伝説のレーサー、栄光への2.5マイル。
一周2.5マイル(およそ4km)右足は緩めることを許されず時として
鉛を乗せたように重いと語られる。右側コンクリート壁に我々一般人
感覚では、「残り数十センチしかない!!」。だが真のプロ達の表現
は異なった。
”まだコンクリート・ウォールへ数センチ残ってもっと壁に寄れる!!”。
公式予選が土曜日、その日にマークしたコース4周の”平均速度が
速い”マシン&レーサーこそインディ500のポールデー獲得者である。
他レースで言うポール・ポジション、巨大な賞金と土曜の夕方以後は
生中継番組や翌日の各種取材、決勝日のスタートでも取材引っ張りだこ
のみならず優勝大本命になる。俗にF-1レースで1勝の値打ちあると
呼ばれる所以である。
世界中で開催されるモータースポーツにて公式予選20万人動員出来
るイベントは他に例がない、そのパブリシティ効果等を考えればポール
獲得(ポール・シッターと呼ばれる)はレーサーやチームに名誉である。
タイムアタックは全て米国マイル表示される。アタック皆無は全て、
チーム判断で行い風向きやマシンセットアップ等の不具合を感じたら
4周未満でピットへ戻ればやり直し出来る独自ルールで面白い。
真夏か?真冬の気温多い5月のインディアナ州では日中暑い為路面
温度及びタイヤ条件考え、タイムアタック終了前18時前の17時頃から
公式予選などはコースインのマシンが増える。
土曜日に好タイムを出せば翌日以降にポールシッターより速いタイム
を日曜日以後マークしてもポールシッター(フロントロウー3列)は
不動な他国レースにないルールある。つまり公式予選前の現在はかなり
日程を、削減された公式練習走行日(以前は合計3週間、公式予選前
だけでも、7日間あった。またルーキーオリエンテーションというIMS
にインディ500走行して良いかの可否を問う新人テストは4月に開催
していた。
あのF-1元世界チャンプでインディ500へ参加したN・マンセルさえも
スーパー・スピードウェイ未経験でこのオリエンテーションをパスして
参加している)に完璧なマシンセットアップとレーサー心身統一無いと
インディ500ポールシッターへはなれない。
「日本マスコミの評価が違うだけ」
インディ500の華である伝説的なレーサー達を紹介しよう、全て筆者
インタビュー経験ある超大物ばかりである。
”Mrインディ、AJフォイトJr、AlアンサーSrにリック・メアーズ
H・カストロネレスらと並ぶインディ500最多4勝の元祖でチーム
オーナー。ルマンにディトナ24時間で活躍しセブリング12時間と
ディトナでの双方優勝経験もあるグレイト・レーサー。日本メディア
からは質問間違えると怒鳴られるという評判だがそこは間違いで筆者
慕いは一度もない、(決勝で撮影した巨大写真パネルを進呈時は喜び
笑顔でいたし)。引退レースがクラッシュ巻き込まれで完走出来ず、
トレードマークの黒いシャシー(当時はローラT94/フォードXB/GY)
痛々しくピットインしたのが印象的であった。
*:しばらくマシンより降りようとしなかった、ラストランという意味
以外に前年度のインディカー・レースで事故、脚骨折完治していない面
押してのエントリーはあまり知られておらずこれが最後のレースにおいて
巻き添え事故、自力にて立ち上がるのへ時間費やした知られていない側面。
レーシングスーツ脱いだポロシャツ姿はテキサス州出身の大柄体格の
割のは身長低さへ驚くビジネスマン、日本でいうなら中小企業社長雰囲気
ある(事実、当時はシェビー系ディラー経営していたので勝てるエンジン
であるライバルのXBエンジン積み替えは苦心した)。童心のような穏や
かな瞳で語る日頃表情が歴代最多出場(最高齢出場)記録樹立秘訣かも
しれない、本レースは慌てることなく後半に追い詰めるタイプだ。
”後輩達に多大な影響与えた「ブラジルの爆弾男」元F-1チャンピオン”
まず読者の皆様へお尋ねしたい、世界的な有名トップレーサーの生命線
である”右手”は固いか?柔らかいか?、答えは後者で女性並みでもある。
パドルシフトで楽な運転多い現代のレーシングカーでは考えられない右手
酷使のマニュアル・シフトマシンをF-1とインディ500で操り二度も
双方で制覇したのがエマーソン・フィッツパルディである。ブラジル
出身の元F-1世界チャンピオンはチームオーナーが当時親交深くマシン
与えられたペンスキーPC19でインディ500をパトリック・レーシング
にてマルボロカラー(南米仕様)にてエントリーし優勝、翌年より名門
チーム・ペンスキーへ迎え入れられる。
*:喫煙広告禁止時代にペンスキーは当時、16人いるマルボロ重役でも
あり「元はフランスのデザインであるマルボロ広告をアレンジしチーム
名にして出していた」。この頃はまだ日本市場が完全にたばこ広告禁止
間に合わない為に行えた広告・法的業界の裏話になる。
因みにこの1990年代より「壁だった」日本人参戦をヒロ松下さん、
(松下博之)の手でディック・サイモンレーシングが行う(後述)。
E・フィッツパルディ(ここではエモと略記載)はF-1エントリーした
者がインディ500や同シリーズで勝てない話を覆した。1969年インディ
500制覇のマリオ・アンドレッティは後に複数回分けてF-1挑戦後に、
当時の名門”勝てるチーム・ロータスでF-1チャンピオンとなった例”。
エンジンはほぼ3リッターのコスワースDFVにタイヤはGY(グッド
イヤー社)ワンメイクス*:後半に他社との競争あり、で米国レース
に1970年代のF-1は近い環境と言える。
この世代以降のF-1経験者は後に出場してもインディ500等は苦心が
目立つようになってきた。(エンジンサプライヤーと強固関係な佐藤琢磨
選手が勝てる・選手寿命長いのはこうした背景もある)。
エモの右手は白魚のように柔らかで細長い指、筆者の手が大きいことへ
驚かれていたのを覚えている(欧米に行けば平均的体系日本人も”小柄”)
マシンセットアップの良さでオーバルコース三種類プラス、ロードの
コースも強かった。この姿をブラジリアン・ドライバー達がインディに
憧れるキッカケとなりTカナーン等日本ファンも多い優秀レーサー排出
国になっている。
「同期の桜は勝てないがトップ周回最多と優勝二回の名門Jr」
今やチームオーナーとして有名なマイケル・アンドレッティは優勝無で
トップで快走は実に多い、エンジンブローにタイヤ・バースト。果ては
燃料切れ等で伝統レース勝てなかった。シリーズ・タイトルを入手して
勝てないインディ500は「呪縛」と呼ばれる所以。
米国レースへワークス存在は現実的にないがまだ複数シャシー採用時
ローラ・カーズの新車は当時のニューマンハス・レーシング最初に納入
マイケルがテストした。(フォードXBエンジンも同様)
*:チームの共同オーナーは今は亡きハリウッド・スターの俳優ポール
・ニューマン、レース場では「自分は脇役、主役じゃ自チームのレーサー」
このようにファン達に紹介している人間らしさは素晴らしい。
マイケルのチームメイトで新人参加(当時)したのがロビー・ゴードン
発掘したのはAJフォイトJr、自チームで一度走らせでからの”勉強”。
加えてダートオーバルのUSACミゼット・トラックチャンピオン出身の
転向という変わり種(米国では普通である)こちらも勝てなかった。
対する”同期生”のアル・アンサーJrはアンドレッテイ家と同じく一族が
レース一家。父親アル・アンサーSrはインディ500を4度制覇しており、
記録等では上回る。エンジンはシェビーA(イルモア開発)にしてからは
当初のローラ・シャシーより生まれ・育ちのニューメキシコ州アルバカーキ
拠点なギャレス・レーシング下、自社製シャシー、ギャルマーCG092へ
変更。ダウンホース仕様でインディ500に挑む。この激闘を僅か1/0003秒
にて2位のS・グッドイヤーとのバトル抑えて1992年は制覇。スタート時
気温僅か12度の真冬みたいな気温(前日までは真夏日32度超え)で開始
最高気温15度しか上昇せずタイヤ温まらずクラッシュ多発した撮影者には
”超多忙な決勝レースをアルJrは見事に勝利”。
*:この時、一家で極秘に来日しているがお会いしている。後に来日案件
なのが「ツインリンクもてきのオーバルコース建設監修」である、折角
こうして造った日本のショート・オーバルを閉鎖はもったいない。
(息子さんのリトル・アルもレースに参入している筈である)。
しかし名門ペンスキーで二度目にインディ500制覇後に悪夢待ち構える、
自社シャシー設計・設定間に合わないペンスキーがボビー・レイホール
から簡単に予選通過出来るローラT95/シェビーA/GYタイヤを供給され
るも「名門チーム二台は予選落ち」となる。ガスアレー(日本レース場で
はパドックという所)のチーム関係者の中でアルJrは予選落ち不甲斐なさ
に対し偉大なる父親の胸元で泣き崩れたのだった。
*:ボビーレイホールは前年、初供給な自分で選んだHONDA2.65リッターV8エンジンで予選落ちを経験し大きな話題になりペンスキー側の
気持ち理解出来る立場である。またペンスキーはマシンを借りたままで
なく「自チーム独自セットアップが仇になった」。
本命ライバルいてそこ競技が成立するという見解なスポーツマンシップ
是非、見習って欲しいしボビー・レイホールもインディ500優勝経験者だ。
「幻のポールシッター、スコット・ブレイトン」
ビユッィックのエキストラ・ブーストは素晴らしく冴えわたり、その日
ポールデーの公式予選初日にスコット・ブレイトンの駆るローラは新型、
ファィヤーストーン・タイヤ履きコースレコードにてポールシッターと
なり一躍人気者となった。だが悲劇はその後に控えた平日練習走行で発生。
ファースト・ターン(日本で第一コーナーと呼ばれる)中間にてバランス
崩したマシンは減速無く壁に激突・横転、S・ブレイトンがポール獲得した
また他界する悲劇発生する。
200マイル(約時速320km)以上の”平均速度”にて1周2.5マイルの
コースを予選や練習走行では走る、もしもが起きたらこのような悲劇は
免れず完璧を常に要求される”単純コースを同じく走るレースではない”
気温・風向き・湿度・タイヤ内圧・タイヤのスタッガー(後輪外と内側
の直径は3インチ異なる設定でターン廻りやすい設定)ギア比率・燃調
搭載燃料(開催当初はガソリン~非爆発性のメタノール採用~エチル混合
燃料=現在、提供はインディ500はバルボリンとペンゾイル社)。以上
きちんとかみ合わないと地獄の天使が待つ究極スピードなレースである。
「無名時代にインディ500制覇、フォード20年ぶりの制覇」
若き青年は誰より早くガスアレーに来てはマシンを眺め、掃除をしたり
挨拶をしたりとしている。走行後も関係者が皆無な時にメカ等に細かく
話し込む、むしろ教えてもらう光景であった。この姿は天才的で
あり熱狂的ファンを父親へ持つ後にインディ500を制覇しF-1
ワールド・チャンピオンにもなった、ジャック・ヴィルヌーブ
の姿と思う方は少ないだろう。
ワークス・フォードエンジン参戦はXBシリーズという最強布陣
対するシェビーもC型を登場させていたが名門が消えた1995年。
フォーサイス・グリーンレーシング(当時)のジャック所属チーム
ではニューカマー・シャシーでCART実績高い、レイナード社を
選択しタイヤはGY社。この年にフロントロウー・アウトサイド
(予選三位)が復活したHONDAターボエンジンでS/グッドイヤー
駆る。加えてファィアー・ストーンタイヤ開発へ(日本のBS技術が
提供されている)二年かかり、S・プルーイットは開発期間の犠牲
(他レースに出られない)ご褒美とばかりにこのレースへ参加する。
かくしてタイヤ戦争&エンジン戦争のインディ500は幕を開ける、
このレースで「絶対的なタイヤ優位さ」がハッキリし今日のインディ
カーにてオフィシャル・タイヤはファィアー・ストーン社製であり、
インディ500会場では会場&開催年ロゴ入りの新品タイヤが購入可能
(US378ドル前後)。
エンジンはシェビーが各タイプ(タイプBはルール違反で出れなく
なりAかC)、フォードも最新版XBにDFSユーザー、あとビュイ
ック(リリース上はメナード名)にHONDAである。
ガチンコ対決はラスト30周からのXBユーザーにGY履いたマシン
強い点、当時はコールド・タイヤで尚且つハード・コンパウンドのみ
にてのバトルであるから「タイヤを温める・冷やさないのもプロが
行う技」であった。リスタートの加速遅れは現在のタービュランス
(乱気流)が前方マシンより与える影響のみならず、タイヤを冷やさぬ
技量・セットアップでないマシンはオーバルレースで簡単に順位落とす。
青と白のプレイヤーズ・カラーで彩られたジャックのマシンは徐々に
ポジション上げて後半勝負、ラスト10周程でワンチャンス有れば勝てる
5位をクリアーする。ここからは燃費・タイヤの反応・風向きに観衆声援
味方へ付けられるか?チェッカー受けた200周目に観衆どよめき拍手にて
若きカナダ人レーサーを祝福した、米国人レーサー優勝以外では歓喜
しないという偽り情報が日本へ跋扈していた頃、この目で確かめた光景
そのものは間違いなかった。
嬉しいおまけは当時の決勝レース完走コースレコードを樹立してエン
ジン戦争に”フォード20年ぶりインディ500復活優勝”刻まれた。
”伝統の2.5マイルへ挑む日本人レーサー達(上)”
1990年にインディ500のルーキー・オブ・ザ・イヤーをJ・アンドレッ
ティに取られながらも非力なビュイック・エンジンで決勝周回数を上回
ったのはヒロ松下さんであり、デックサイモン・レーシングに長くおり
後に勝てるシェビーAやフォードXBを採用、タイヤもGY社からFS(ファィアーストーン社製)へ交換し成績上げてきた、CART分裂時はCART参加してシェビー・エンジンがイルモア~メルセデスと社名変更
後にそちらを使用、ウオーカー・レーシングで引退前はTOYOTAエン
ジン走らせている。
94年インディ500で両足複雑骨折をしているが、インディアナポリス
の聖メゾジスト病院整形外科医(当時)トラメル博士の外科手術で歩行
可能完治しレース復帰出来ている。
*:日本のレース界はこうしたレース場より緊急搬送・すく手術してま
た復帰可能な医療環境整備が必要。主要空港やダウンタウンからも路線
バスにて行けるこの場所は世界中のレース場が見習うべきロケーション
だ。
松田秀志さん(タイサンレーシング&ベック・モータースポーツ)
スポット参戦にてインディ500のみ参加も会場や関係者の記憶へ残るレ
ーサー。とにかく明るいジョーク好きな方で、決勝レース後夜TV中継
される表彰式でも米国ジョーク健在。フリー走行で派手な事故・マシン
徹夜作業修復後、”一発勝負の最後予選(バンプ・アウト・デー)も勝ち
上がり、観客を沸かせた実力者”。この松田さんの時に所属していた国内
チームのーナーが千葉泰恒さん率いる「タイサン・レーシング」。
よって公式エントリーは大学時代の先輩、ロッキー青木さん店舗経営でな
ので以下の通り。
「ベニバナトーキョー/タイサン・レーシング& ベック・モータースポーツ」*:インディアナ州法人絡みが参加条件(当時)。
限られた時間と資金で参加していたので最初は型落ち、次年度からは
新型ローラシャシーながら「ショート・オーバル仕様を購入し、ハイ
スピード・オーバル仕様に改造する」を行った。(特に軽量化に使用を
しないし安全策の為にリバース・ギア外すのが大変。これは他チームの
Xカー=予備車両でも見かけた事、あった)」。
**:この点は後編に続く