”名門はV8だとダメだった!”

 F-1では同じエンジン・シリンダー形式(例V12~V6にターボ)等で
メーカー名を異なるパターン多い、日本人へお馴染みなHONDA全盛期
ワークス・エンジンの他に子会社の無限(M-TEC)が出していたNA-V10
エンジンはその典型。現在もフェラーリがアルファロメオ・ブランドで
リリースしていたのは記憶へ新しい、何せフェラーリ創設者自身が独立
する前にいたのがアルファロメオなのだから。

この名門イタリア・メーカーのV8,2.65リッター・シングルターボのインディ
500用エンジンをパトリックレーシングが採用した。中身はV8のフェラーリ
製ユニットで本来は日本のIHI製ターボチャージャー採用の噂でいたのが現地
仕様へしたのがギャレット・エアリサーチ社製で挑む。
所が美しい黒のカムカバーにアルファロメオマーク輝くV8型エンジンはすこぶる調子が良くない、パワー少ないのみならず「熱対策・燃費悪さ」も酷く
チームはバンプ・アウト・デーを待たずにマシンを公開しなくなる。
(これと同じような形が1995年に予選落ちした名門ペンスキー、自社開発したシャシーが調子悪く昨年までのエンジンを使えないで従来型を提供してもらうも予選落ち=以前に詳細記載)。

 各種のモータースポーツを北米で見れば判明するが、通常の「ガソリン燃料使用で開催」する日本でも馴染あるIMDA-Daytona24hours(ディトナ24時間耐久レース)等は日本車もそうだが欧州有名メーカー参戦多い、ワークス
のみならず、ファクトリー&プライヴェーター、エンジンも多用で各クラスで好成績を残している。ではなぜインディ500では少ないか?
 日本のメーカーは現ルール上では参加禁止なロータリー保有のマツダ除外すれば大手は各社参加し「あやわ優勝か?をニッサンはIRL時代に経験したし
トヨタやホンダの活躍は言うまでもない」。日本のメーカーは原則、水冷の
エンジンである。対する欧州メーカーは水質良くない土地柄で空冷から発展してポルシェがルマン用にヘッドが水冷のエンジンを開発・採用したレース
優勝より各メーカーは現在の水冷化に至る。
 もう一つはインディ500(インディカー)最大特徴の熱カロリー低く燃費良くない燃料を使用中なこと(詳細は以前に記載済で参照されたし)加えてハイスピード&耐久要素要求される為にこれも他レースではない。
基本的に各種情報はファンを含めて情報公開される、F-1のような”秘密主義は通用しない”。会場でヘッドセット形式の無線をレンタル(約US50ドル~)すればお気に入りチームとレーサーの決勝走行中にやりとりはファンも
昔から聴ける(F-1はこの真似しただけ)。空力設定以外の極秘はないゆえに
エンジン戦争が起きても実際はイコール・コンディションで戦うレースであり勝敗はブランド・イメージ最優先企業にとっては参加好めない環境とも解釈可能になる。

1993年にメルセデスがイルモアへ特別提携開発したトラック・ベース(しかも米国では市販が当時されていなかった)3.3リッターOHC、V8エンジンに
エキストラ・ブースト2.5バールという、市販車エンジン改造のビュイック用
へ採用されていた「イコール・コンディションの抜け穴」利用、チームペンスキーへの独占供給し、この年はペンスキーが独走でしらけたレースになった。しかしここまで行った背景へメルセデスの北米販売マーケット拡大一環
事業とも呼ばれており、インディ500のガス・アレーはハリウッドスターや
ビジネス界で成功した大物、各プロスポーツの有名人が普通に来るせいもあり宣伝効果を考えれば勝ちたいのは当然と言える。

*:加えて当時、”世界最速のアマチュアレーサーで俳優のポール・ニューマンがMa&Miアンドレッティ親子を自チーム(共同オーナー)のレーサーにしていた。「レース場では彼らが主役で私は監督という脇役でしかないよ」
こう答えて下さった史上最高のブルーアイは優しく輝いていた。
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 IRLでトヨタがインディ500を制覇したがまだ同社の知名度は今ほど全米
で知られておらず、日本人レーサーもターボエンジン(CART時代)にトヨ
タ供給した日本人レーサーパイオニア、ヒロ松下さんが有名であった。だが
2004年に歴史が動く、公式フリー走行でトップタイムを叩き出す!ものの、
会場電光掲示板消えるというアクシデント発生。モーリス・ナン・レーシングへ移籍した高木虎之助選手である。
(NAエンジンで225マイルだったかな?)
 決勝も世界中130か国へ生中継されるレースで常にトップ5で映る激走は初めてでこれが日本人レーサーの実力にトヨタ・エンジン採用チームの
力が証明された。F-1からの転向へ冷ややかな反応をしていたのは日本で
良くこのレースを知らないファンと欧州の一部のファンである。会場では
”次に勝てる日本のエンジン、日本人は勝てるか?”という話題へ切り替わった。高木虎之助選手のいたチームは決して名門でなく当時、Gフォースというオーバルへ強いシャシーを採用していた(他はダ・ラーラが多い)。
 この後にホンダが登場し最強エンジンとなり、佐藤琢磨が悲願を果たす。
ブリックヤード(スタート&コールの幅70cmmX長さ15mmのレンガ)
通過直後の初優勝した瞬間に狂喜乱舞した佐藤琢磨選手の声は覚えている
方々も多いだろう。

1990年の5月メモリアルデーに日本人初のエントリーをヒロ松下さんが行い彼らの影武者として長くお伝えしてきた「日本人が果たせるかどうかの夢というスケール壮大なヒストリーは日本人初・HONDAエンジン初のダブル
初という歴史的快挙あり優勝者の顔が刻まれる”ボルグワーナー・トロフィー
へと残っている”。
 こうなるまでに何年掛ったか?また幾人の方々が挑戦してきたかという重みを実感して頂きたい、勝てるマシン・勝てるエンジン・勝てるレーサーに
なったからこそ佐藤琢磨選手の人気は素晴らしいものがある。

 そして優秀な(勝てる)マシンは最後は日本の技術・職人の魂が宿っている点を忘れてはならない。この点へは多くの企業・社員・関係者の方々あって彼らの想いも載せてレーサーは栄光に向けてアクセルを踏む。
単純なレースはこの世へ存在しない、人の人生が掛かっているのだから。