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個性なんてどうでも良い

扇情的なタイトルを用意してみた。
とはいえ、別に過激なことを言いたいわけではない。

「個性」でググると下記が出てくる。
『他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性』
特に認識の相違はないと思う。
個性と聞くと大体こんな事を考えるだろう。

タイトルの「個性なんてどうでも良い」の趣旨としては、
結論から言うと「個性ではなく、自分自身を追求した方が良い」という事だ。
その理由について記載していく。

先の文言の通り、個性とは「他の人と違った」「その人特有の性質」だ。
後者自体は特に間違っていないと思うが、前者は良くないと考えている。
また、個性と言われた時に僕がイメージするのは「独自性」や「差別化」である。
つまり前者である「他の人と違った」が重要なポイントになってくる。

他の人と違う方向性を目指すということは、端的に言えば大変なことだ。
極端に言えば、友だちのAくんが英語が好きなら、僕は他の人と違った国語を好きになる必要がある。
当然、このSNSが当たり前の時代に「他の人との違い」なんてものはどこにもない。
一番重要なのは、「自分自身の幸せや生きやすさ」の追求だが「個性」の追求は、現代では不可能と言って良い。

「個性がないのが個性です」なんて定番の受け答えもあるが、そもそも字面通りなら個性のある人間なんてほとんどいないのだから、ほぼ全員が没個性だ。
だから、個性がないというのは個性ではない。
だって、他の人と同じカテゴリなんだから。

もちろん、これは誤読ということになるのだろう。
個性とは「他の人と違った」「その人特有の性質」であって、後者である「その人の特有の性質」という部分は読解の余地がある。
とはいえ、「その人特有」という言葉も解釈次第では問題ないが、これもやはり「差別化」などの誤読が生じやすいように思う。

恐らく、「同じ人間なんていない」という共通的な大認識が前提にあって、その上で人はそれぞれ違うのだから、「他の人とは違うし」「その人は特有な人間だ」という事なのだろう。
しかし、これはかなり好意的な解釈とも言える。
誤読の可能性がある言葉は、使わないほうが当然良い。

それに、「個性」という言葉だけ見ると圧倒的な善な言葉に見えるが実際の使われ方としては、誤読の方が採用されやすいように思う。
例えば、誰かに対して「個性的な服装だね」と言った時、大抵の場合は褒めていない。
良い服装だったら「格好いいね」とか「可愛いね」とかストレートに褒めるのが普通だ。
「相手が不自然なので」「何か言わなければならないが」「本当の事を言うとカドが立つ時」の便利な言葉として、個性という言葉を使う事が多くないだろうか?

個性的な趣味だね。個性的な彼女だね。個性的な方法だね。

ここでいう個性的とは「独特」と言い換えても意味は変わらないだろう。
僕らは、個性という言葉を表現の逃げとして使うことが多い。
やはり、「個性は大事」という言葉の言いたかったことからズレている気がするのだ。

では、どういう言葉が適切なのか。
それは最初に書いた通り「自分自身であることが大事」だ。
もうちょっと良く言われる言葉に直すと「自然体でいられることが大事」だろうか。

個性は大事というのは前述の通りおかしい時に使う言葉として登場しやすい。
個性を追求するということは、まだ見ぬ未踏の何かを追求する勘違いした道に繋がりやすい。
それに、そもそも人と同じ事は別に悪いことでもなんでもない。
個性的であることやオリジナリティがもてはやされているが、そんなのは一部の人だけのものであって、基本的に大抵は似通っている。

そもそも、似通っていることを大抵の人は喜ぶ。
例えば、誰かと友だちになるのは共通点がある時だろう。
相手が他の人と同じだから友だちになるのではない。
自分と共通の価値観や趣味があるから、一緒にいて楽しいし、友だちとして交流したいのだ。

個性的かどうかなんてどうでも良い。
そんなものは一切気にせずに、自分が楽しいかどうか幸せかどうかなどが重要だ。
個性や人と違うことに拘泥しすぎて、自分が分からなくなっている人が多い。
一旦、そんなどうでも良い事はおいておき、自分自身を見つめ直すのが大切だ。
それが他者と同じようなまったく没個性で面白みがなさそうなものだったとしても、自分が楽しければどうだって良い。
そう思えるようなものを見つけ、その時間でいっぱいにする事が大切だ。

個性の追求は他者を見て、自分の立ち位置を変える行為だ。
どんな時でも、自分自身を見つけて、その上でどうするかを決める方がずっと楽しい。


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