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哲学カフェ『運がいいってどういうこと?』


第14回
2024.6.15(土) 18:30-20:30 @奉還町4丁目ラウンジカド

説明文:前回の選択可能不可能というような話を巡るなかで運について考えてみたくなりました。そもそも運がいいとは、その人が望んだものあるいは望んでないものがやってくるというような文脈で使うことが多いように思います。思っても見なかった幸運な出来事、どうしようもない不運など。この言葉にはなんとなく自分の領域を超えたものからくるものという印象があります。それは人間が勝手にあるような気がしてるだけなのでしょうか?それとも人智の及ばないものがある? あるいは最近の研究では運がいい人の特徴を列挙される場合もあります。生き方によって運の良し悪しが大きく変わるということなのでしょうか?もしかすると前者の運と後者の運は意味合いが違うのかも?人間の領域だけでないところも想定し加味しながら考えてみましょう。


記録
Tくん


参加前:哲学カフェの参加前、「運」は自分で変えられるものと変えられないものがあると漠然と考えていた。


参加後:
参加後はその考えを深め、「運」という事象は「自分で変えられるもの」と「変えられないもの」が二元的でなく、こっちは何%、そっちが何%というように混ざり合って存在しているのではないかと考えた。また、議論の中で、「純粋な運」という言葉が出て強く興味が惹かれた。これは、おそらくとある運の事象で、「自分で変えられるもの」が0%で、「自分で変えられないもの」が100%になっているときに起こるのではないかと思われる。余談だが、この自分で変えられるもの、られないものを「主観」、「客観」と表してもよいのではないかと考えている。ちなみに、今回の話題のなかで偶然100円を見つけて「運がいい」「運が悪い」という話が出たが、そのことで人によって意見が変わるのは、その起こったことという事実があり、それをどう感じるかという“主観“が人によって違うからだろうと感じた。


ファシリコメント:
運ということに関して。このテーマそれ自体は一見すると非常に神秘的というか、人間の手の及ばない領域のような感覚があります。ただ、やはり運というのは自分の努力や生き方によってどんなふうにも変えられるものであるという考えが会を通して一貫して出てきていました【運を活かすのは努力・実力論】。これは、突然起きるラッキーなこと(宝くじが当たるなど)とは別に語られていました。ラッキーなことがあれば突然の不運、例えば不慮の事故で身体に障害が残るなども突然起こることとしては共通です。この突然起こることそれ自体もそれが良いこととして映ることであれ、悪いこととして映ることであれ、どのように自分が生きるかによって全く状況が変わってくるという話も出ました。宝くじが当たった人がお金の使い方がわからず逆に不幸になっていくこと、大怪我を通して自分の体との関わり方を変えて結果大成功につながる人の話など具体例が出てきました。
それから、自分のやり方次第でうまくいく運も、例えばたまたま相性のいい先生や友達に出会って学校生活を楽しく送れる人もいれば、そうでない、たまたまあまり相性の良くない人と楽しくない学校生活を送るというような話も出てきました。そのことも、運を自分から引き出していったり作っていけたりするかどうかでしかないだろう、与えられたものをどう扱うかは結局は自分がどういうふうに関わるかだろう話にもなりました【手元にあるものの扱い方】。
あるいは、人から応援される力によって運が作り出されていく人、つまりは周りがどんどん手助けする形で運が増していくタイプもいるという話も出てきました【周囲による運の拡大】。
いろいろ具体的なエピソードを話すうちに、時間軸ということを挟むと、運が良い悪いという話になったら、現時点においてプラスに見える、あるいはマイナスに見えるというだけで、それが結果的にどうなるかは、時間の経過によってしかわからないのではないか、つまり【長期的な運の視点】という話が出てきました。ただ、良い悪いも自分が主観的に決めているものでしかなく、ただ出来事は生起するだけで、そこに価値判断をしているだけでしかないという意見も出ました【人間の恣意的解釈】。さらには、運命はもう決まっていて、その決まっている事象に対して人間が勝手に感情を感じているだけだというような意見も。決まっていても、未来は見えないから、運というような言葉を作っているだけかもしれないとも。かなり冷静な観察のような意見です。
そのなかで、「運が良い=幸せなのか?」という問いも出てきました。これはすごく重要な問いのように思います。急に事故で四肢を失った話なども出てきていましたが、不運かもしれないが、そのことから逆転して幸せになっていく人もいれば、宝くじで破産した人のように、運の良いことを不幸せにしてしまう人もいる、というふうに考えられる、その点は皆そうだろうというような空気になりました【運と幸福の違い】。
様々出たなかで、結局はどのような出来事も自分次第でどうにでもなっていくのではというような話に収束していく気配がしました。
そのため、ファシリとしても、自分というものが全然介在しない、「純粋な運」について考えてみたくなりました。それこそ、「自分で変えられるもの」が0%で、「自分で変えられないもの」が100%になっているようなものについてです。
そこで、参加者のTさんは思考実験を提案しました。全人類の例えば5人が完全に無作為で偶然に選ばれるという状況を想定したときに、そこに選ばれるというのはどういう意味を持つのか?(選ばれて何かが得られるわけではない)。
ファシリの僕としても非常に興味深い問いでしたが、その問いを考えるために自己の努力や、自分の力、選択(宝くじは買うという行動をしなければ運を掴めない、お金が手に入ってもそれをどう使うは本人次第だなど様々な思考実験を巡る前提条件)を取り除いていけばいくほど、その選ばれる事象が起こった、だからそれで何かが変わるわけでもなにもない、起こったというそれだけが残るのでした【事象の残像のみの運】。偶然何かが起こるということに、何らかの意味づけがなければ、事象のみが出現してただ終わってしまうのでした。この純粋な運、という問いについては改めて考える必要があるか、考えても残像のみが残るだけなのでしょうか。人間は事象に価値や意味づけがなければ、そもそも存在しないということと同じなのでしょうか?最後までファシリとしてもとても気になってしまう問いが残って終了となりました。




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