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lullaby その4

『覚悟していたこととはいえ、
彼の落ち込みは相当なものだったようです』


食事の量も減り、Rはげっそりと痩せた。

「しばらくウチに預けたらどう」

Rの母親はそう言った。
だが彼は断った。
昼間はずっと母親が赤ん坊を見に来てくれていたが、
夜、仕事が終わると必ず引き取ってアパートに帰った。

Wさんと二人で育てると誓ったのだ。
彼女が命を懸けて産んだ赤ん坊なのだ。
どんなに苦労しても、
必ず自分の手で立派に育ててみせる。
Rは心にそう言い聞かせた。


とはいえ、
若いRに単身の子育ては過酷そのものだった。
慣れないことだらけだ。
抱き方に気を付ける。
寝かせ方に気を付ける。
お風呂や食事などなおのことだ。
こと、夜泣きは体に響いた。
毎晩毎晩、
アラーム機能でも付いているのごとく赤ん坊は泣いた。
ほとんど眠れない夜が何日も続いた。

そして寝不足の体で仕事に行き、
つまらないミスを連発した。
事情を知っている上司や同僚は同情的だったが、
それでもRは自分を責めた。
こんなことはどこの家でもやっていることだ、と。
二足のわらじが履けないのは自分が不甲斐ないせいだ、と。
睡眠不足からぼんやりしていて、
後輩に軽い怪我を負わせてしまったこともあった。

Rは毎日会社で頭を下げ、
疲労困憊してアパートに帰っては、
泣き止まない赤ん坊と時を共にした。
たまらなくなり、
ほとんど飲めない酒にも手を出した。
Rはストレスと疲れとアルコールにまみれていた。


ある夜。
赤ん坊は泣き止まない。
その日は得意先におもむき、陳謝した。
後輩の起こした小さなミスだった。
Rは得意先の担当者になじられていた。

「……事情は聞いてるけどさ。大変だろうけどさ。
できないんだったらやるんじゃないよ。
そんなハンパな育てられ方、
子どもにとっても迷惑なんじゃないの?」


泣き止まない赤ん坊を充血した目で見つめ、
Rは今日のミスについて考えていた。
やおら彼は赤ん坊の肩に手をかけ、揺すった。

「……なんで俺を苦しめるんだ?
お前のことが大好きなのに。
どいつもこいつも、
なんで俺だけを苦しめるんだ?
なあ、なんでだ? なんでだ? なんでだ? なんでだ?」

ストレートであおったウイスキーは、
Rの睡眠不足の脳から正常な判断力を奪っていた。
三度、四度と揺すり続けた。
赤ん坊は火が点いたように泣き叫んだ。
泣き止ませなければいけない。
慌てたRは、そっと赤ん坊の首に手をかけた。

『やみくもに働いた彼の手は荒れて、
節くれ立っていました』

赤ん坊の首のところで作った両手の輪は、
とても赤ん坊の首のサイズに一致するものではなかった。
それは彼が思った以上に細く、
そのあまりのか弱さにRは驚愕した。

『両手なんて必要ない。
片手で十分、絞め殺すことができる、と』

そう思ったとたん、
やわらかくてあたたかい感情が胸の内から噴出した。
Rは首からそっと手を放し、
赤ん坊の泣き声に合わせるようにしてすすり泣いた。


ひとしきり泣いた後、
彼はキッチンでざぶざぶ顔を洗った。
そしてやかんを火にかけると、
ミルクの準備をはじめた。
粉の量はきっちり守り、
お湯の温度も間違わないようにミルクを作った。

その時だった。


『赤ん坊の泣き声が止んでいたんです』
<つづく>



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