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哲学カフェ『自分の生き方は選べるか?』

第13回哲学カフェ『自分の生き方は選べるか?』
2024.5.18(土) 18:30-20:30
@奉還町4丁目ラウンジカド


前置きの文章:
前回、社会における人間というテーマで話したのですが、そのなかで選択不可能なこと、選択可能なことについて考えてみたくなりました。特にそれは生き方という壮大な問いについてです。生まれてくる環境などは選ぶことができないと言われます。生まれる国籍も時代も経済状況、どんな人のもとで生きていくか選べないような気もします。一方で人生は選択の連続のような気もします。進学する、勤める、結婚するなど様々な大きな選択から、今日食べる食事、明日どこで遊ぶかなど自分で選んでいるようにも見えます。かといって広告の宣伝に踊らされて行動させられているように感じる時もありますし、嫌々ながらやっていること(やらされてること)もたくさんあるような気もします。そしたら自分で選択しているのでしょうか?さて次第にわからなくなってきます。選択の可能と不可能を行き来しながら考えてみましょう。




記録 MFNさん


参加前:
私は過去にイジメにあい中學校を不登校に…という経験がありますが、人生は産まれる前から自分で自分のこと選択をしているモノだと思っています。「したい・したくない」や「無意識・有意識」、「自覚がある・ない」に関わらず。自分以外の外的要因に影響されたとしてもそれは選択するための材料の1つでしか無いと思うし、選挙の結果とかいう話もありましたが、日本を出るという方法も選択肢としてはあるし、選挙で選択した票の結果が自分の思った通りにいかないのは自分としては自分には関係ないかなとか…


参加後:
基本的には自分で自分のことを選択しているのだと参加後でも思っている。だけど、「選択しないことの方が良い」みたいなことを話されていた方もいて、私は「自分で選択した結果だからどんなことになっても責任があるよね」って思っていたけど、もっと気楽に考えて生きていく方法もあるなぁと。「選択は幻想」って言葉も出たけど「あぁそういうこともあるかもな」って思ったりしました。


ファシリコメント:
自分の生き方は選べるか?という今回はかなり範囲が広い内容でやりました。人によってどこからが選択できるという部分が人によって様々であることがわかりました。ミフネさんのように産まれる前から親や環境を選んでいるんだという考え方【完全な自己選択】。それから親や境遇、能力などは選べないがそれをどう活かすかは自分で選べるという考え方【いかに生きるかの選択】、さらには選べるというのは実はそう思っているという幻想でしかなくて選べていないことのほうが多いのではないかということも話されました【選択可能であることの幻想】。

その3つの考えに関連したりしなかったり、様々な具体的なお話が出てきました。ある人は、若い頃は様々なことを親に決められ、選択できない環境で育ったという方。選択ができるという環境それ自体が保たれていない場合、選択できるということがいかに幸福なことであるかというを身に染みて感じていると語られました【選択できることの幸福】。

選択できることできないことを巡る様々な話は会を通してずっと出てきましたが、自分で選択していることかやらされてることかで、そのあとの後悔があったとしても“納得“ができる、そのことこそ重要であるという考え【自己選択における納得感】もありました。人生のあらゆる選択も結局はどれを選んでも何かしらの後悔がつきまとってくると考える方もおられました。とすると、なおさら自分で選べることが自分自身の選択の責任を取るためにも重要であると。それから、人間は必ず死ぬ、しかもいつ死ぬかわからないという事実から、どの選択をするかに関して、結局は楽しく生きられるように選択すればいいではないか、という根源的な存在論として選択を考える発言もありました【最期を前提とした選択】。

選択は重要という話が出たあとで、最後の方は、人間はなぜこうも選択したいと思ってしまうのか?自己選択ができない人間は弱い人間として見られてしまう気がすると、選択できることが良いことという考えとはまた別の意見も出てきました。人生は考えていけば案外選べないことの方が多いのではないか、人間は自分で選択したと思い込んでいるだけなのではないか?という意見も出ました。
「選択した」ということも記憶が十全でなければ何を選択して何を選んでいるのかもわからない、認知機能が低下した方々の選択や、産まれる前から親を選んでいるという考え方も、思い込みの部分やそう思いたいという部分が強いのではないか【選択可能性と記憶】。そこから敷衍して様々な選択は実はそれほど自分で選んでいないのではないか。。【選択可能であることの幻想】はとても示唆的でした。
それから、選択した、選択していないという明確な意志とは別に、流されつつ選ぶ、場の流れの中で選択するという、強い意志を持った選択ではない、別の選択の可能性も出てきました。哲学者國分功一郎先生がよく言われる「中動態」的な発想だと思います【流されつつの選択】。人間は意志を持った主体として存在したいのかもしれない。けれども実際はそうではない場合もある。そうでない場合もあるというのは、“気楽“に生きるということと確かに関わりがあるのかもしれません。
そして結局は、生き方の選択可能性に関して、どの考えを採用するかも自分で選んでいるのでしょうか。。。??まさにそれが“生き方“なのか。。?

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