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関東統治の難しさ

【総括】 
・古代に関東平野は無く、河川と湖沼によって農地が細分化されていた
・縄文時代以降の文明の痕跡は全国上位であり、古代から大きな勢力ないし生活圏があった
・内陸部、平野部、沿岸部の特性を活かして全国屈指の人口と生産地に発展した
・朝廷の権威が及ばないため武家勢力(鎌倉・室町・江戸)の拠点に適していた


本記事は、小田原城や後北条氏に関連しています★ 【小田原城とは何か】 
https://note.com/pf_cody/n/n6a02400f06a0


前回の記事にて東国の考察をしています★

 【東国はまつろわぬ国なのか】
https://note.com/pf_cody/n/n2e8325428c13


 

1.関東の地形 

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■画像引用元 関東農政局

地図のとおり縄文時代に現在の関東平野は無く、ほとんどが海だったのです。徐々に水位が下がり、弥生時代頃に関東の平地でも農業が始まったようです。
その時代の遺跡が北関東や埼玉、多摩に点在するのもうなずけますね。

縄文時代は陸上での生活イメージが強いですが、関東の場合は平地がほとんどないので、人々は水辺で暮らしていたと想像します。それこそ漁業や小舟での交易など「海の民」だったのかも知れません。


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■画像引用元 関東農政局


関東の由来は、当初、ヤマト王朝のあった近畿より東側をすべての「東国」「あずま」と呼ばれた地域を指す言葉でした。

その後、飛鳥時代の行政区域である「五畿七道」が整備され、現在の関東地方(1都6県)のような区割り(国)ができ、「坂東」と言われました。

戦国時代の頃には足柄峠・箱根峠より東側を指して「関東」または「関八州(かんはっしゅう)」と呼ばれるようになります。
八州とは、上野・下野・武蔵・相模・下総・上総・安房・常陸です。


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■画像引用元 技術コンビニクラブさん


飛鳥時代以降、中央集権国家の基礎である農地開発が進められ、「班田収授法」、「墾田永年私財法」なども整備されます。

平安時代以降、関東の各地にも「荘園」と呼ばれる貴族の私有地や寺社領が成立し、もともとの朝廷の直轄地と併せて開墾が進みます。

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■画像引用元 黒曜石は夢見ているさん

赤いマークは由緒ある神社などの所在地です。当時の海岸や内陸に建立されていますね。


2.文明の痕跡 

『縄文・弥生時代の日本の地域別遺跡数と推定人口(小山修三, 1978,1984年)』などから、関東の遺跡数の順位や構成比をまとめてみました。

◆縄文早期(8100年前)
 全国 2,530か所 ⇒ 1,213か所(47.9%)・・・1位

◆縄文前期(5200年前)
 全国 4,399か所 ⇒ 1,782 か所(40.5%)・・・1位

◆縄文中期(4300年前)
 全国 10,893か所 ⇒ 3,977か所(36.5%)・・・1位

縄文後期(3300年前)
 全国 6,672か所 ⇒ 2,148か所(32.2%)・・・1位

◆縄文前期(5200年前)
 全国 2,530か所 ⇒ 1,213か所(47.9%)・・・1位

◆縄文晩期(2900年前)
 全国 3,159か所 ⇒ 321か所(10.2%)・・・2位

◆弥生時代(1800年前)
 全国 10,624か所 ⇒ 1,768か所(16.6%)・・・3位
120メートル以上の大規模古墳分布(古墳時代300年~600年頃)
全国 129か所 ⇒ 25か所(19.4%)・・・2位



『平成28年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)』(文化庁調べ)
 全国 158,397か所 ⇒ 24,613か所(15.5%)・・・3位

遺跡=生活圏であり、遺跡数=人口と考えると、ヤマト朝廷成立のはるか前から大きな勢力(部族)が関東にいたことを表しています。


3.人口と石高 

『古代・中世の全国国別推定人口 (澤田吾一, 1927年; 鬼頭宏, 1996年)』などから、関東の石高・人口推定の順位や構成比をまとめてみました。

◆800年頃の人口
 全国 5,506,200人 ⇒ 1,422,300人(25.8%)・・・1位

◆1150年頃の人口
 全国 6,836,900人 ⇒ 2,312,600人(33.8%)・・・1位

◆1600年頃の人口
 全国 12,273,000人 ⇒ 2,733,200人(22.3%)・・・2位


◆延喜式(927)出挙稲数
  ※古代の貸付制度(出挙)の基礎に使われた米の収穫数
 全国 43,764,311束 ⇒ 11,635,744束(26.6%)・・・1位
 

◆慶長3年(1598)石高
  ※米の生産高を量に換算したもの(米1石=約140~150kg)
 全国 18,509,044石 ⇒ 4,479,560石(24.2%)・・・2位

【遠国、流刑地、まつろわぬ国】など散々な言われようでしたが、実際は着々と農地開発が進み、朝廷(経済)を支える豊かな地域に発展したのです。(見たか!)


4.関東の位置づけ

関東はヤマトをはじめとする歴代朝廷から見て東端の直轄地であり、北海道・東北の蝦夷や俘囚地に対する前線・兵站基地となっていたのです。

700年頃~1100年頃の軍団制によって全国の治安は国ごとに徴兵された若者が配置されていました。

中でも664年以降、主に九州地方の防衛に当たった「防人(さきもり)=屯田兵」の徴兵数において、一部資料ではありますが、関東割当数が異常です。意図的に兵力を搾取し、勢力減退を狙ったようにも見えます。(超ブラック!)

◆防人割当数
  全国 2,270名 ⇒ 885名(39.0%)・・・1位

 
 山陽道 ⇒ 410名(18.1%)・・・2位
  東山道 ⇒ 400 名(17.6%)・・・3位


5.関東に置かれた主な武家勢力の拠点 

・岩井新皇府(桓武平氏 平将門)

・鎌倉城(源氏→北条氏)

・鎌倉府/室町幕府(鎌倉公方、関東管領)

鎌倉府堀越公方・上杉氏)/古河城(古河公方・足利氏)

・小田原城(後北条氏)

・江戸城(徳川幕府) 


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■画像引用元 戦国時代勢力図と各大名の動向ブログさん
https://sengokumap.net/castle-map/kanto-region/


以上により、関東は古代からの独立した在郷勢力が多く、単独勢力では支配するのが不可能な地域 といえます。

にも関わらず単独かつ新興勢力の後北条氏が関東(関八州)を統治できたのは、軍事力だけでなく内政力も優れていた証左になるのではないでしょうか。

そのあたりは追々まとめていきたいと思います。

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