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「ビジネスに活きる仏教思考」とは?PCNイベントレポート Vol.1

2024年3月30日イベント「ビジネスに活きる仏教思考」を開催しました。

PCNは「見えないインフラ」としての考え方の基盤を作るために、自らの考え方・世界観を自覚的に選んでいる状態を意味するPhilosophy-Collectives という概念をインストールするため様々な活動を行っています。活動の1つとして今回は、「ビジネスに活きる仏教思考」というテーマでイベントを開催しました。

近年Googleやintelといったグローバル企業が研修プログラムに仏教を取り入れていたり、仏教がビジネスにおいての考え方の基盤となるケースが近年増加しています。そこで今回「参加者各々が自分にとっての『ビジネスに活きる仏教思考』を見つけること」をゴールとし、仏教に関する基礎講義、瞑想体験、登壇者によるパネルディスカッション、参加者によるディスカッション・質疑応答を行いました。


仏教思考って何?

「仏教思考」とはそもそもなんなのでしょうか。「仏教思想」という単語で調べると論文などが山ほどヒットするのですが、「仏教思考」で調べてもなかなか偏った検索結果しか表示されません。「思想」とは、人生・社会・政治などに対する一定の考えのことを指し、「思考」とは、直観・経験・知識などをもとにあれこれ思いめぐらすことを指します。つまり「思考」の結晶が「思想」なわけです。その「思想」を信じることこそが宗教である、なんて思われがちですが、こと仏教においては信じることは推奨されていないんですよね。
「悟り」や「修行」からも分かる通り、仏教思想はゴータマ・シッダールタがめちゃくちゃ頑張って思考した末生まれた「その時点での結論」のようなもので、少なくとも「生を授かった時から神であるキリストが説いた」という誰も抗えない「絶対的な正解」みたいなものではありません。つまり「仏教思想」とは「世界で1番悶々と考えた人の思考回路」のこと。もっと言うと「どうやって生きていけば幸せになれるのかを世界で1番悶々と考えた人の思考回路」。ゴータマ・シッダールタよりも考えた人が今後現れたなら、それがその時点での「仏教の結論」となるのでしょう。そして実際仏教は「より論理的な結論が出たならそっちが正解」というずいぶんしなやかなルールを持ち合わせているため、2500年前から少しずつ結論が時代に合わせて変化してきました。3人寄れば文殊の知恵、なんて言いますがこの2500年間で山ほどの人が仏教に向き合った結果、「いや、こっちの方が論理的だよね。じゃあこっちの結論に置き換えよう。」なんてことが少しずつ少しずつ行われてきたのです。じゃあその論理ってそもそも何?って話になってきます。Oxford Languagesによると論理とは、「思考の形式・法則」を指すそうです。つまり思考を形式化したものが論理ということ。まとめると仏教は思想→論理→思考といった具合に単位が小さくなっています。今回はもっともかみ砕かれた「思考」にフォーカスすることで、そこから自分なりの「論理」ないし「思想」を導くことで「活かす」につなげてほしい、という思いでこのテーマを設けました。「この思考を辿って苦が一切無くなった方がいらっしゃるそうです。もしよければあなたもやってみては?」といった具合だと思ってもらって構いません。今回のイベントも「知る」ではなく「考える」を重視し、ディスカッションや質疑応答の比重をかなり大きくしています。このレポートもそのスタンスで読んでいただけると幸いです。


登壇者紹介

実験寺院 寶幢寺 僧院長の松波龍源 先生


ゼンシングループ 代表の戸川良太 氏


東京大学 東洋文化研究所 准教授の藏本 龍介 先生

本記事ではイベントの様子を一部ピックアップしてお届けします。



まず初めに、初歩的な仏教思考についての講義を松波龍源先生に行っていただきました。

松波龍源先生

現代社会のOSはマルクス思想である

現代社会、我々日本人のOSはマルクス思想なんだと僕は思います。別に日本って共産国ではないですよね。社会主義でもないんですが、マルクスが提唱したものの考え方でいわゆる先進国は全てドライブされているのかな、と思っています。
キーワードは「唯物論」「進化主義」「弁証法」の3つ、西洋思想です。

松波龍源先生
  • 唯物論
    万物、観念や精神、心などの根源が物質であるという考え方

  • 進化主義
    未開社会から先進社会までの変遷がすべて”進化”によるものであるとする考え方

  • 弁証法
    相反する2つの命題があった時にどちらかが正しい、またはさらに高次元な命題があるとする考え方

いわゆる科学的なテクノロジーとかに関しては有効な考え方だし、非常に意味があると思うんだけど、これが心の問題って考えるとおかしくなりますよね。あなたの心の状態と私の心の状態とどっちが優れているかぶつけてみましょう、みたいなことってかなり意味がないことじゃないですか。人間って物質じゃないんです。価値観とか幸せとか苦しさとか喜びとか、その時々に変化しますから、定量・客観評価ってできないんです。

松波龍源先生

経営資源「ヒト・モノ・カネ」のうち「モノ・カネ」を管理するためのノウハウが経営学・経済学で発展しても「ヒト」を管理するためのノウハウは今まであまり重要視されてきませんでした。その理由も「唯物論」に起因しているのだと思われます。定量的・客観的に評価できる「モノ・カネ」が統計で管理可能になる一方で、定量的・客観的に評価できない「人の心」をどう扱うか。その答えは仏教にあるのかもしれません。

次に瞑想体験の後、登壇者によるパネルディスカッションが行われました。

(写真左から)藏本 龍介先生、松波龍源先生、戸川良太氏

会社経営における中で一番大変なのは、解のない意思決定を迫られ続けることなんです。少なくとも自分なんかは、解のない意思決定を問われ続けているんです。「で、お前はどうあるんだ」っていうことを、問われるんです。「理念を掲げてるけど、言ってることとやってること違うよね、それでいいんだっけ?」って。あるいはどっちをやっても不正解な場合もあるわけです。どっちをやっても人を泣かせる、そんな時にどう折り合いをつけるかっていうと、どっちかが正解、どっちかが不正解と考えるのではなく、どっちも正解にしていくしかないんです。二項対立を超えて「正解も不正解もない」を受け入れたうえで。どういう風に折り合いをつけて経営を続けていくのかっていうところにおいて、仏教哲学やその仏教の考え方は役に立つんです。

戸川良太氏

弁証法で「折り合いをつける」ことは可能なのでしょうか。先ほどお話ししたように弁証法とは「相反する2つの命題があった時にどちらかが正しい、またはさらに高次元な命題があるとする考え方」のことです。そこからも分かるように「弁証法」は正解がでるまで結論を出さない考え方。なんだか折り合いをつけることとは相性が悪そうですよね。
一方で仏教は、ものごとの「絶対性」をそもそも否定しています。すべての物事が本質的には「空」である、つまり物事には固定された変わらない本質などない、という考え方です。弁証法は正解が必ずあるとしている、つまり「固定された変わらない本質」があるとしている。なんだか仏教とは相性が悪そうですよね。ただそのかわりに、「折り合いをつける」ことと仏教はなんだか相性が良さそうじゃないですか?

弁証法だとうまくいかない

そしてビジネスは、信じられない数の変数で成り立っています。円安・円高、人口減少、気候変動…。実際に、つい数年前コロナウイルスがビジネスに与えた影響は計り知れません。このたくさんの変数と対峙したときに弁証法のスパイラルにとらわれてしまうと、終わりなき変数トーナメントに苦しめられ、ぐるぐるしてしまうかも。
そんな時に結局「空」である、正解などない、とすべてを手放し、俯瞰し、考慮しなおしたうえで「折り合いをつける」といろんな考えがシンプルになるんです。1つの正解に固執せず折り合いをつけてバランス感覚良くやっていくこと、もっと言うとビジネス上の条件だけでなく、もはや自分の人生とビジネス自体に対しても折り合いをつけてバランス感覚良く生きていくこと、がビジネスを続けるうえで良いのかもしれません。正解などないので一概に"良い"とも言えませんが。

つづいて藏本 龍介先生からは、ミャンマーの経営者がどのようにして仏教と向き合っているのかについて説明していただきました。

経営者の仏教との向き合い方を日本と比較して、ミャンマーの場合はもうゴールもやり方も結構決まってるのでやりやすいんですよね。お金儲けたらそれをお寺にお布施すればいい、みたいな。在家者としてこういうルールがあるよね、あるいは出家者としてこういうルールがあるよね、みたいな感じであんまり色々悩まなくても結構ルールが導いてくれてるってところがあるんです。

藏本龍介先生

また、日本とミャンマーの仏教の位置付けが異なっている、という点についてこのようなお話がありました。

ミャンマーの場合は仏教っていうのが古い価値観の権化みたいになってるんですよ。なので、上から仏教的にこうすべきあすべきなんて言われて、それが通用しないような現状が生まれた時に「仏教なんてくそくらえ!」といった方向に行きがちなんです。しかし日本の場合、仏教はむしろリソースとして扱えて、それをどうやって自分の生活に使っていこう、みたいな発想がしやすいし、そのための材料が揃ってるな、と感じます。日本にも伝統仏教(古い価値観の権化みたいな仏教)は存在しますが、伝統仏教の価値観で生きてる人は少ないと思うので。リソースとして、演繹的に仏教を使いやすい環境にあるのかな、なんて思いました。

藏本龍介先生

皆さんは自分が「仏教徒」だと思いますか?

私は自分を仏教徒だとは思いません。サンタクロース来ますし。
理由は、はなから仏教を「活かすもの」として見ているからだと思います。
このnoteの冒頭に、『「見えないインフラ」としての考え方の基盤を作るために、自らの考え方・世界観を自覚的に選んでいる状態を意味するPhilosophy-Collectives という概念』というもはや分かりやすいのか分かりにくいのかよく分からない文章を書きましたが、ざっくり要約すると、いろいろな考え方(思考)を知り、カスタマイズすることで自分だけの「考え方の基盤(哲学=philosophy)を作ろう」という意味。考え方の基盤とは簡単に言うと「自分はこんな考え方をする傾向にあるなぁ」とか「自分は普段こんな価値観の下で物事を判断しているなぁ」みたいなもの。そんな考え方の基盤をつくりあげる思考の部分が、ミャンマーでは完全に仏教なんだと思います。仏教が完全に「見えないインフラ」化していて、自覚的に選ぶ余地もない。自分のあたりまえと仏教が無意識のうちに結びついているんです。
「仏教ってすごいんですよ!!!」みたいな見え方をしてはいけない、と自重しながら私はこのレポートを書いています。それは、ミャンマーのように仏教が「あたりまえに正しい考え方である」という圧になってしまうと元も子もないからです。考え方の基盤を作るために、自らの考え方・世界観を自覚的に選ぶために、仏教思考をカスタマイズの材料とするかは是非ご自身に決めていただきたいです。このnoteが、あなたの「考える」のとっかかりの1つにでもなっていたらいいな、と思います。

まとめ

人生を豊かにする初歩的な仏教思想についての講義からはじまり、瞑想にて仏教を”体験”し、それらがビジネスに活きた瞬間や活かすためにはどう思考を転換すべきなのか等を登壇者の方々からご教示いただいた後、その「ビジネスに活きる仏教思考」を「自分にとっての『ビジネスに活きる仏教思考』」にすべく参加者同士でディスカッションしました。
目の前で有識者3名の知識の掛け算が行われていく様は圧巻で、参加者の生活に幾分か変化を与えたイベントになったのではないかな、と思います。
ご登壇いただいた松波龍源先生、戸川良太氏、藏本 龍介先生に改めてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。


次回イベントは6月23日 14:00‐17:00
テーマは『ファンドレイジングと仏教哲学』です!
▼ファンドレイジングとは
 非営利団体が活動に必要なお金を寄付等の手段で募ること

本文中「ヒト・モノ・カネ」のくだりでちらっと、「仏教が人の心をうまく扱うためのヒントになり得るかもしれない」なんてお話をしました。その答えがもしかしたらイベント内で分かるかも?
場所は東京大学本郷キャンパス
ファンドレイジングに関する講義、仏教に関する講義どちらも実施しますので、どんな方でも・どんな方とでもご興味ありましたらぜひお越しください!

↓↓↓詳細およびチケットの申し込みはこちらから!↓↓↓

アーカイブ配信もございますので遠方の方も是非お申し込みください。
最後までお読みいただきありがとうございました!

文責
PCNメディア部/お茶の水女子大学2年
秋山ゆい子

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