ジビエを現代思想として考えてみた:闘病生活13日め:日誌(令和二年十二月十五日)1218日目

概要:総合得点5(可判定※体調不良)。重症。記録開始から1218日目

4:18に起床。睡眠の質は良質。

日目標は「休養」とする。ただし演習のコメンテーターの準備をしなくてはならない。

今日は重症だった。ひどいふらつきがあるので座ることが難しく、今日は一日中寝込んでいた。
能動的な知的欲求が高まってきたのは休養の効果といえるが、まだ実行に移すタイミングではない。現状ではすこしでも能動的に研究しようとすると身体が耐えられないはずである。

なるべく早めに頭をリセットして博士論文の方法論序説を考えたいところである。基礎的なところに戻るのがよいだろう。

考えたこと

1)あるnoteクリエイター( YouTuber)のフォローをやめた。彼の水準では会話が成立しないだろうから特に議論するつもりもない。単純にわたしにとって興味がなくなっただけである。

2)アニマル・ライツとヴィーガニズムについて考えた。わたしは両者については正確な知識を持っていないので戯言と受け取っていただいて結構である。誰かと議論しようとかそういうことは考えていない。ただし意見・異論があれば聴きたい。
【基本的な立場】
・わたしはアニマル・ライツを肯定するが現状を変えるということはせず、アンチ・ヴィーガニズムの立場を取る。両者は矛盾しないどころか完全に整合関係にある。
【理由】
・捕食ー被捕食の関係は「概念」ではなく、生態系の「原理」である。
・生命はおおよそ日光などのエネルギーや周囲の有機物を吸収(植物)するか、別の細胞を捕食する(動物)などして維持されている。哺乳動物が生態系において占めるニッチでは細胞レベルの捕食ー被捕食関係が主である。その点では捕食される細胞が動物であろうと植物であろうと差はない。
・ヒトはホモー・サピエーンスという動物でしかない。ヴィーガニズムが主張する「ヒト」を「動物」と峻別する議論はそもそも哲学的でもなければ科学的思考でもない。
・「ヒュームのギロチン」に照らして考えるのであれば、「人は雑食性”である”から肉食をやめ、菜食主義になる”べき”だ」という主張は不可といえる。
ヒトという「動物」の食性は雑食であり、それ以上でも以下でもない
・したがってヒトの雑食動物の食性として肉食を否定することは、ヒトという動物の権利を否定することになる。
ヒトがヒトらしく生きることはアニマル・ライツの観点から是認されなければならない。
・動物が動物らしく生きることがアニマル・ライツの根本的主張であるならば、動物を擬人的に扱い、人格相当の権利を認めるということ自体が否定されるはずではないか。動物には動物目線の価値観があると考えるのがアニマル・ライツの本質であろう。
・ヴィーガニズムという「思想」は生命に等級を付与し、ヒトに近いと見做す動物に特権を与えようとする人間中心主義の差別思想である。
・農耕は人類が獲得した技術であり本質ではない。
・菜食主義が進歩的な思想であるという発想は時代遅れの素朴な進歩史観である。
・ヴィーガニズムが主張する畜産業批判と肉食批判は本来は問題の所在が別のところにある。
・畜産業批判はアニマル・ライツの観点から共感できる部分もあるが、捕食ー被捕食の関係からは逸脱していない。畜産業の本質は野生動物が自然下から採取され家畜化された時点で捕食され続けている点にある。産業化された被捕食が非「人道」的な搾取であるならば必要な肉だけを採取するジビエイズムはそうではない。
・極端な話をすれば、みんなでナイフと猟銃を持って肉を狩ればよい。
・ペットを愛玩することは「食べる」ことと命を消費することという次元において本質的に差はない。もしもヴィーガンがペットを飼っていたら私は笑うしかない。
・アニマル・ライツを真摯に認め、実行する唯一の手段は「他の動物に関心を持たないこと」である。しかしヒトが生態系に位置する以上それは徹底不可能である。
【結論として】
つまりわれわれは何も変える必要はない。

総評

基礎研究0/総合得点5(可判定※体調不良)

重症である。ひどい一日であった。

令和二年十二月十五日 枯野屋 しるす

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