幸福論
私たちが生きる意味とは何なのか。人間誰しもが一度は考えるであろうこの問いを、僕は試験中の余り時間で考え始めてしまった。その思索の痕跡を残しておこう。
まず一点。私たちの生というものは、他者によって規定されることはないというのが、私の基本的姿勢である。これは各実存主義者の考え方や、ウィトゲンシュタインの他者の感情等を完全に理解することはできないとする考え方に大きく影響を受けている。自分の生が自分だけのものであり、他者の関与を許さないものであるのは当然で、その解釈権すら他者に握らせないものだとも思う。
しかし、私は普遍的な生の意味について考えてみたいのだ。なぜなら私たち人間が抱える最も大きな問題が、私たちの存在に対する疑問だからである。この単純な好奇心に基づく探索がお門違いであることは、前段で書いた通りである訳だが、まあそれでも良い。タブーを考えてみるということもまた、自分だけの生のあり方なのだ。
では早速本題に。結論からいこう。私たちが生きる意味は「幸福」である。「私たちは幸福に向かって生きている」のである。これの意味するところは後に書くとして、まずこれに対する反論について考えてみたいと思う。
最も想像しやすい反論が、「私たちは最後に死を迎える訳だが、その、生の先にある死が幸福だというのか?」というものだ。ハイデガーは「死への存在」と私たち人間を評価したが、私の考えはこれに反するものではない。私の考えでは、人間が死に向かって生きていることは否定しない。むしろ積極的に肯定する。その上で、もっと俯瞰して見た時には、私たちは幸福に向かっていると捉えることができるという考えなのだ。生の先、死では何が待っているのか、私たち生きるものには予想もつかず、語ることができない。したがって私たちは死自体が幸福か、それとも不幸なのか、それを考えることはできない。ならばなぜ俯瞰的には幸福なのか。私たちが語り得る現世においてのみ考えてみると、幸福は生きている間しか感じられない。故に、死は私たちから幸福を永久的に奪い取るもののように思える。しかし、死がなければ私たちは永遠に幸福を享受すると同時に、様々な苦と隣り合わせのまま生きていかなければならない。年を経るにつれ、私たちの体はその経年劣化的要因によって苦を感じやすい、また苦を生み出しやすいものになっていく。これは人間に限らずどの生物、さらにはどの物体においても同じであろう。最初の頃は苦よりも幸福が大きかったのに、いつのまにか苦が幸福を上回っている。この状態をある一定期間で感じる(3年間頑張ろうと思っていた部活が最初のうちは上達も早く楽しかったが、徐々に飽きてもきて嫌なとこばかりが目につき、部活によって自分が苦しんでいるだけになる)ことはあるが、これが一生というスケールでも起きているということだ。つまり死は、私たちの幸福を上回るようになった苦を取り除き、苦との決別という最大の幸福をもたらすのだ。
しかし、ここで新たな反論が生まれるだろう。「生きたいと思いながら死んでいった人も、幸せに向かって死んでいったというのか?」確かに世の中には病気や事故によって、愛する人と別れざるを得なかったり、自分の成し遂げたかったことを道半ばのままにして逝ってしまう人もいる。これは周知の事実だろう。彼らの幸福が死の苦を上回るものだったと考えるのは些か不自然であり、死ぬことが彼らの望まない不幸であったように捉えられるかもしれない。しかし、ここでも死は幸福をもたらしていると言えるのだ。なぜなら、望まない死は人を絶望に至らしめるからである。おいおい、こいつは絶望が幸福だというのか。その通りである。これでは本当にニーチェの二の舞ではないか...そんな風に思われても仕方ないのであるが、望まない死の直前、もっと生きたかったという思いに加えて、もう一つ感じることがあるだろう。それは今までの自身の人生、そしてパートナーたる家族、友人らに対する愛情だ。これは比較的満足な死に方をした場合も同じであるが、望まない死の時ほどこの傾向が強くなるはずだ。なぜなら望まない死の場合、より強く現状に対する感情が湧き起こる。それは現状に対する思い入れが強いまま死んでいくからであるが、その時私たちの現状の人生への愛情は膨れ上がり、それは幸せを私たちにもたらす。相手に愛情をかけることにこれほどの幸福はない。質的に考えて、最高の幸福である。現世への執着が、逆説的にではあるが最高の幸福をもたらしているのだ。
ここまでの話の整理
1.人間は幸福に向かって生きている
2.生きている間は幸福と苦が混在している
3.死によって幸福を上回るようになった苦が取り除かれ、最大の幸福が訪れる
4.死の直前、人生に対する愛情を通して最高の幸福が訪れる
また更なる反論を考えよう。「死が最大の幸福、最高の幸福をもたらすのなら、人間が生きている間の幸福はなぜ必要なのか?」これが最も本質的な反論だろう。この反論に対する答えを通じて、私の考えの根幹を説明していく。まず人間は幸福に向かって生きているというのは、一個人に限定した考えであることを確かにしておきたい。普遍的原理ではなく、ただ自身の中に落とし込むだけのものである。その上で、私たちは何のために生きているのだろうかと考えると、私たちは、決して死に際する最大の幸福や、最高の幸福のためだけに生きているのではない。ささやかな日常の幸せにも生の意味を感じるはずだ。この幸福を最良の幸福を呼ぶこととする。この日常の幸福の特徴として、その持続性、再現性、そして実感性を挙げたいと思う。一つ目の持続性の例としては、毎日毎日、愛する人や友達と会い続ける幸福がある。学校を卒業したら死別しない限り、幸福は日常に訪れる。二つ目の再現性の例としては、盆や正月などに里帰りした時の安心感のような幸福である。この幸福は一年に数回など一定の周期を持って定期的に訪れる。これは再来の可能性が担保されている点で、死に際の幸福とは全く異なっているだろう。そして三つ目の実感性は、この持続性と再現性に因るものである。幸福が持続するこそ、瞬間的に幸福を感じることができなくても、ふとした瞬間にいつも存在する幸福のありがたさを実感できる。幸福が再現するからこそ、幸福が確かにあることを繰り返し感じられる。そして幸福を実感することができるからこそ、幸福の持続や再現を希求し、幸福を享受できていることに感謝する。生きている間は、こんなにも素晴らしい幸福を実際に感じられるのだから、生きている間の幸福は、当然、生にとって、非常に大きな意味を持っているのは明らかだ。この持続、再現、実感の3つの要素が構成する幸福のサークルの中に人間は生きているのだ。以上のことを以て、この幸福は最良の幸福たらしめられている。
以上が私がテストの余り時間、約30分で考えた、即席(所々文章を綴りながら、論を補強している)幸福論である。論理が欠落している点を、今後詰めていき、体系化していきたいと思う。
2022.11
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