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ニーチェのいう末人の増大

哲学者ニーチェの重要な思想に超人というのがある。
端的に言えば、自らで未来を切り開いていく人だ。
その対極にいるのが、ニヒリズムにハマった末人である。

世の中を斜めにみて、何の意味もないとすべてを否定する。
生きる意味を見いだせず、ただただ生きているだけの存在。
それが末人だ。

僕はまさに自分が末人だと思っているが、今後どんどん増えるだろうな、とも思う。
僕の感覚としては、マズローの欲求5段階が叶いすぎているがゆえのことだと考えている。
日本にいる限り、滅多なことでは生存権は脅かされない。

一億総貧乏みたいな言葉もあるが、別に生きていかれない程ではない。
多少の労力をかければ、それなりに豊かに暮らせるし、セーフティーネットも完備されている。
細かい所に粗があったり、目の前にある明らかな矛盾を隠蔽するような印象はあるが、まぁ全体から見れば些末だろう。

そうなってくると、人間はより上位の欲求を目指す訳だ。
生理的欲求と安全欲求は完備されている。
社会的欲求も労力をかければ叶えられることが多い。

個人的には承認欲求で躓いている人が多いように思う。
自殺はその典型で、本来上位の欲求のはずの承認欲求をこじらせて、よりベースにある安全や生理的欲求を自ら壊してしまっている訳だ。
様々なことが絡み合ってコンプレックスが生まれている。

重要なのはベースとなる欲求が満たされており、脅かされる心配が薄いことだ。
そうなると、様々な欲求や自分にあったコンテンツが必要になる。
コンテンツが限られている際は、ただそれらを待つことが出来ていた。
例えば、僕は子供の頃は曜日ごとに好きなテレビ番組があって、毎日が充実していた。

今みたいに無料のコンテンツがYouTubeに転がっており、捌き切れないということはなかった。
ベルトコンベアみたいに一定のペースで供給され、その決まった時間を見逃してはいけなかった。
映画を見る行為や新発売のゲームをやるのは、年に数回の一大イベントだった。

ずっと待ち望んでいたことにようやく触れることが出来る感覚。
1ヶ月が3ヶ月のように感じるような感覚は、今は持ち合わせていない。
1,2週間乗り越えたと思ったら、実は1ヶ月も経ってしまったというのが正直なところである。
そういった待つ楽しみが消え失せてしまったように思うのだ。
もちろん、それは便利になったということではあるが。

僕は旅行が嫌いだ。
だけど、旅行の計画を立てるという楽しみは理解できる。
遠い未来のことを夢想して楽しむということだ。
ああでもないこうでもない。
到底実現不可能なことも考えたりして、想像の上で色々と楽しむ。
そういった楽しみが消失してしまって久しいと感じる。

メジャーなジャンルに関しては、ほとんど扱いきれないほどのコンテンツが溢れている。
そしてそのコンテンツを鑑賞するためのコストは、極限まで安くなっている。
1つのコンテンツのために我慢して働くなんて必要はなくなった。
サブスクで提供されているから、コスパやタイパなんて言葉が出てくる。

僕もサブスクは使う側としては便利だ。
ただ、どれだけ使おうが使わなかろうが定額というのは、欲求がなくなる。
また、その金額が安すぎるがゆえに元を取ろうという感覚もない。
解約するのが面倒だから、忘れてしまったから入り続けているに過ぎない。

買ったにも関わらず、まだ出来ていないゲームのことを積みゲーという。
まさに積み◯◯が増えすぎたがゆえに、それらを咀嚼するために途方のない時間を想定する。
だから一歩を踏み出せない。
その一歩を踏みしめても、まだ踏破していない場所が多すぎるからだ。

途方もない道を見て、呆然とする。
それが末人が増える原因だと思う。
もう今の時代に一律の価値観はない。

お金を死ぬほど稼いでも、買えるものは限られてくる。
使い切れないほど金を稼いでも、別に自宅でパーティーなんて開きたくない。
いくつかのサブスクに入っていれば、娯楽なんて消化しきれないくらい溢れている。

それにネットによって情報にアクセスしやすくなった。
いわゆるガチャによって、状況は大きく変わってしまう。
努力が無意味とは言わないが、努力で変えられないハードルがいくらでもある。
逆に、自分の運の良さにより、自分よりも下の待遇の人も数え切れない。

自分なりの価値観や考え方を持たないと、現代は厳しい時代になったと感じる。


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