたちが、いつか、肌の色ではなく人格で判断される国に住むにようになるという」。

その100年前に行われたリンカーンのゲティスバーグ演説も、その1年前に行われたケネディの「月に行くと決めた」スピーチも、事前に書き上げた原稿を読むというスタイルでした。それらと並び称されるキング牧師の演説は、その最も有名なパートは、なんと原稿のない即興によるものだったのです。なんでそんなことができたのでしょうか。それが牧師の人生そのものだったからです。

牧師の人生を全て乗せた渾身の一突きは、世界の歴史を変え、60年たった今もこうして人の心を揺さぶり続けています。誰にでもそんな一突きを放つことができる、とは言いません。しかし、私たちの仕事や言葉にも、周りの人たちや周りの世界をよい方向に変える力を宿すことができるかもしれません。それには、全体重を乗せた一突きを放ち続ける必要があるのです。広告・マーケティングと文章の世界で生きてきた私が全体重を乗せたこのnoteが、少しでも皆さんのお役にたてたら幸いです。

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書影


<参考資料>

What you didn't know about King's 'Dream' speech

広告に対する意識調査(特別編)--男女、年代にみる広告に対する意識の違い

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