【エッセイ】小説の題名(小此木記)

[はじめに] 
 文藝誌『灯台』の小此木です。本日は、小説の題名あるいは表題というものについて書いてみようと思います。小説作品の題名、そんなたった数文字の言葉だけを見て、その深淵なる諸作品の世界についてほとんど何も語ることが出来ないというのはその通りなのですが、この拙稿は、小説の題名についてだけを語ってみることによって、今現在文学の一次創作を行っている人たち、あるいは読むだけでもう満足も満足だという本の蟲でいらっしゃる方々に、是非とも自身の本棚を振り返ってもらいながら、こいつがいう事もまぁ一理あるかもしれないな、とか、若輩者が何かテキトウ言ってらぁ、と言っていただけるような、そんなたわいもない世間話を私としてもらうべく書いた所存です。

 さて、いきなり私事から始めて恐縮なのですが、いよいよ今月、東京では待ちに待った文学フリーマーケットが開催されます。私達、文藝同人誌『灯台』の活動が皆々様のお手元にまで届くその日を、何よりも待ち焦がれている今日この頃です。
 そして、私たちの同人誌を皆さまにお渡しすることが出来ることを心待ちにしながら、同時に、今度は文学フリーマーケットに参加するご予定の他の方々の作品に我々も触れることもできるわけでして、いったいどんな作品が待っているだろうか、などと思っています。作品の発表それ自体に恐縮してばかりいる私を、さらに恐縮させていただけるような、天才諸氏による作を期待させてもらっているわけです。くどくどした表現が続きましたが、一言二言でいえば、とにかく面白い作品が読みたい!私をわくわくさせて!!という私見にほかなりません。今回、小説の題名だけを語ってみる、という試みも、そうした創作活動を行っている私達、これから創作物を目にしていただく皆々様との、その創作ということを前提とした観点から考えていければとおもっている次第です。以下は、他愛ない世間話の、その本論です。

[本論]
 私たちが読書という形で作品に触れる際に、大概最初に目の前に現れてくるのは、その作品の題名だったりします。しかし、作品名のみを見て、ふむふむ、この作品はこんな作なのか、というわけにはいきません。太宰治の『晩年』の名を見て、なるほど、こいつは晩年なのか、というわけにはいかない、というのも、最初の『葉』の箇所から読みはじめれば、この『晩年』を思う、うら若き男の横顔がだんだんと見えてきます。芥川の『老人』も、本質的なところでは『晩年』と全く逆ですが、これもまた同様です。もっと他の例でいえば、ジェーン・オースティンの『傲慢と偏見』を見て、ははぁ、この恋物語は傲慢男と偏見女なのだな、といってしまったとすれば、それはまんまと作者オースティンの、アイロニーの術中で踊らされているというものです。
 名は体を表す、という言葉が文学作品にも適用できるのかどうか、これは言い換えて、作品とその内容に相似はあるのか、という問いは、その諸作品の分析において求められるでしょう。有名で、あまりに有名で耳に蛸な話かもしれませんが、夏目漱石の『彼岸過迄』は、編集担当かなんかに、「先生、作品の完成は彼岸過ぎまでにお願いしますよ。」というようなことを言われたから、よし、じゃあ題名は『彼岸過迄』、となったという逸話があります。真偽は知りませんが、存外、そんなものなのでしょうか。しかしそれでも、以下のことについては皆さんも共有しうる意見ではないでしょうか、つまり、その作を最後まで読んでしまった後には、たしかにこの作品はこの題名にふさわしい、それしかない、というような印象を憶える経験です。では、作者はどのようにそんな題名というものを与えているのだろう。そうして、物語の本質的でないところで、また新たな問いが生まれたところです。
 恐縮ながら、創作活動に励ませていただいている私なんかの私見を挟まさせてもらうと、後から後から決まることの方がほとんどのように思います。物語における重要な概念、装置、舞台、現象、関係、そういったものを標榜する語にしておこう、というように。稀に、ある決定した主題の下に書き始めたことから、すでに表題は決まっていたという事もあります。しかし、それでも漠然としたものがほとんどで、後から変更ということも重々にあるものです。そうなる場合、つまりこの、作から題、という過程を経ると、心の中で玉磨きのように、錬磨しようとでもしているのでしょうか、よりシンプルに、より概念的に、となっていってしまいます。結果、あまりドラマティックでない物語は殺風景な表題に、変にごちゃごちゃした物語をいそいそと用意したものは、自然と奇をてらったようなものになっていきました。これは本当に、本当に、個人的な話です。
 さて、こんなことを考えてみたとき、ふと自分の中で疑問に浮かぶことがありました。先ほどの私の発言、題名において、シンプルとは何だろう、概念的とは何だろう、奇をてらうとは何だろう、殺風景とは何だろう、という事です。

 ここから、小説の題名の、題名だけを考えた試論の段階に入ります。
 私は今、自分の本棚を振り返り、あるいは短編集や全集を開き、今まで自分が呼んできた小説の表題にどんなものがあったかを個人的なメモ帳に列挙してみました。そこから、シンプルなものとそうでないもの、概念的なものとそうでないもの、とに分けてみました。それはあまりに、その作品の本質から遠ざかり、ある種作者への冒涜的な行為だったかもしれない、そう思いつつその作業をつづけていくと、だんだんと自分の頭の中に、小説題名のチャート図、分布図みたいなものが現れてきたのです。御託は抜きにして、さっそく如何にその区分を示そうと思います。

 小説の題名で分布図を作ろうとしたとき、私の場合それは樹形図の形となりました。最初の枝分かれは、表題が名詞であるか、文章のような構成をもつものであるか、でした。そこから、名詞は固有名詞と一般名詞に分かれます。さらにはその名詞に修飾語が付く付かないがある。また、文章形式の題名の場合、高校英語でならった第五文型を当てはめてみることが出来るのではないか、と考えてみました。つまり、SV(主語+述語)、SVC(主語+述語+補語)、SVO(主語+述語+目的語)、SVOC(主語+述語+目的語+補語)、SVOO(主語+述語+目的語+目的語)というように。それから、例外というものもあるわけです。私はそれを強調文としてよけておきました。
 いろいろと書いてみましたが、実際の私のメモを見てもらうのがいいかもしれません。型名と、その例としての作品題名を記載してきました。また、みなさんの本棚をぜひお覗きなすって、この類型と合致するかどうか、試してみてください。


作品題名樹形図
・Name型(Name and Name, Name of Name, Name+C型)
・Sentence型(SV型、SVO型、SVC型、その他(強調分型))

例)Name型 
・Name(proper noun-固有名詞)型 
 ドグラマグラ(夢野久作)、斜陽(太宰治)
・Name(common noun-一般名詞)型 
 雪国(川端康成)、女生徒(太宰治)、秋(芥川龍之介)
・NandN(名接続名)型 
 夜長姫と耳男(坂口安吾)、傲慢と偏見(J.オースティン)、海と毒薬(遠藤周作)
・NofN(名前置名)型 
 伊豆の踊子、山の音(川端康成)、夏子の冒険(三島由紀夫)、銀の匙(中勘助)
・NC型(名+補) 
 眠れる美女(川端康成)、青鬼の褌を洗う女(坂口安吾)、ヰタ・セクサリス(森鴎外)

例)Sentence型
・SV型(主語+述語) 
 死んだ娘が歌った(安部公房)、竜馬がゆく(司馬遼太郎)
・SVO型(主語+述語+目的語) 
 私は海を抱きしめていたい(坂口安吾)
・SVC型(主語+述語+補語) 
 吾輩は猫である(夏目漱石)
・強調文型 
 桐島、部活辞めるってよ(浅井リョウ)、燃えよ剣(司馬遼太郎)、

(正直に申し上げますと、文法事項や言葉のきまりには非常に疎く、そういった内容をしっかりと修学なされた方には、こんなもの出鱈目だと注意お叱りを受けるやもしれません、がしかし悪しからず今日の所はご放念ください。)

 書いてみて気づいた点は、文章形式の題名はなかなか思いつかないことだった。特に、強調文型と称したものは、探すのが難しかったほどだ。それは先述の通り、私が概念的でシンプルな用語を多用しているからかもしれない。しかし同時にそんな私にとって興味深いのも、つまり目を引くのは、文章形式の方であり、先述した漱石の、彼の代表作『吾輩は猫である』なんかは、わかりやすく主語述語補語の形である。吾輩は猫である、今更この作品の題名の特異さをいってもしょうがないが、なんども口に出したくなる響きがある。本当にこんな手垢のついた話をしてもしょうがない話であるが、だ。また、他の観点では、安部公房の『死んだ娘が歌った』や、坂口安吾の『私は海を抱きしめていたい』は、彼らの短編集でもひと際目立ち、かといって悪目立ちをするのでもない、いずれも傑作である。特にこの二作品は、その作者にしては珍しく女性一人称形式を用いている点も含め、非常に印象深く読んだ記憶は今後とも失われることはないだろう。そして、特筆すべき強調文型の一例に挙げた『桐島、部活辞めるってよ』に関しては、当時この作の名前を聞いた誰もが一度は耳を疑い、興味を抱かせられることを免れなかったことだと思う。とはいえ実は私、まだこの作をしっかりと読んだことがなかったりもする。またそれとは別に、かっちりとした歴史小説の印象を持った司馬遼太郎(遼の字が違いますが、これは変換できなかったためです、司馬ファンの方すみません)に関しては、上記の作名以外にも『飛ぶが如く』など、実は珍しい題名の形式を用いている。同じ題材が用いられることの多い歴史小説界隈の中で培われた技術なのだろうか、と専門外ながら邪推してみる。

 という具合に、題名分類なるものを設けてみたのだけれど、正直、だからどうしたという話ではある。まったく文學的な要素を含んでいないという指摘は、これまたまったく私も同意するところではあります。
 とはいえ、今後の創作活動の中で題名に悩んだ時、どんな題名をつけようかと私が悩んだ時は、この分類がふと頭をよぎるかもと思っています。それが、今回題名についてのみ考えるという試みの結果なのかもしれません。それは本質に根差した論というわけではないけれど、読者の方々に最初に現れる表象的なものの、その印象に関わると思えば、今後は題名にも、もう少しこだわりをもって接してみようかと思う所存です。そうはいっても、結局今後の作も、概念的に、シンプルに、というこだわりが残り続けるかもしれませんし、そうでないかもしれません。今後の私の創作活動に、もしも長い目でお付き合いくださる方がいらっしゃれば、またこんなつまらない世間話の続きがしたいと思います。

令和6年度、五月初旬、小此木清子


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