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円環の淵で その2

「待て!」

自分でも驚くほど大きな声が出た、という。
寒くなってきたので、単純に防寒着として盗られた。
そう思った。
しかしその上着は、
S君が学生時代に少ないバイト代を貯めてやっと買った革ジャンだった。
盗られるわけにはいかない。

S君は走った。
二十メートルほどで、すぐに追いついた。
しゃがみこんだホームレスは、実に意外だ、という顔をしていた。

「追ってこられるとは思わなかった」

ホームレスはそう言った。
どうしてそう思ったんだ、とS君が問いただすと、

「だってあんた、死のうと思ってるじゃないか」

だから上着は要らないだろう、と彼は言った。

「どうして僕が死を意識していたことがわかったか、と聞いてもね」

それは自分にもわからない。
ただ、なんとなく“わかる”と言う。
もやもや人間の周りを包む霧のようなものの色が、
普通は白っぽかったり、黄色っぽかったりするのだが、
S君の場合はどす黒かったらしい。
そういう色の霧を持つ人間は大体、
しばらくしたら死んでいる、というのだ。

S君はホームレスの話を黙って聞いていたが、
それでも怒りはこみ上げてきた。

「だからって人から物を盗るのは話がおかしいだろ、って」

S君がそう言うと、
ホームレスは寂しそうに首を振った。

「もう短い人生なんだ。寒いのだけはいやだ」

そう言って、ふっと微笑んだ。

「最近、俺の体にも見えるようになったんだよ」

その、黒い霧のようなものがね、と彼は付け加えた。

「でも、この上着だけはカンベンしてくれ、と言いました」

自分にとってとても大切な物なんだ、
とS君はホームレスに丁寧に話した。
ホームレスは寂しそうな表情のまま、何度も頷いた。
そして立ち上がると、ゆっくりと歩きはじめた。
そのまま三十メートルほど歩き、
ふとS君の方を向くと、

「大丈夫。まだまだ生きられるはずだよ」

と言った。
S君は曖昧に頷いた。
するとホームレスは頷き返し、さらに早口で何か言った。

「はっきり聞き取れなかったんですけど。

 多分こう言ったんだと思う。間違ってるかもしれないけど」

円環の淵で。

意味などわからない。
不思議な言葉だ。
円環? めぐるということ? まわるということ?
また出会うということ?
わからない。

「それがきっかけだった、というわけでもないけど」

S君はきっぱりと会社を辞め、
別の会社でデザイナーとして働きはじめた。
その会社で人脈を築き、
数年前に独立を果たした。
ホームレスと出会った辺りは何度もうろついた。
しかし、二度と姿を見ることはなかった。

そして2024年5月13日。
S君は今日も生きている。


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