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高円寺はなぜ「日本のインド」と呼ばれているのか。かりい食堂増川さんに聞いてみた #高円寺印度化計画①

「日本のインド」の名付け親

東京都杉並区高円寺は「日本のインド」と呼ばれている。どうしてなのだろうか。間借り店も含めて創作的なカレー屋はここ5年ほどで増加傾向だが、純然たるインド料理店がそこまで多いわけでもない。

商店街の公式キャラとして親しまれている「サイケ・デリーさん」は2014年に一般公募で誕生した。本当にゆるキャラとはこれでいいのかと思うような、一度見たら忘れられない強烈な印象を残す風貌をしている。インド系のおじさんを連想させる髭面のキノコがターバンを被っており、顔から直接生えた足には名物の「高円寺阿波おどり」を連想させる足袋がある。

大きな口からは赤く長い舌が飛び出し、その「ペロペロハッピーパワー」によって舐められたものは幸運になるという。どこからツッコんでいいのかわからないが、多種多様な人や文化が混在しどんな間抜けなものも飲み込んで受け入れてしまうという、まさに高円寺を象徴するようなキャラクターだ。

そもそも高円寺が「日本のインド」と呼ばれ始めたきっかけは、かつて高円寺に暮らし「高円寺フェス」を主催するなど高円寺愛の深い「サブカルの帝王」みうらじゅんの発言に由来するとされている。 

「サイケ・デリーさん」をキャラとして採用したのも彼だ。駅周辺には昔ながらの個人商店や安くて落ち着ける居酒屋や喫茶店、個性的なアジア雑貨店、小さなライブハウスなどが乱立しており、個人商店が強く、雑多でありながら活気がある街の雰囲気がインドを連想させるというのが命名の由来だという。

他にも高円寺にゆかりのある人物として、みうらじゅんと同じく高円寺フェスにも関わる大槻ケンヂを連想するかもしれない。1989年にリリースされた「日本印度化計画」の「日本をインドにしてしまえ!」という歌詞はキャッチーであり耳に残る。実は「高円寺」という地名は歌詞に一度しか登場しないのだが。


かりい食堂増川さんに聞いてみた

「高円寺は日本のインド」と呼ばれていることに関してどう思うか、高円寺在住23年の増川さんにお話を伺った。増川さんは3年前に脱サラし、高円寺あづま通り商店街にスパイスカレー店「かりい食堂」を開店したオーナーシェフだ。


「スパイスフル」でトリップ感のあるカレーを提供することを志し、インドやスリランカ、バングラデシュ料理など南アジア各国料理で諸国漫遊気分が味わえるプレートが人気だ。

かりいプレート

その言葉は半分は当たっているが、半分はそうでもないと思います。10年ほど前までの高円寺はもっと混沌としておりぶっ飛んだ人が多く、若者達の謎のエネルギーに満ち満ちていました。全身に鋲のついた服を着たハードコアパンク系のバンドマンが夜中までうろうろし、大道芸やデモ行進が自然発生する。駅前には昼間から酔っ払いが倒れており、無秩序感と多様性がある街だったんです」

インドでは違う宗教を信じる人や貧富の差のある人たちなどバックグラウンドの違う人たちが同じ場所でひしめきあって共存しているが、無秩序の中にも秩序があり、とにかく人々の生きるエネルギーが高い。アルコールも飲まずチャイだけで何時間も大の男達が熱く語り合っている様子もよく見られる。

増川さんはそうやって当時の高円寺をインドに重ねて見ていたが、年々そのようなパッションは街から失われつつあると語る。時代の移り変わりや日本経済の低迷によって、若者たちも丸くなったのかもしれない。

「高円寺に住んでからもう23年になるので、失敗も恥ずかしいことも青春の出来事も、もはや全ての思い出が高円寺が起点となっています。個人的に『酒と泪と高円寺』という言葉を作って標語に掲げるくらいです。僕は数年前からアル中になってしまいお酒はもう飲めないのですが、昔はよくライブの打ち上げの後など、ガード下の安居酒屋で飲んで暴れて泥酔していました。長く住んでいるからこその執着もあるかもしれませんが、高円寺はずっと馬鹿な街であってほしいと願っています」

その言葉には、ご自身が出店に至るまでの経緯も絡んでくる。


高円寺への開店の経緯

増川さんはサラリーマン時代に数回うつ休職を経験しアルコール中毒で倒れ、現在は双極性障害となって通院を続けている。それでも独立開業ができたのは、高円寺に長年住んでいたことで生まれた地元のつながりの縁と、新しいことや尖ったこと、マニアックでバカなことに挑戦する人を受容してくれる風土のおかげだ。

社会的にダメとされる人間にとって、高円寺はある種のセーフティーネットになっている側面がある。

増川さんは大学を卒業後、新宿のある人材系ベンチャー企業に就職した。主に求人広告のコピーライトを書くような仕事だったが、今でいうブラック企業のような風土で朝から晩まで仕事に没頭する毎日を送った。元々何かにハマりやすい性格であったことも影響し、全身全霊で脇目も振らず仕事に打ち込んでいたという。もともと音楽が好きでライブハウスに遊びに来ていただけだったが本格的に引っ越してきたのはその頃で、「クソベンチャーで働いた憂さを高円寺で飲んで晴らすような毎日でした」と語る。

しかし、バリバリ働く一方で週末はヨガセンターでの瞑想にハマったり、10年以上趣味としてカレーを作り続けるなど、働きながらもインド文化への関心は消えずますますのめり込んでいった。

休日はカレーを作って友人に振る舞い続けていたところ評判になり、月に一回程度「間借りカレー」の形でお試し営業を始めた。当時はブームもあり行列ができるほど繁盛したという。何年か経った頃、現在のお店を居抜きで安く借りられることになり、懇意にしていた地元の人からの資金援助もあり半ば成り行きのような形で開業が決まった。カレーが大好きで祖父が食堂を経営していたこともあり、第二の人生としてカレー屋さんを開こうと思っていたのが早まった形だ。

「いつも上司とソリが合わず、うつになったり休職したりし、根本的にはサラリーマンに向いてなかったんだと思います。お店を始めてからは全く儲かってはいないし平日も休日もなく忙しいけど、今はこの生き方にとてもしっくり来ています」。志は低く、死ぬまで潰れない程度に続けられたらと笑う。


高円寺をもっと日本のインドに!

最後に、高円寺をもっとインドにしていくためにはどうしたらいいでしょうかと問いかけてみた。

「村上春樹にデタッチメントとコミットメントという概念があります。デタッチメントは原義では「離れる」という意味であり、社会や関わりから離れ、遠巻きに見つめるような、冷笑的な態度です。インターネットとスマートフォンが普及した世の中的に仕方がないことではあるんだろうけれど、最近は人々の気が散っていると思います。対してコミットメントは何か好きなものに没入して深く関わっていこうという態度。本当になんでもよくて、ボロボロのジーンズが好きだから古着屋をやるのでもいいし、70歳のおじいさんがモヒカンでハードコアパンクな格好をしてもいい。バカなことを一生懸命やる人がもっと増えたらいいなと思います。商売をやるときは一歩先に行きすぎても顧客がついてこないから半歩先くらいにしておくといいと言われますが、高円寺だったら三歩先でもいい。どんなに尖ったことでも、続けていれば必ず面白がってくれるお客さんが出てきてやっていける。高円寺にはそういう懐の深さがある」

今では高円寺名物となっている阿波踊りは、第一回の昭和32年当初は「ばか踊り」と呼ばれていた。パル商店街振興組合青年部で、町おこしの起爆剤として始められたのがきっかけだ。

経験者もいない中、「道を踊りながら進む祭りが四国の徳島にあるらしい」という程度の情報でスタートを切った。第一回は250メートル程度の町内会を走り抜けるだけで、踊り方も演奏も全く本当の阿波踊りとはかけ離れたものだったという。

そんな一人のバカが始めためちゃくちゃな踊りが、今では1万人の踊り手と100万人の見物客がいる大規模な祭りになっている。自分の好きなものに没入し、バカみたいにそれを突き詰めていく。そうしたコミットメントへの回帰によって「懐の深い街」高円寺はもっとインドになっていくはずだ。


高円寺を、もっと日本のインドにしていこう!
この夏、カレー哲学は高円寺印度化計画を進めていきます。

カレー×高円寺×インドでピンときた方、自薦他薦問わずTwitterのDMまでお知らせください。インタビューして記事にさせていただきます。




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この春、何か新しいことを始めてみたい方に東京マサラ部オンラインがおすすめです。

こんな人におすすめ
・インド亜大陸料理を語れる仲間が欲しい人
・限定情報が欲しい人
・技術や知識の交換を通じてカレーの腕を上げたい人
・食文化研究や調理科学研究をしたい人
・アツいひとたちを遠巻きに眺めたい人


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