ナラティブの現実性
前回の投稿『ナラティブと無常』では、ナラティブということをかなり客観的かつ冷静に見つめました。言葉の持つ力は人間個人が持つ力を遥かに大きく超え、とんでもないことを引き起こしてしまう、ある意味おぞましい存在です。それは言葉が虚構であるがゆえです。しかし、ときに言葉は言葉の持つ虚構性を越えて、「現実ではないことは分かっているけど、現実としか考えられない」ようなリアルさを持つことがあります。言葉は確かにいろんな世界を構築している、いや、むしろ私たちの世界そのものです。でも、例えばテレビや雑誌、根も葉もない噂で構築される世界と、大変に長く苦しい闘病生活で得た世界は全くもってその意味合いも距離感もリアルさも違ってくる。ナラティブは虚構であるが、その「現実性」においては体験によってかなり違ってくるわけです。言葉で出てきているという点は同じでも、同じ濃度の言葉ではありえないし、同じ世界ではありえない、そのような体験。後者の言葉は虚構とは思えない濃い現実性です。あるいは、そのような体験は現実としか思えない言葉を露出させざるを得ないということ。
この露出、これを私は「詩的言語」と呼びたいのです。詩的言語は、現実性の最も高い言葉です。というか、虚構であることは分かってはいるが、虚構であるとは思えないという意味において現実なのかもしれない。当然虚構は現実にはならないでしょう。しかしそのことは現実がこの世界の彼方に遠く飛躍しているということではありません。現実は常に生きることと共にありますが、人間はそれを言葉として他者に共有しようとする特殊性があります。もちろん現実それ自体を共有することはできませんが、言葉を通してそれをなんとか表現しようとするところがあります。言葉にあふれ、言葉が人間を支配する世界において、詩的言語は、言葉の言葉性に対する挑戦であり、言葉の言葉性への部分的勝利なのです。 もちろんどこまでいっても原理的には自己の現実を他者にそのまま伝えることはできるかはわかりません。それは検証することができないものだからです。しかし、そのような挑戦への格闘の軌跡は、詩的言語を紡ぎ出す主体、詩的言語を“聴く”主体の世界を変貌させます。詩的言語としての格闘の軌跡は現実を影として指し示す、あるいは現実の輪郭をなぞる活動となるのかもしれません。
昨今流行りのナラティブ・ベースド・メディスン(NBM)のナラティブに出てくる言葉というのは、言葉の言葉性への挑戦こそが肝要であり、そのような言葉の挑戦でなければ、言葉の言葉性に容易に回収され、その瞬間に虚構のサイクルへと取り込まれることになります(そういう言葉は大体安易な金儲けとセットになります)。そして、本当の意味でナラティブというのは、このような特殊な言葉を紡ぎだす挑戦、あるいは、そのような言葉でなければこれまで生きてきたこと、これから生きていくということが水泡に帰してしまうだろうというような肉迫なのです。
これを紡いだ作家がいます。例えば私の故郷の熊本県出身の石牟礼道子さんです。
彼女の代表作、『苦海浄土』は、水俣病によって日常が奪われてしまった生活者との語らいから起こった、“筆を握らせる霊感”によって石牟礼道子を通して"書かれた"ものです。それは、フィールドワークとか、ルポルタージュとかそのような書き方ではありません。いいかえれば“石牟礼道子という共感体”が水俣病患者の言葉になる以前のかなしみを掬い上げた作品とも言えるでしょう。文章の持つ圧倒的な現実性と、魂を抉り出すような言葉の数々は日常的に使用する文法や語り口でありながらその次元を超越し、人間の実存を揺さぶります。この揺さぶりに耐えられない人は石牟礼さんの文章を読むと疲弊してしまうかもしれません。そのような肉迫から出た文章、機会があれば是非、『苦海浄土』を読んでみていただきたいと思います。僕の言っている意味がわかると思います。この本は、政治的に均質化された“標準語”という文体はあまり使われておりません。その大半が「高度に身体化された母国語」としての、若干天草訛りの熊本弁で書かれております。時々文章から肉声が伝わってきます。涙声が聞こえてくることや、怒声が聞こえてくることもありました。私の脳が恣意的に解釈したというよりむしろ文体がそういった血の通った感情で迫ってくるのです。極めて特異な読書体験でした。
さらなる詳細はこの記事に譲るとして、、、
僕はナラティブということを「詩的言語」「現実の肉迫」「言葉の言葉性への挑戦」として、考えてみたいと思うのです。
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