【試し読み】富山豊「自著解説『フッサール―志向性の哲学』」
最新号から、
富山豊「自著解説『フッサール―志向性の哲学』」『フィルカル』8(2), 340–346
の一部を抜粋して紹介します。
富山氏は、最新号刊行記念イベント「VTuberの哲学」の登壇者の一人でもあります。
今回の記事のなかでは、近著『フッサール——志向性の哲学』(青土社、2023年)を著者みずから紹介してもらいました。
本書は、志向性というフッサール現象学の鍵概念を、簡潔な筆致で解き明かしていく優れた入門書だが、その「あとがき」にはあるVTuberへの献辞が述べられています。
VTuberへの感謝が述べられる、史上初(?)の哲学書かもしれません。
(フィルカル編集部)
「人はひとりでは生きていけない」という言葉で本書は始まる。
この言葉のいわば系のようなものかもしれないが、「本はひとりでは出版できない」ということもまた、本書を書き終えて痛感したことである。
出版に直接関わっていただいた方々はもちろん、これまでの研究を導いてくれた多くの人々のおかげで本書は成り立っている。
出版したあとも同様である。
「本はひとりでは売ることができない」。
これは単に売り上げのことを言っているわけではない。
広く話題になり、多くの読者を得るということは著者であれば当然望むことではあるが、口コミというのは売り手側が容易にコントロールできるようなものではない。
本書の刊行後、多くの方に話題にしていただいた。
本格的な書評としては『週刊読書人』第3490号(2023年5月26日号)に秋葉剛史さんによる書評が掲載されたほか、植村玄輝さんのブログ、坂間毅さんのブログでも詳細な感想をいただいた。
Twitterなどでも多くの方々が感想を書いてくださっている。
「自著紹介」などというものは所詮は文字通り「我田引水」を免れることはできないので、より客観的な評価を知りたい方はこれらの書評をお読みいただきたい。
とはいえ、自著紹介の機会をこうしていただいたからには、著書の中では明示しなかった目論見や、十分に論じ切れなかったことについても補いつつ宣伝をさせていただこうと思う。
1 フッサールにたどりつくまで
本書はフッサールの入門書ではあるが、フッサールの思想についての網羅的な解説は意図していない。
むしろ、「志向性」という一点に絞り、いわゆる前期から中期にかけてのフッサールの志向性理論の基礎の基礎を徹底して論じることを選んでいる。
その理由は、これまでフッサールや現象学の入門書を名乗る本は数多く出版されているものの、志向性がどのように成立しているのかを十分にわかるように解説している本がなかったからである。
「志向性」とは、我々の知覚や想像、想起や判断、願望や愛憎といった様々な経験が「何かについての」ものであるという、何らかの対象への方向性を指す。
しかし、我々の意識や観念、表象といったものが果たして現実の対象に関わっているのかどうか、関わっているとしてその指示関係はどのように決定されるのか、こうしたことは哲学史の伝統的にも大きな問題であったものだろう。
またとりわけ、分析哲学の伝統に属する意味の理論において「指示の決定」というのは大きな問題である。
たとえばGareth EvansのVarieties of Referenceなどは、我々がいかにして「何らかの特定の対象について」考えることができるのか、その指示はいかにして定まるのかを一冊まるごと徹底して論じ尽くした本であると言ってよいだろう。
こうした大問題について、「意識には志向性という性質があり、対象に関わっているのだ」と述べて済ませてしまっては、哲学的に重要な問題の多くが素通りされてしまう。
そこでまずは、フッサールが「志向性」というものをどのように理解しているのか、そこでいったい何が問題になっているのか、こうしたことをゼロからきちんと論じることで、フッサールの思考にたどりつくまでのサポートを目指したわけである。
こうした根底にある考え方を理解していなければ、たとえばノエシス・ノエマや把持と予持、感情移入やキネステーゼといった概念をいくら覚えても、それらが何のために必要な概念なのか、志向性の議論全体の中でどのように現れてくる概念なのかはなかなか理解できない。
そのため、志向性がそもそも哲学的に問われるべき「謎」であるのはなぜか、という出発点から徹底的に解きほぐし、我々がなぜ「対象」について思考し、経験していると言えるのかを納得いくまで論じ尽くそうとしたのが本書である。
〔…〕
続きは最新号でお読みいただけます。
ブログ掲載にあたり、必要な限りでの修正を加えました。
(フィルカル編集部)