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#カレー哲学プロフィール どうしてカレーはエモいのか

カレー友達のさと2に勧められたのがきっかけで、今年の4月からnoteを書き始めた。最初は頑張って週一で書くようにしていたが、段々と書くこと自体が楽しくなっていった。


別に読まれるために書いているわけではない、なんて強がっているが、やっぱり読まれていると分かったほうが楽しい。

2つの記事が編集部のオススメ記事に選ばれたのも素直に嬉しかった。

noteにはブログとかよりシンプルで、続けやすい仕組みがある。noteよ、ありがとう。


プロフィールをずっと設定していなかったのは、自分について語ることにあんまり意味を見いだせなかったからだが、2019年のうちには何かしら書いておきたかった。


ここでかの有名なデレク・ハートフィールドが残した、カレーにまつわるこんな詩を引用しよう。

考えることはいつも2つだけにしよう。
今まで食べたカレーのことと、これから食べるカレーのこと。
3つ目はきっと余計だよ。3つ目はきっと自分のことだから。


カレーのエモさについて語ること。これまで食べたカレー、これから食べるカレーについて考えること。それがきっと自分のプロフィールの代わりになると思う。


カレーがエモい理由

「エモい」という言葉は新しい日本語だろう。ここ数年くらいで使われるようになった気がする。

語源は言わずもがな英語の「emotional」であり、感情が動かされるようなもの(感動)、言葉にできないようなものに向けて漠然と使う言葉である。古語の「いとをかし」の感覚に近いものがある。

西洋哲学の文脈で言えば、カントやウィトゲンシュタインが言っていたような、論理の枠を超えた「語り得ないもの」だという言い方もできるかもしれない。

人生における一連のカレー体験は、少なくとも僕にとっては、異常なエモさを持ったものとして感じられる。

なぜなんだろう。その理由として思い当たることとして、下記の3つを取り上げ、順番に考えてみたい。

カレーがエモい理由

  ①スパイスの薬理的作用
②幼少期の思い出によるもの
③歴史的コンテクストや異国情緒の象徴


①スパイスの薬理的作用

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一つ目は、カレーは「合法ドラッグ」なんじゃないかという説。

病気を治す目的ではなく、意識変容や気分の向上を求めて使う薬は俗に「ドラッグ」と呼ばれる。

ドラッグというのは古来より(今も)人間の生活に密接に関わってきた。

南米のシャーマンは神とのつながりを求めてヤヘー(アワヤスカ)を摂取したし、インドでもシヴァがバカスカガンジャ(大麻)を吸っている。

鬼の首を取ったかのような芸能人のスキャンダルも度々あるが、身近なところではアルコールやタバコ、カフェインもドラッグの一種なので日本人だって実際ドラッグまみれだ。

「カレーは健康にいい」とよく言われる。たしかに、カレーに使われるスパイスの中には身体機能の改善・向上のために漢方薬として使われるようなものも多くある。

実際カレースパイスの薬理効果はそういう健康促進的なものがほとんどだと思うが、中にはナツメグなど幻覚作用をもたらすようなものもある。(10gで死亡例あり)

また、唐辛子に含まれるカプサイシンを摂取すると、脳が辛さ刺激を人体に危険なレベルの熱と認識し、苦痛を和らげるため脳内麻薬を分泌するらしい。また、末端の毛細血管を広げて全身の血行を良くする効果もあるという。発汗作用もあり、結果としてひとっ風呂浴びた後のような爽快感がもたらされる。

カレーを食べ続けている人は常にトリップしたがっており、依存症レベルでスパイスを多用したカレーを求めている。これも、カレーを食べることでサウナのように体が「ととのい」、ある種のエクスタシーがもたらされているのではないか。

これが、1つ目の「カレーがエモい」理由だ。


②幼少期の思い出に起因するもの

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2つ目は、日本人特有の幼少期のカレー環境によって、それぞれの人格においてカレーに対する並々ならぬ思い入れが形成されるのではないかという説。

例外はあると思うが、多くの日本人にとってカレーは家庭料理と学校給食の定番だ。キャンプや何かの集まりの時も手軽に大量に作れるので重宝され、楽しい思い出とも結びつきやすい。

「人間は20歳までの時間が人生の8割の時間のように感じられる」という話を聞いたことがある。また、出会う回数の多いものを好きになるという単純接触効果というのもある。

また、各家庭で作られるメーカーの既成ルウを使ったカレーは「誰でも失敗しない割に、安定して美味しい料理」として語られることが多い。

同じルウを使ってもアレンジがしやすいので各家庭においてアレンジが存在し、料理はしないけどカレーに対してだけは異常にこだわりがあるという人も結構いる。ヒアリングしてみると色々なエピソードが飛び出してくる。

こういう日本独特のカレー環境によって特定の料理がカレーにまつわる楽しい思い出というのがたくさんできるのではないだろうか。カレーを食べることでそうやって形成された一連の思い出が呼び起こされ、なんだかエモくなってしまうのではないか。

これが2つ目の理由。


③歴史的コンテクストや異国情緒

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3つ目は、カレーという食べ物はとりわけ「旅気分」をもたらすのではないか、という説。これは日式カレーよりももうちょっとスパイシーなカレーやインド亜大陸料理に当てはまるだろう。

日本にカレーが入ってきてからまだ100年ちょっとしか経っていない。カレーは、外国の食べ物なのに一気に日本人に受け入れられ、国民食となっている。

いわゆる日式カレーはもともとは西洋の列強から「洋食」の一つとして入ってきたものだが、「カレーといえばインド」という漠然としたイメージは多くの日本人がもっているようだ。(かなり割れてる)

それはまあ大きい意味では間違っていないのだろう。しかし、インドに行ってみてどこにもカレーなんてものはない、ということを知った後でも、日本で食べるカレーの背景には相変わらず「異国情緒」感がついて回る。

異国の食べ物はたくさんあるんだけど、カレーが特殊な点は、馴染みのある日本的なカレーがある一方で、馴染みのない外国料理にもカレーと呼ばれるものがあり、そこに共通項が見出せることだ。そしてこの辺の混同がよくある混乱の原因かも知れない。

また、旅好きな人は国内でできるショートトリップとしてその筋のお店に食べに行ったりすることも多いだろう。それは旅に出られない穴を埋める代償行為なのかも知れないけど、日本にいながら異国体験ができるのは楽しいし、学ぶことは多い。

カレーを食べて、その背後に存在する無数の歴史の変遷に想いを馳せる。人類の歴史はカレーの歴史なのだなあ、と。


カレーがエモい理由として、以上の3つを挙げてみた。

カレーに関して語り得ぬ「エモさ」。それはロジックの対極にあるものだ。でもそれをなんとかして掬い上げて、ぼんやりとでも描いていけたらいいな。技術も知識も足りなくて、悶々とした日々は続くんだろうけど。



これまで食べたカレー

5年前に大学カレー部を発足して以来毎日カレーを食べ続け、既に2005日が経過したらしい。

就職してからは仕事の合間を縫って国内各地へカレー旅に出かけ、たまにイベントでカレーを作ったりし、長めの休みにはインド、スリランカ、ネパール、パキスタン、バングラデシュを訪れて食文化を探求した。カレーはいつでも思い出の付箋だ。

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腹パンになるまでレストランを周りまくり、コネを駆使して家庭に潜入しレシピを盗んだ。そこまで自分を駆り立てたモチベーションは、いつも「もっとカレーを知りたい」という好奇心だけだった。

しかし、そうやってカレーを食べれば食べるほど、知れば知るほど、分からないことばかり増えていく。カレーを食べ続けた末、皮肉にも「カレーなんて存在しない」という結論に至った。


これから食べるカレーのこと

カレーなんて存在しない。そういう結論に至っても尚、僕は目の前の料理にカレーを見出さざるを得ない。

これから僕はどんなカレーを食べることができるのだろうか、これから何がしたいのか、この旅の間そんなことばかり考えている。しかしそれもそろそろ終わりに近づいている。

思うことは色々あるが、旅するにはやっぱり時間が足りない。それに、自分は日本のことも世界のことも全然知らない。

今回の旅を踏まえて、これから食べたいカレーが2つできた。


・世界カレーの旅
いま、自分に必要なのはお金よりも時間だ。ちょっと長めにカレーの旅に出たい。本を読んで、表現手段としての写真や絵を勉強したい。インドに留まらず世界のあちこちでキッチンに潜り込み、文章と写真、絵を通じてカレーのエモを描き続ける。なんか、そういうことをもっと本腰入れてちゃんとやってみたい。

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・カレーの作り手が集まれる場を作る
「表現手段としてのカレー」といううねりが、ここ数年一気に加速してきているように思う。まだ形は具体的になっていないしわからないけど、カレーを作る人がこそこそ集まって夜な夜なカレーを作り続けるキッチンが都内のどこかにあったらいいなあ、というのをずっと考えているのでそろそろやろうかな。


2020年はこんな感じで行こうと思います。旅の間、おでこの広告枠はいつでもお貸しします。


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自己紹介

いただいたサポートは全てカレーの材料費と東京マサラ部の運営資金となります。スキやSNSでのシェアもお願いします。 インド料理やカレーの本を出したいです。企画案がたくさんあるので、出版関係の方、ぜひご連絡ください。