科学と思想

 オッペンハイマーが日本で上映されるらしい。日本で上映されないとの話を聞いたのでとてもうれしい。原子爆弾は日本にとっては非常にナイーブな話で、日本人視点からの原子爆弾ではなく、アメリカ視点での原子爆弾を初めてみることになると思うとかなり興味がわく。こういったことを言うと原子爆弾を作った人物を肯定するのかと言われかねないが、私は物理を学んだ(かじった程度であるが)大学生として純粋な科学的興味としてこの映画を楽しみにしている。

 話は変わるが、科学と思想を区別できない人物が多いように思う。科学と思想は相反する。進化論や地球の自転など世の大半を支配する思想の前には、いかに科学的に正しいことでも批判の的となる。社会的に正しいことと科学的に正しいことの区別がつかない幼稚な方が世にはあふれている。それらがSDGsやLGBTなどの現代の矛盾した思想を持った人々の根底にある。それらを唱える人々の身なりを、身分を見てほしい。年収1000万をもらいながら貧困をなくそうと唱える私立大学のカタカナの学部の大学教授、親に学費を払って貰いながらボランティアを行う社会学部の大学生、重箱の隅をつくようなことを言って政治批判を行うコメンテータ、などなど。弱者を助ける活動、言動をする自分が好きな偽善者でしかない彼らは、彼らの思想に迎合しない人物を批判することが大得意だ。彼らの思想に反対するものは差別主義者であり、非道徳的な人物である。性格に難があり、慈愛の心を持ち合わせていない、時代遅れ、そう言ったレッテル張りを行う。まさに差別主義者の最たるものである。貧困をなくしたいのなら自身が起業を行い、貧困に苦しむ人々が働けるような雇用を生み出すべきだ。ただ空調の効いた意味もないほど小奇麗な大学のキャンパスで屁理屈をこねることに意味はあるのか、大学をレジャー施設か何かと勘違いした中身がスカスカの大学生相手に綺麗ごとの発表会をする意味はあるのだろうか、自身の就職先も見つからないのに発展途上国の心配をする暇はあるのだろうか、滑稽である。そんな人々の話す綺麗ごとは社会が豊かである現在でしか通用しない。綺麗ごとでは社会は回らない。綺麗ごとを言っていいのは子供だけだ。自身の手を汚してでも社会に貢献するのが大人ではないのだろうか。あまりに幼稚な人々が多くなっている。

 はっきり言おう、社会学は学問ではない。ただの思想でしかなく、大学に入ってまで学ぶことではない。何かを生み出すわけでもなく、ただ批判を行うだけの学問に何の意味があるのだろか。そこで学んだ反資本主義的な思想を持ったスカスカな大学生が社会に出ていく。悪夢だ。セクハラ、パワハラ、モラハラ、はき違えている。自身の気に食わないことをハラスメントと言い、自身の権利を主張する。新しい考え方を振りかざす。あまりにも幼稚だ。

 キラキラしてるよね。日本って古臭いし、これからは新しい時代が始まるんだ。外国はもっと進んでる、日本は遅れている。残業なんかしないで、仕事はそれなりに、昇進すると責任が増えて大変だし。家に帰ったら推しの動画を見て癒されるんだ。子供はいらないかな。育てる自信もないし、給料もうちの会社大したことないから。将来のことなんて考えても意味ないよね。

 まるでわがままな子供のようだ。今の日本はこんな薄っぺらい人間がたくさん存在している。話してもアイドル、ファッション、スキャンダル。日本の将来のことを話す人は少ない。社会学部に通っているのに。私はこれからの日本を憂いている。1億人全員が綺麗ごとを言うだけで何もしない人々になってしまったらと思うと絶望を感じる。もっと現実を見てほしい。誰かの思想に染まり流されるのではなく、自分の目で見て、考えて、違う意見を理解して、それこそが学問ではないだろうか。決められた思想をただなぞるのではなく、自分の考えを持つべきだ。男女平等は本当に正しいのか、SDGsは本当に達成するべきなのか、疑問を持つべきだ。

これを読んだ人に何か新しい学びがあれば嬉しく思う。少なくとも私の思想は正しいとも言えないし、間違ってるとも言えない。なぜなら思想に過ぎないから。

 

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