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東国はまつろわぬ国なのか

【総括】
東国から移住した民族が邪馬台国やその後の朝廷を援けたと考えます。
そのため邪馬台国は南九州→北九州→大和の順に遷都し、やがて大王家(天皇家)となります。
よって、東国はまつろわぬ国ではありません。渡来系に変節した天皇家が服従を求めて侵攻してきたので、自衛のために戦ったのです。


本記事は、小田原城や後北条氏に関連しています。


考察するため下記を参考にしました。

【田中 英道先生(東北大学名誉教授)】
●延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では当時「神宮」の称号で記されたのは、大神宮(伊勢神宮)・香取神宮と鹿島神宮の三社のみ
●神宮が造営、認定されるまで数百年の歴史が必要
●神宮が2つもあるのに、大陸を通じて西国から文明が東国(未開の地)に伝わったという説は疑問。
●むしろ逆で日高見国(東国、蝦夷の地)が古代日本の中心だったのでは
【小名木 善行氏(歴史研究家・作家)】
●神武天皇は兄・五瀬命(五穀豊穣の神)を連れており、征伐ではなく農業指導をしていた(紀元前677?~紀元前660年=神武天皇元年)
●大陸の文明を知った神武天皇は「クニ」の統合を呼びかけたが理解されず、交渉するも最後は戦いになることもあった。だから滞在が数年に及ぶことになった
●古墳は必ずしもお墓ではなく公共事業として、大陸からの使者への国威を示すオブジェの役割があったのでは(仁徳天皇陵古墳などヤマト王権のもの)。西日本の大型古墳は内陸より海沿いに多い傾向
【水稲作拡大に影響したホーマー・ギリシャ極小期】
http://atmenv.envi.osakafu-u.ac.jp/aono/clihis/
●水田稲作に関しては従来、紀元前5~4世紀頃に始まったとされていたが、2003年になって、国立歴史民俗博物館が炭素14年代測定法によって推定した結果、紀元前1000年頃に開始されたとする研究結果を発表
●紀元前2000年以降には冷涼化することが多くなり、紀元前600~750年には再び著しく気候が寒冷化し、この時代を古代後期小氷期と呼ばれる。この後,紀元前750~紀元900年の間には顕著な温暖化があり,10世紀まで続いた
●紀元前500~400年の温暖な時代には,水稲作地域が加賀(石川県)から弘前(青森県)まで日本海沿いに一気に拡大した


約1万年続いた縄文時代は、研究が進むほどに私達の想像を超える豊かな文明があったと考えられます。

【仮説1 カシマ族の南下移住】
・古墳の数や神宮の格式などから、縄文時代より関東に有力な民族がいました。仮にカシマ族とします。
・カシマ族は小舟を使った航海術に長け、漁獲や物品交易を中心に栄えました。
・寒冷化により関東よりも南へ移住せざるを得なくなり、紀伊半島(のちクマノ支族)や、さらに温暖な地をもとめて南九州(のちヒムカ支族)にも移住します。


【仮説2 邪馬台国とヒムカ支族の連合(天の岩戸隠れ)】
・現在の宮崎に移住したカシマ族は、西都原周辺の先住民と同化してヒムカ支族となります。
・すでに、北九州には大陸からの移民や文化を取り込みながら小国が勃興し、やがて倭国大乱で卑弥呼の一族がヒムカ支族に助けを求め逃れます。ここで邪馬台国の原型ができます。
・ヒムカ支族の応援で卑弥呼は倭国大乱に勝利し、盟主(女王)となります。卑弥呼=天照とします。


【仮説3 邪馬台国、再びヒムカ支族と連合(天孫降臨、国譲り)】
・同時期にイズモ(中国)、ヤマト(近畿)も国を作りつつありましたが、当時の三国は勢力圏が離れていたので友好関係にありました。
・ところが、スサノオ率いるイズモが北九州に攻めて来て邪馬台国は占領され卑弥呼は再びヒムカ支族に助けを求めますが、その途上で死亡します。
・邪馬台国は南九州で力を蓄え、再びヒムカ支族の応援で卑弥呼の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は北九州を奪回し、一気にイズモまでも占領します。


【仮説4 ヤマトの勢力拡大(神武出発)】 
・イズモに勝ったことで邪馬台国は九州・中国に勢力を拡大しますが現地の抵抗は続きました。
・功労のあったヒムカ支族は邪馬台国の重臣に取り立てられます。この人物をタケミカヅチ(建御雷神=鹿島神宮祭神)、イワイヌシ(経津主神=香取神宮祭神)とします。
・ところが、ナガスネヒコらのヤマトが紀伊半島へも勢力をのばしクマノ支族は海側の土地(熊野・伊勢)へ追いやられてしまいます。
・カシマ族の同族であるクマノ支族から救援を求められ、ヒムカ支族は邪馬台国に相談しました。
・邪馬台国としてはヒムカ支族への恩もありますがヤマトとはまだ戦えないので、日向で生まれ育った卑弥呼の五代孫のイワレヒコ(のち神武天皇)を名代に外交使節団を送ることします。
・イワレヒコは四男なので、万が一があってもヒムカ支族への義理は立ち、成功すればそのまま現地を治めさせる算段だったのです。


【仮説5 ヤマトとの交渉決裂(神武東征)】
・移動経路は史実の通りです。イワレヒコとヒムカ支族まずは外交のため正面から大阪に入りヤマトと交渉します。
・邪馬台国が戦争回避していることを見透かされ、交渉は決裂し、ナガスネヒコとの戦いに敗れます。
・イワレヒコ達は体制を立て直すため、海路南下し、クマノ支族と合流します。
・イワレヒコ、ヒムカ支族、クマノ支族の連合軍によってヤマトは降伏します。


【仮説6 「大和」誕生】
・ヤマトはイワレヒコに統治されて豊かな国となり、邪馬台国は正式に大王(オオキミ=倭国君主)となります。(九州・中国・近畿の部族連合で邪馬台国は盟主のまま)
・中国との交渉のためにも国名をシンプルかつ正統性を示すために音は「ヤマト」が採用され、漢字で部族連合に近い意味の「大和」が採用されます。
・また各地の豪族をしたがえるためにも交渉用に歴史書が必要なので国内向けに「古事記(神道)」、国外向けに「日本書紀(仏教)」が編纂されます。
・古事記を編纂した稗田阿礼は中臣磐余(藤原氏)の孫とする説あり。また、天武天皇の命で記紀の基になった「帝紀」を暗誦している。


【仮説7 カシマ族こそ東国の正統な統治者】
・のちに藤原鎌足を輩出する中臣氏(なかとみうじ)は代々、伊勢神宮の神職(伊勢氏)となります。つまり中臣氏はクマノ支族の末裔と考えられます。
・鎌足以降、藤原氏は隆盛し、不比等が春日大社を造営します。この際、鹿島神宮より御祭神タケミカヅチの魂を遷したといわれます。
・藤原氏が摂関家となって栄えたのは、カシマ族として古代からの血統と功績があるからです。
・奥州に土着した藤原氏もカシマ族の末裔として東国の統治者の血統を東北の民に認められたから繁栄したのです。しかし、それを恐れた源氏に滅ぼされます。
・のちに伊勢氏は桓武平氏を称して武家となり、さらに室町幕府第7代貞氏の政所執事に取り立てられ代々栄えます。平氏の格よりもクマノ支族の血統が認められたのです。
・第8代義政に仕えた伊勢盛定の子(盛時)が関東に下向し、のちに北条早雲(関東の覇者)となります。口伝承にて関東の民はカシマ族のことを覚えていたので後北条氏に帰順します。
・後北条氏の関東制覇は古(いにしえ)の王が帰還したという意味であり、軍政よりも民政によって統治されたことの象徴が、小田原城なのです。また、鎌倉に籠って滅びた北条氏の反省(1333年から、より前衛的な立地をおさえることで西国からの介入を抑え、関東一円を治めることに成功したとも考えられます。

今後の研究、新資料の発見が楽しみですね!

ちなみに古代は今より水位が高いので平地に遺跡はなく、むしろ山間部の地下深くに眠っていると考えられます。この調査には自然破壊を防ぐために高度な地質探査機やドローンの活用がまたれます。

最後までお読みいただきありがとうございました☆


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