【内容紹介】下山千遥「書評『質的研究アプローチの再検討:人文・社会科学からEBPsまで』(井頭昌彦 編著)」

8月31日に刊行予定のフィルカル最新号(Vol.8, No.2)には、下山千遥氏(京都大学)による、『質的研究アプローチの再検討:人文・社会科学からEBPsまで』(井頭昌彦 編著, 勁草書房, 2023)についての充実の書評が掲載されています。

このたび著者・下山氏本人が、この書評の紹介記事を、note用に寄稿してくれました。
ぜひご一読ください!

(フィルカル編集部)


ここでは、フィルカルVol. 8, No. 2に掲載された「書評:井頭昌彦(編著)『質的研究アプローチの再検討––––人文・社会科学からEBPsまで』」(以下、当書評)の自著(自稿)紹介を行う。
井頭昌彦(編著)『質的研究アプローチの再検討:人文・社会科学からEBPsまで』(勁草書房,2023年)は、社会科学分野でその方法論について苛烈な議論を引き起こしたKKV論争*を主題的に扱い、「質的研究」のアプローチの正当性の問い方を巧みに演示してくれる。

[*KKV論争とは、社会科学の方法論、質的研究の意義や信憑性をめぐる一連の議論のこと。G. King, R. O. Keohane, and S. Verba, Designing Social Inquiry: Scientific Inference in Qualitative Research (Princeton, 1994)に端を発し、著者の頭文字をとってこう呼ばれる。]

つまり、どのように考えれば、質的研究の方法論を適切に問えるのか。
KKVを取り巻く種々の議論を整理したうえで、社会学、歴史学、教育学、公共政治など多岐にわたる分野の専門家がこの問い方のモデルを複数提示してくれている。

科学哲学や科学史を専攻している訳でもない、言ってしまえば門外漢である私(以下、筆者)がこの書評を担当することになったことについて、疑問を抱くフィルカル読者の方々も多いと思う。
よって、当書評を書くに至った経緯について軽く触れておく。

筆者の関心

まず筆者が何者であるかについて、少し長くなるが情報を並べておく。
筆者は現在、京都大学大学院人間・環境学研究科において、ドイツの現代哲学者(といってよいのだろうか、毎回彼の肩書きがわからない)のH. -G. ガダマーの哲学的解釈学を研究対象として、近現代ドイツ哲学分野を専攻している。

研究アプローチとしては、以下のようになる。
ガダマーがその著作を読み自身の思想体系に深い仕方で影響させた、種々の哲学者の原典を追いながら、ガダマーの思想に大きく関わる、複層的で難解な諸概念(例えば「地平融合」「解釈学的経験」「先入見」「作用史的意識」)のその内実の明晰化、洗練を行うことで、その思想体系全体の見通しを得よう、というものである。


Hans-Georg Gadamer

私がガダマーを研究対象としている理由の一つは、彼の学問論(精神科学論)にある。
書評自体でも軽く触れたが、ガダマーという人は、自然科学の方法論、もしくは「方法」概念や「方法」体系に取り込まれて評価されるようになった精神科学(Geisteswissenschaft=文献解釈を主な研究手法とする人間の精神についての学問)が、実際には「方法」という尺度でもって測れない営みであるということを、「解釈」「理解」の探究によって説明しようとした人物である。
(上述の諸概念も全て、このような精神科学像を描出するのに大きく寄与している。)

筆者は、ガダマーの「理解」やそのプロセスに本質的に関わる「言語」を軸とした思想体系そのものに興味があることもさながら、この豊かで魅力的に見えるがゆえに、それが何と問われると途端に曖昧なものとなってしまう「精神科学」像を鮮明に提示することに、非常に関心を覚えたのである。

執筆の経緯

さて、書評執筆に至った経緯に戻ろう。本年(2023年)の3月16日、17日に開催された、瀬戸内哲学研究会(於、岡山大学)のセミクローズドな研究会に、筆者はオーディエンスとして参加した。

哲学史研究の方法論について取り上げるという趣旨が明に暗にこの回にはあったということで、そこでの発表はどれもとても刺激的なものであった。
ここには参加者として、当書評で取り上げた書籍の編著者である井頭先生、フィルカル副編集長の稲岡大志先生や長門裕介先生が同席しておられた。
そして丁度この書籍の書評の執筆者について話し合っている場にたまたま居合わせた筆者がこのような学問論的関心を抱いていることについて話した。
筆者は修士論文をトマス・クーンとガダマーとの比較を行うという内容で書いたということ、学部時代に中学・高校の理科の教職免許を取得したこともあり、社会科学や自然科学の学問論にもかなり興味をもっていた。
と、こういう具合で今回の書評を執筆する機会をいただけることとなったのである。

書評の概説

当書評は三節構成である。
まず、「1.はじめに」において、適宜引用を行いながら、本全体での議論の射程と内容を確認した。
既に多くの方がこの本を読み、その内容の豊かさを実際に目の当たりにしていることと推察する。
その豊かさとは具体的に言えば、その視座が提供される分野の多さ、広範さ、また理論的部分の解説(序章、第1章、第2章)の明晰な説明などである。

それゆえその確認自体は最低限に留め、当書評ではこの内容に対して「2.ガダマーから飛んでくるであろうと評者が想像する問い」を投げかけた。

この種の議論においてガダマーが登場することはやや突飛であるかのように感じるかもしれないが、このことにより、取り上げられているKKV論争の延長としての一つの議論を展開できたことと思う。
「3.おわりに」はそのまとめを簡易的に行ったにすぎない。

ガダマーは、「方法」によって精神科学が捉えられることを、主著『真理と方法』(1960)で徹底的に批判する。

これは、学問において探究・研究を進めるプロセスにおける「解釈」の「先入見」を無効化・弱毒化できるという前提が、近代自然科学の後ろ支えとして働く「方法」概念には本質的に組み込まれているからである。
この本で取り上げられる「質的研究」(これが何であるか、また何であると言い切るのがどのように難しいことであるかは、当書評で触れている)が、文献読解を主な研究手法とする人文学でなく、現代では社会科学と言われるような分野がある程度念頭に置かれているものであるとは言え、上記のような「解釈」の先行性の乗り越えの問題は無視できないものであるように思われる。

このような論旨でもって展開される当書評、お時間ある時にご笑覧いただければ幸いである。


下山千遥 Chiharu Shimoyama
京都大学人間・環境学研究科博士後期課程。専門は近現代ドイツ哲学、特にH. -G. ガダマーの哲学的解釈学。「理解」現象に関わるもの、特に学問論に関心がある。論文に下山千遥(2023)「ガダマーの解釈学における地平の歴史拘束性の徹底についての考察: R. ローティを導き手として」など。学際的活動や初学者向け講義にも関心が強く、京都大学人間・環境学研究科領域交差型プレFD企画「総人のミカタ」の運営、また京都大学高大連携学びコーディネーター事業での出前授業を複数回依頼され、各地の高校で実施するなどの活動も行う。Twitter: @Dionaea_CS


記事化にあたり、必要最低限の編集を行いました。
(フィルカル編集部)


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