弱者について

人間の本質はケダモノだ。そこに知識や教養、道徳、社会性が身に付いて人間のようなものになっていく。そんな認識を持って教壇に立っている。どれだけ色を付けたとしても、社会に出ていない子どもであれば白くも黒くもなる。彼らには経験値が無さ過ぎる。でも、そうならない子どもは確かにいる。何らかの障害を抱えている社会的弱者である。

何でこんなことを書いているかといえば、ジョーカー熱が冷めやらぬ感想を読んでしまったからである。

これによると不道徳な映画だと酷評する人と、我がことのように共感する人とで、評価は二分されている。らしいのだが、私の中ではちょっと違う。

1、ダークナイトのジョーカーがまた見れた!!イエーイ!!って人

2、アーサー可哀想。アーサーを責めないで!!って人

3、悪役が主役だし、殺人を肯定して終わるなんて不道徳だ!!って人

言わずもがな、私は1の人である。年度末には攻殻機動隊を見るかダークナイトを見るかってくらいのジャンキーだった。公開初日に見たかったけれども仕事の都合で行けなかったから翌朝に行って、ようやく落ち着いたって感じである。アーサーを可哀想に思うことは無いし、ジョーカーが何をしようが、それがタイトルである映画の話なのだから、不道徳上等である。

2の人はミーハーで映画を見ちゃって、共感することで生きているから可哀想!ってなってるアイドルや可愛いもの好きの人たちだろう。3の人はヒーロー大好き勧善懲悪!コナン君が活躍するなら殺人が何件起きても気にならない!!って感じの焦点がヒーローにしか向いてない人たち。この2,3の人たちは見る映画を間違えているか、楽しみ方を知らずに見てしまったようなものだろう。初めて経験した事故なのかもしれない。

たとえば「愛のむきだし」くらい見れる人なら、こんなことにはならない。ストーリーも長さもそうだし、ゆらゆら帝国の音楽で楽しめる人がジョーカーの映画で混乱することもない。だから単純に感想を二分化するなら、ミーハーか、ファンか。ただそれだけだろう。社会問題なんて馬鹿馬鹿しい。

と、言いたいところだけれども、実際に「何らかの障害を抱えている社会的弱者」と向き合ってみると考えさせられることは多い。普通に生きていれば絶対に考えなかったけれども、教育者の立場ではものすごく考えてしまう。「コミュニティーと社会的セーフティーネットの不在」という意味もすごく分かる。

「子供を殺してください」という親たち という漫画でも家族をテーマにしながら、いろんな社会的弱者が描かれている。セーフティーネットが主体だから、ストーリーの中で不在になることはないけれども、助けきれない人はいる。

目の前でそういう子どもたちを見ていると、支援学校や授産施設に入れば何とかなるのだろうか。いっそ芸能活動の方が向いてるんじゃないかとか考えてしまう。普通に生きようとして辛い顔をするのなら、違う道に進んでもいいんじゃないかなっていつも思う。

アーサーも母親についてもっと早くから真相を知っていれば…とか、親戚がたくさんいて母親から離れて暮らしていれば…とか、セーフティーネットやコミュニティがあれば確かに別の未来があったのかもしれない。目の前にいる彼らもそうだ。関係する機関が前兆から動けることができれば何とかなるかもしれない。

でもそこには潤沢な資金があるわけでもないし、人員不足なんて教員よりさらに深刻なものだろう。だから深刻になるまでは動けない。その状態が続くことで、家庭内の問題として押し付けることで現状を回避して悪化させる。

教員はこれに対する介入をどこまで行うかは明確にされているのだろうか?出来るはずは無いのだけれども自助努力というやつだろう。ボランティア部活然り、何でも屋に仕立ててしまうからこそ適当なことが多い。家庭が頼る医療ではいくつかの診断しか出ない。不登校の理由としては聞き慣れてしまった魔法の言葉がある。

個人的には、それだけ使い勝手のいい診断があるのなら、その診断を出した医療側が責任をもって次のコミュニティへつなげるのが、大人としての最低限の仕事なんじゃないか?って思う。

教員の感覚がいい加減なのか、介入できないから放ってしまうのかは分からないが、私はモンスターペアレンツや残業代云々よりもこっちの方が腹立たしかったりする。責任たらい回しの無責任状態。イライラするけど関係者も変な人が多いから、何を言っても有耶無耶にされたりする。子どもが一番まともなんじゃないかって思うことさえある。どちらも弱者なのだ。

日本にある義務教育としての『コミュニティーと社会的セーフティーネット』は中学校で終わってしまう。この意味を考えれば考えるほど一挙一動を考えてしまうことがある。でもそんなことを全く考えない人もたくさんいる。考えることができない人だって教員にはなれる。私は正採用ですらないけれども。それに対しては別に苛立ちは無い。求め過ぎてはいけないのだ。そういうものだろう。

でも私は、彼らのことをケダモノだと思っているから、愛し過ぎてしまうのだろう。飼い猫や飼い犬と同じような愛着を持っている。期待はしていない。救いがあるとすれば、ロボットのプログラムよりは自分でエラーも吐けるし、勝手に治ることもあるからバグ探しが毎回必要ではなく、たまにで良いってことくらいだ。いや、それはすごいことである。

私はそういう視点で生きてる。

私が「人間なんて動物だよ」って飲み屋で言ったら「それはひどい」って、言われるんだけれども、みんなが思っているよりはひどくないと思う。というより、みんなはきっとハルヒみたいに、道行く人は「町の風景の一部」くらいにしか思ってない。生きているなんて感じていないだろう。

ネットの出会い系が危ない!なんて言うような社会なんだから。何なら犯罪者が潜んでいるんじゃないかって思ったりするんじゃないかな。危ない人はそんなところにはいないし、話したら何となく分かる。その人が普通の人か、強者か弱者か。普通でなければどちらも紙一重だ。PSYCHO-PASSなら色相濁っちゃう感じの人。

本当は、そういう経験値の方が大切で、学校ではそういうことをもっと知るべきだと思う。日本の教師はまだ個人と向き合っている方だ。そこには愛がある。何で他人のために金や労力をかけなくてはいけないのかって思いながらも、子どものためだから仕方ないなって思ってしまう。仕事に対する自己満足の中に、他者に対する愛情が存在している。

でもここから先、親以上に時間や言葉を使い、彼らを愛してくれる人がどれだけいるのだろうか。彼らに対する愛し方を知った子どもたちでさえ、忙しくなれば彼らのことを忘れてしまうのだろう。そんなことを思うのだ。

おばあちゃんが言ってた。あなたのことを思っているけれども、私には何もできないねぇ…って。人を思うことは、その程度のことなのだ。でもその存在は、確かにあって、どこかで支えにもなっている。アーサーにとっての母親もそうだった。家族とはそういうものだ。

私を思う人がいなくなって確かでなくなったとき、私は大人だから思い出にすることができる。でも弱者のまま世に出てしまった子どもたちは、ちゃんと何かを心の頼りにできるだろうか。そういうものをプレゼントしたいし、そういうものが必要だと思っている。

最近ハマりまくってる KOTORI のアルバムタイトル曲の REVIVAL の歌詞の中にこんなフレーズがある。

「いつかまた 思い出したなら それだけで 音楽は生きる」

私の中でよみがえったジョーカーは、いつだって道徳心を揺さぶってくる。お前はどちらを選ぶんだ?誰を信じることができる?成功の経験なんて運が良かっただけかもしれない。偶然の結果だろう?目の前にいる悪い奴らを信じることができるのか?って。

だから私は平等に、そいつらは動物だ。って言い続ける。私は私の好きなようにする。お前と変わらないって。

ジョーカーの映画を見て何を感じたかって?また会えたね。って、生きてて良かった。って。それだけさ。それ以上も何もない。1の人以外、全員、野暮なんだ。彼が何をしていたって私たちは会いたかったんだ。作ってくれてありがとう。ただそれだけさ。ブルーレイだってサントラだって日本版がいくら高くたって買ってやるぜ!愛してるぜ、ジョーカー!バットマンの永遠のライバル!

ジョークの通じないやつなんて、相手にしても疲れるだけ。仕事だけで充分。これだけ賛否両論できたなら、やっぱりジョーカー最高じゃないか。たとえサイコパスな奴でも本当にジョーカーが好きな奴は、この現象の方を楽しんでいる。それを殺人ニュースで汚すなんて野暮なことはしない。ダークナイトと同じ演出をリアルで楽しむだけ。

それを分かっていて盛り上げてくれるメディアがあるのなら、ホアキン・フェニックスからコメントもらってるんじゃないかな?なんてね。みんな「終末シンフォニック・トナカイ粉砕・反キリスト・戦争推進メタル」でも聴いて落ち着けばいい。おやすみなさい。


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