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学部の試験にビビる事とは。

 大学教育は高校までとどえらい違いである。筆者が度々本ブログで語る”長文を読み書き出来る”能力とは大学受験で身に着ける力と少し違う。まっさらで平面的に長文をとらえるのは高校生時分までの教育スタイル。大学では出された課題を文献と格闘し、批判的かつ合理的に私見を交えて頭の中で討論し、結論を出す。こと社会学部や法学部では主に基礎理論たるホッブス、ロック、ルソーと社会科学の骨格を体得する。そこから近代現代と思想の潮流を学ぶ。法学部では法哲学があるし、社会学では当然基礎理論の講義がある。根本的に思想は完結しない現代に尾っぽを残す手がかりのようなもので、それを文献や先生の解釈を通して考え方、そしてその欠点、現代とのつながりを見出す。そうすることで今度は現代の欠点が浮き彫りになっていく。


 筆者は当然のことながら社会科学の面白みについてはある程度体感した経験を持つ。それ以上に経済学のケインズ ミルトン、社会学のコント、ヴェーバー、そして法学の我妻、芦部などの所謂知の潮流を講義を通して教わってきた。それ以上に今一番哲学の意義を感じ始めている。これは遅れながらではあるが、知と向き合い、わが物とするにはどうしても哲学という手段が必要なのである。勉強が嫌いだという同級生には散々会ってきた。彼らは知と向き合うことに労力を使うのではなく、わが物にならないのなら辞める、の一点なのであると思う。知を体得するにはそんな傲慢さは必要ないのだ。


 勿論知を体得するうえで一番気を付けなければならないのは、人に理解されずとも構わないという開き直りだ。知を体得することは即ちその得た知を多くの人と共有し討論の共通の前提として、据え置くことだと思う。そのダイナミズムこそ、知の本来の在り方であり、ルールだ。ファクトを議論の中心に据えるそれは、偏に論議の会場づくりである。論議するにはそれだけの環境がなければ、物事が進まない。大学とは、本来議論と共通善のフォーラムなのである。それは儀礼的な意味合いもあるし、共存のための要件でもあるのだ。


 昔筆者は日米同盟の歴史的沿革を学んだ。しかし、そこには所謂色んなせめぎ合いが隠されている。議論の根本は年表を暗記することではないはず。いやそれ以上に同盟の歴史は二国間の押し合いをも含有する。予算や流されるべき血、そして、国内のその度の反発や世論形成だ。岸総理や安倍総理の日米の読み合いの歴史の中で、絶えず俎上に挙げられたのが沖縄の負担であるし、予算の付け方だ。歴史は上段構えで一刀両断出来る事実は大抵ない。筆者だってそんなことを経験したこともない。


 さて、ここでタイトルにかえりたいと思う。学部試験のとき、筆者は今までの議論をどう折り合いを付けようか考えながら、学習してきた。それ以上に筆者は政治や法律とは距離をある意味置いてきたことも自覚している。筆者の所属していたゼミは色んな学部が参加していたアリーナ型のゼミである。法学部の連中や政治学の連中、文学部の連中も丁々発止にそれぞれ背負ってきたものをぶつけ合った。しかし、筆記試験は別である。筆者としては団体戦では力は発揮されるが、個人戦ではテンパりが半端じゃなかった。


 筆者の孤独とはやがて、大学という空間を離れ、それぞれのエリアで闘うという社会人としての自覚と大学の筆記試験の精神状態はほぼ同じである。今も筆者は社会人として、このド不景気を無我夢中で闘っているが、それは正しく学部生時代の筆記試験そのものであることは蓋然性高めであろう。今知の体得で鼻息荒く説を垂れてた筆者と筆記試験で卑屈なまでにビビっている筆者は同一人物なのだ。筆者はそのアンビバレンツを甲乙ハッキリさせずに両立させて生きてきた、避難民なのかもしれない。

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