生死を分ける「ま(間)」    その刹那(瞬間)(1)

 どんな人でも、人生の間に生死を左右するその瞬間に出会ったことが何度かあると思う。
振り返ってみると、私にも千分の一秒でも間が悪かったら大怪我をしたか、命を失ったか、障害者になったかの刹那が結構あった。
数えてみたらかなりある、思い出して書いてみよう。

赤ん坊時代・・・・親は大変だ、子育ても親と子の運任せの時代

私の初めての事故らしい怪我、恐らく額のタンコブであろうが、這い這いし出した赤ん坊のころである。
この時の記憶が私の最古の記憶である。
戦後の1947年から1948年の事だと思う。
世田谷奥沢の安アパートの階段が現場であった。
まだ目が完全に明るくなっていなかったのか、夕暮れ時であったのか判らないが、薄暗い中を這っていて急に体がくるくる落ちて、、、、。         母親が心配そうに私を抱いていた記憶が、その時からの記憶の積み重ねで今でも憶えている。
タンコブが出たそうだが、痛みの記憶はその時からない。       (赤ん坊は痛そうでも痛いと感じないのか)

このアパート時代にもう一つ。
アパートの廊下を這っていた記憶はあるが、その時かどうか分からない。
廊下で隣人(学生であったらしい)がこともあろうに焼きごて(焼けてはいなかったが)をくるくる振り回していた。
紐が切れて飛び出し、廊下を這い這いしていた私の額の生え際に近いところをかすめて飛び、傷を作ったが、打撃にはならなかった。
小学生の頃、額の生え際のあたりを指さして、この傷はどうしてできたの?
と母に聞いて初めて教えてもらった。
這っていてその刹那、ひと這いしてみたらどうだったか。
或いは、紐の切れるのがもう少し早かったらまたは遅かったら、どうだったか。
前の額をかすめたのだから、まともに脳天に激突だったかもしれない。
一つの「ま(間)」があつたから助かったのだと思う。
これは誰も調整できない

もう一つ危なかった話がありました。
最初の階段の件よりもっと前かも知れない。
多分冬、夜中にどうも肺炎の様な気がすると、父が私を懐に入れて、医者の玄関を叩いたがどの医院も取り合ってくれない。
父の様子にパトロールの巡査が気づき、私が頼んでみましょう、となった。
警察官じゃしょうがない、ある医院でやっと開けてくれた。
やはり肺炎の手前だったらしい。
もう少し手当が遅れたら危ないところだったといわれたそうだ。

命の恩人は意外なところにいるものだと、今では思う。
パトロールの巡査が気付かなかったらどうなったか。
他に急用があって、走り去っていたらどうだったか。
タイミングという単語をよく使います。
誰でもその存在を疑うことなく使っています。
ま(間)とはタイミングを最適にしたり最悪にする、「刹那(瞬間)」と考えてみてもいいかな。

どなたも、思い出してみたら、危なかったことがあるとおもいますよ。
何で今、旨い具合に生きている?                   もしかして、生かされている?と考えるのも意味あるかも。
意外なところに考えが及ばなかったま(間)や命の恩人がいたりして。

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