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「ある学問を学んだ」とはどういうことか

ある学問を学んだ人が、本当にその学問をきちんと学んだかどうかというのは、その領域の負の側面をきちんと知っているかどうかによって位置付けられるというふうに僕は思っている。


例えば僕は薬学をやったけれども、それは「薬学は人の病気を化学物質でたくさん救った素晴らしい学問です!」と堂々と胸を張ることではないと思っている。それはおそらく薬学を知らなくても少し薬学について調べればみんなが理解可能なことのように思う。そうではなくて、薬学がしてしまったよくないこと、薬学が社会に及ぼした(及ぼしている)害悪についても、きちんと知っておかねばならない。


例えば僕らの領域の実際で言えば、ベンゾジアゼピン系の抗不安薬や睡眠導入剤は依存性がある。なかなかやめることができない場合がある。そして、高齢者に対する薬物治療においては、転倒のリスクを有意に上昇させる。ベンゾジアゼピン系の薬剤は筋弛緩作用があるからだ。立ち上がるときに力が入りにくくなる。長期の連用からの転倒、骨折、入院というのは非常によくあることだ。しかしながらずっと服用している方を途中で止めることは非常に難しい。全く眠れなくなるだろう。そのため、現在睡眠が取れないという理由で病院をかかれば、ベンゾジアゼピン系の睡眠導入剤はほとんど処方されない。メラトニン受容体作動薬(ラメルテオン、メラトニン)、オレキシン受容体遮断薬(スボレキサント、レンボレキサント)が処方されることがほとんどだ(ただし、効果は人によってまちまちで、微妙だと話す方も多い。)

しかし、おそらく睡眠導入剤を処方するよりももっと前に本来できる医学的アプローチはたくさんある。

・人間は体温の低下によって催眠することがわかっている。
・筋肉の硬直から弛緩をすると催眠することがわかっている(ストレッチを行うなど)
・寝る前1時間程度は脳や身体を使う活動を控えめにした方が覚醒しないこともわかっている。
・呼吸のリズムを不規則にすることによって副交感神経を切りかえるという方法がある、4・7・8呼吸法など
・夕食に炭水化物を多く摂取すると睡眠の質が低下することもわかっている。


例えばほんの一部だけどこのような指導は時間がかかるが、おそらく睡眠を取るための方法を教えれば薬はあまり飲まなくていいだろう。薬があるということで他の手段よりも手っ取り早く身体の機能をいじれるようになったことは、簡便であるというプラスの側面もあれば、マイナスの側面もある。薬は何かしらの副作用が起きる場合もあるし、その手段が服用するだけという簡便な手段であるがゆえに問題に向き合いにくくなる場合もある。


しかしながら、それはその学問に対して例えば僕の場合薬学に対してアンチになるということでは決してない。巷の週刊誌がよく書いているように「薬は要りません」とか、「飲むな」とかいうのは、また話が違う。論理が飛躍し過ぎている。僕はどちらかというと性格的にアンチになったりしやすい性格だと自分で自覚している。だから敢えて現場に行こうと固く心に決めたのだが(そうでないと、ただのアンチみたいになってしまう)、現場に行って、薬の負の側面と善き側面を同時に知る機会に恵まれた。負の側面を知りながら、その学問から得られた成果をどう扱うか、それがおそらく一番大切なのだ。


だからときどき自分の学問の良さを熱烈にアピールしている人を見ると少し不安になる。個人的にはあんまり信用できないのではないかと勘繰ってしまう。むしろ、この学問によって起こってしまった問題についてきちんと把握、理解し伝えている人の方が安心するのだ。

そういえばこの前、歴史学者と話した。「歴史を教えることは戦争を助長してしまう害悪をはらんでいる。平和の逆をやっていることが歴史教育である。」「自分たちが生まれるよりずっと前に起こっていた悲惨な出来事を歴史で教えて国民感情としてあの国は過去に悲惨なことをした奴であると暗黙裡にでも教えることによって負の感情を植え付け、戦争や人種差別を継承しつづけしまっているのではないか。」「今を生きている人には直接関係のない悲惨なことを教えることが果たして本来の教育としてやっていいのか。」「それから、結局弱肉強食のような、強者が勝ってきた歴史を教えることにより、権力の強さのようなものを植え付けて、従順な存在をつくるための道具として歴史を使っているのではないか」「むしろ歴史とはその個人に関係のある存在を解きほぐすものとして、生きられたものとして生を豊かにするため使われるものではないか」

歴史学についてあまり学んでいない僕からすると、目から鱗の話であったのだ。そして、僕があまり歴史に関心がなかった理由、戦争と政治に関する歴史のみを学校で教えていたという事実とも符合して、非常に納得がいったのだった。歴史が現実感のあるものになるために必要なのはおそらく今ある生活の背景にある過去の人間の振舞いや生活の実際について各々が調べてみるということなのかもしれないとも感じた。それは歴史学を学ぶという経験を通した人だからこその説得感を感じて納得したのだ。

それから僕は「哲学」を修めてはいないがずっと勉強してきたというのがあり、哲学プラクティスなどの手法を使っている立場であるため感じることがあるのだが、哲学によって人生が救われたとか、哲学によって生きやすくなったというような発言をしている哲学者を見ると違和感を感じてしまう。
逆に、哲学者鷲田清一先生が、『くじけそうなときの臨床哲学クリニック』という本のなかで、「哲学は悩みを解決するかは別問題でむしろ哲学を知ることで悩みが深まってしまうこともあります。」というようなことが書かれている文章があったように記憶している。つまりは哲学によってしんどいことがさらにしんどくなる可能性があるという側面もきちんと書かれてあったのは僕にはすごく信頼できるように感じたのだった。哲学は問いを俎上に載せて徹底的に吟味したり他の角度から考えてみたり、問いを立て直したりする。その営み自体にいい悪いがあるわけはないが、その営みに乗せた悩みが良き方向に向かうかどうかは解らない。生きやすくなると胸を張って言えるのはたまたまその問いが自分にとって良いと感じられる方向に向かっただけではないかと感じてしまう。僕にとってそれは学問ではなくて、自己啓発、宗教(っぽいもの)への勧誘と同じような感覚を持つ。それが悪いものだと言いたいのではなく、学問とは違うものではないかと言いたい。


学がつくものとつかないものの違いは、その根底にその領域の負の側面を知りながらもその領域が社会や人間に対して何を成しうるかを考えつづけられることであるのではないかと思うのだ。そして僕は学がつくもののほうが、自己省察的で深いと思う。一度否定的なことを経由してそれでもこの領域が持つ可能性を探索することは、単に素晴らしいものだと宣伝するよりも遥かに豊かで有用ではないかと感じている。僕はそういう人を信頼しているし、今の時代は、さまざまなものが現れてその様々なものの負の側面を体験しまくってきた時代に生きていると思う。

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