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困難と我慢

844回目です。φです。

色々なことに困難を持つと、それだけ”我慢”の数も増える。そんな気がする今日この頃です。

マイノリティだから、マジョリティに合わせないといけない。大多数の意見が尊重されて、少数の意見は自分たちで何とかしておいて。…そんな風潮があるような気がします。

もちろん、今はダイバーシティや合理的配慮などの言葉が広まり、それなりに待遇が変わってきたかとは思います。個別のケースに合わせて対応を変えたり、マイノリティの人たちが過ごしやすくするにはどうするか、ということが話の話題になったり。

しかしながら、ちょっとした日常のひとこまで、「〇〇で困っているのはあなただけだから、我慢しなさい」ということは日常茶飯事だと私は思います。私が暮らしている環境がそうなのか、それとも社会全体にあるのかは私には判断ができませんが。

例えば、聴覚過敏。

もし私がお店に行って、「音量を小さくしてください」と言ったらどうなるでしょうか。警察等に「外の音がうるさいので取り締まってください」と言ったらどうなるでしょうか。

真剣に向かい合ってくださる人もいるでしょうし、私の一言がきっかけで目を向ける企業や環境があるかもしれません。けれど、大体はその場限りの対応、もしくは他のお客様もいるので、ということになるでしょう。近隣住民の意見がなければ、「またそのときに言ってください」とかになるかもしれません。

我慢なしに生活は成り立たない。それはそうだと思います。誰もが好きなように暮らせたらそれが一番かもしれませんが、誰かの好きなことは、誰かの嫌いなことでもあります。好きな人が多くても、嫌いな人が完全にゼロ、ということにはならないものです。マイノリティは必ずいる。どんなに多くの人が、9割以上の人が賛同しても、それに反する意見を持つ人はいるのです。

ヒーリングミュージックでもそうです。どんなにストレス軽減をうたわれるものでも、苦手な人はいる。嫌いな人もいるでしょう。

そんなことは分かっていても、どうしても困難を抱えると我慢は増える。感覚過敏は特にそんな気がするなぁ、と思います。人の快適が快適じゃない。我慢しなければならない。自分で対処しても、我慢はつきものです。

誰もが快適に、少なくとも不快や我慢を強いられるものじゃない社会。それがやってきたら、どうなるのかなぁ、と思います。

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