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僕らみんな情報中毒者

情報中毒について

朝食の時間、電車の中、休憩中、眠る前。私たちは一日の隙間時間を情報で埋めている。それはテレビや動画であったり、音楽やポッドキャストであったりする。

私たちは絶えず視覚と聴覚を通して情報を取り込んでおり、それらは必要なものではなく、むしろ不必要なものであると見ていい。
一方で情報の摂取量が不足すれば苛立ちや物足りなさを感じてしまう。

不必要なものを過剰に求め、供給が絶たれればストレスを感じる。この状態は中毒者と何ら変わらないように私には思える。

そしてこれは現代の人々、皆が患っている病ように映る。

不明確な実害

前述で情報中毒を病と表現した。ともすれば、病が起こす実害についても述べる必要があるだろう。だが、私が素人であるのと同時にこの病が身体的でない点で考えることが困難であるため、私が提示できるのは回答ではなく皆様の考察に使う材料が関の山だ。

煙草、アルコール、薬物といった中毒症を一般的に象徴するものはこれらが挙げられる。より身近なものを取り上げるのであれば、砂糖や炭水化物なども挙げられる。

これらは過剰摂取すれば、肺や肝臓、血管に悪影響を及ぼし、周知のとおり寿命を短くすることに直結する。そのため、これらの身体に表れる実害をもとに控えるよう伝えることができる。

だが、情報中毒においては身体的特徴は見られない。なぜなら、摂取したものは人体に影響を与えない非物質的な物のため。そのため、不足した時のみに精神に表れるので寿命を縮める等を理由に控えることを伝えられない。

この中毒に類似しているものとしてギャンブルが挙げられるが、資産の過度な散財という実害が出るため、身体的でないとしてもこれは控える理由として十分だ。

整理すると、情報中毒とは非物質的なもので身体に症状は出ない。実害が出るのは不足した時の離脱症状のみ。一見して問題のない中毒であると見ることができる。

どうしてほしくなるのか

この中毒を考える上で、どうして情報が欲しくなったのかについて考えることは外せないだろう。
どこでこの状態が始まったのかが明らかにならなければ、本質を見逃してしまうからだ。

仮説はいくらでも建てられるが、今回私が考えたいのは「退屈を逃れたい」というラッセルやパスカルの説く、人間の仕様にあると考える。退屈についての洞察を得たい方がいれば次の書籍を強くお勧めする。

退屈から逃れたいという仮説を建てれば、詳細な脳とニューロンのアルゴリズムに目をつむればそのメカニズムは単純な物。

一言で表せば、退屈を解決することへの願望と逃れる手段の発見、そして成功体験から学習。

このメカニズムを理解すると、外部から情報を得て退屈を回避することの副作用を知ることになる。陳腐な表現で申し訳ないが、機会損失ではないだろうか。

あなたが隙間を外部からの情報で埋めるたびに、内側から生まれるはずだった情報、言い換えればあなたにしか作れないアイデアと邂逅することができなくなる。それは短い目で見ても機会の損失であり、もしビジネスマンであるならば致命傷だろう。

だからこそ、昨今のクリエイティビティやらアイデア術などを押し出す記事に時間の隙間が提唱されているのだろう。


おまけ?本題?:実体験

携帯を家に忘れたことがあり、その日は一日情報を摂取することができなかったことがある。その時の体験に言語化できない感覚があったため、確かめるために意識的に情報を一日絶ってみたのがこの内容だ。

その日はかなりの頻度でスマホを探していることに気づいた。スマホ中毒かと考えたがSNSやLINEといったものは余り利用していないので該当していない。一方で動画や音楽を日常的に使うのでスマホ中毒ではなく、情報中毒だということに辿り着いた。

離脱症状には、時間の余裕や隙間を楽しめないというのが挙げられる。極端なイメージだが、常に締め切りに追われているような強迫観念だ。常に情報の摂取を求められ、他のことがうまく考えられなくなる。

さすがの私もこれが異常だということは理解できた。

もし、情報中毒かどうかを自己診断したいと思ったのなら、椅子に座り天井を5分眺めてみるといい。重度であれば1分も持たない。

もし重症だと感じたなら食事の表現にあやかって、情報デトックスでもどうだろうか。


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