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お地蔵さんとしての記録ー『鈍行旅日記』のあとに

上映のお知らせ

3月12日の16時から、せんだいメディアテーク7fシアターでおこなわれる「星空と路」で『鈍行旅日記』が上映されます。

昨年、鈍行列車で三週間ほどかけて、三里塚、広島、水俣などを巡って、各地の記録に触れながら書いた日記と、その朗読とiPhoneで撮った旅先の風景によるエッセイ映画です。

※2024/01/31追記 せんだいメディアテーク2fライブラリでDVDの貸出がはじまりました。
https://recorder311.smt.jp/movie/66395/

↓冒頭を予告篇がわりに公開しています

旅行記ですので、直接の「震災の記録」ではありませんが、市民による震災記録をアーカイブする「3がつ11にちをわすれないためにセンター(わすれン!)」の参加作品として作りました。
それはなぜかということを、ここにまとめておこうと思います。

震災をきっかけに、記録者たちと出会う

震災時、私はせんだいメディアテークの2fにいました。3fの図書館で本を読んでいたら電話がかかってきて、かけ直すために下へ降りたところでした。
アルバイトの採用を知らせる電話でしたが、その最中に揺れが来ました。現在は撤去されているコインロッカーにしがみついて、地震がおさまるのを待ちました。

結局、アルバイトも流れて無職のままだったので、知り合いの車に乗せてもらってボランティアに行くようになりました。そのうちメディアテークでバスを出しているというのを聞いて、便乗して石巻に通いました。
その時できたつながりがきっかけで、2012年からメディアテーク7fスタジオで、わすれン!の参加者に機材を貸したり、編集の相談に乗ったりする仕事をするようになりました。

そのうちにフリーランスとして映像の仕事をはじめ、自分でもドキュメンタリー映画を撮るようになりましたが、スタジオの仕事も10年続けました。
『鈍行旅日記』の冒頭で「10年続けた仕事をやめて」と言っているのは、このことです。

東日本大震災からの10年のあいだに、私はさまざまな立場や考え方で「記録」という行為に向き合う人々と出会いました。
かつてない状況のなかで試行錯誤し、対話しながら記録を続ける彼ら・彼女らの姿には、私がそれまで映画やアートの世界で目の当たりにしたことのなかった「切実さ」がありました。

そして、震災から10年以上が経った今、これまで彼ら・彼女らが作ってきた記録は、これからの人々にどのように受け取られていくのだろうか、ということを思うようになりました。
それまでは「その時に何が記録できるか」と考えてきたことが、10年を境に「これまでの記録はどうなるか」という問いへと変わってきたのです。

それを考えるために、別の土地ですでに長い時の経った記録に触れてみることが、何かひとつのきっかけになるのではないかと思いついたのが、今回の旅のきっかけでした。

私は元々映画が好きだったので、三里塚を撮った小川紳介、水俣を撮った土本典昭、阿賀を撮った佐藤真など、ドキュメンタリーを通じて、日本の土地や歴史に触れる機会が多くありました。それは、土地や歴史への関心よりも先に、映画への興味があったということです。
つまり、はじめから関心があって三里塚や水俣の映画を見たというよりは、映画を見ることで、そしてそれが映画として素晴らしい作品であったことをきっかけに、その土地への関心が生まれたという順番でした。

なので今回はその逆から、映画に撮られたそれらの土地に立ってみて、現在の視点からもう一度映画を見つめかえした時、その記録はどのように見えるのかということを考えてみようと思いました。
そのことはおそらく、震災の後に作られた記録がこれからどうなるのかということにも、つながっていくのではないかと考えたのです。

記録とお地蔵さん

そして、2022年の6月16日から鈍行で三週間ほど、仙台から水俣まで旅をしてできたのが「鈍行旅日記」という日記であり、それを元にしたシネ・エッセイ『鈍行旅日記』です。

大仰にも見える目的を掲げつつ実際は呑気な一人旅でしたが、具体的な内容については日記や映画を見ていただくとして、ここでは、漠然とした結論めいたもの、もしくは、旅を終えた今の自分に言えることだけを書こうと思います。

一言でいえばそれは、記録とは「お地蔵さん」のようなものだということです。

旅が終わって一つわかったのは「記録は変わらない」ということでした。
何かが書かれた紙は古くなっても、書かれた内容は変わらないし、映像は劣化しても、映っているもの自体が変化するわけではないからです。

記録されたものは変わりません。変わらないからこそそれは記録なのであり、変わるのはそれを見ている私たちの方なのです。
わざわざ三週間もかけて気がついたのは、そんなごく当たり前のことでした。

私は「古い記録」に触れるために、広島や水俣に行ったはずだったのですが、そこにはただ、何十年も前から変わらない記録があるだけでした。

確かに当時の記録に込められたメッセージや文脈は、現代を生きる私たちには伝わり難いものになっていると思います。しかしそれは記録が古くなったのではなく、私たちのほうが新しくなっただけなのです。
それは経年劣化ではなく、ひとつの変化です。正確には、変化しない記録と変化し続ける人間の関係性の、変化です。

今回の旅の最後の目的地は新潟でした。その部分は映画ではカットしているのですが、新潟に移住して映画を撮っている小森はるかさんとともに、かつて阿賀野川で起こった新潟水俣病の患者さんと活動している「冥土のみやげ企画」の旗野秀人さんを訪ね、お話しをうかがいました。

旗野さんは現在、水俣病と関わったいくつかの場所にお地蔵さんを建てています。熊本の水俣にもお地蔵さんを送っています。そのことについての本を作ったりもしています。
実際にお地蔵さんを建てるまでには色々とご苦労があったようでしたが、さまざまな活動をした結果としてお地蔵さんにたどり着いた、というお話しもうかがいました。

私も連れて行ってもらって、お地蔵さんにお参りをしました。
お地蔵さんは、水俣病の被害について直接何かを伝えるものではないけれど、それでも確かに何かを伝えるものなのだと感じました。
それは言わば、「伝える」ということ自体が伝わってくるような体験でした。

震災後、私も撮影させてもらったことのある民話の語り手・庄司アイさんが、地元である山元町にお地蔵さんを建てたというお話しを聞きました。
アイさんはご自身も被災されてあらゆるものを失い「民話だけが胸に残った」と語られていた方です。
阿賀のお地蔵さんを見て、私はアイさんのお地蔵さんを思い出しました。

何か大きな災厄があった時、なぜ人はその場所にお地蔵さんを建てようとするのか。その心の奥底は私にはとても理解できるものではありませんが、それはやはり、失われてしまうものを残したい、伝えたいという思いからくるものでしょう。

お地蔵さんが石で作られるのは、それがおそらく、ある条件で最も長く残る素材=メディウムだからではないかと思います。
石碑とは違うのでそこに言葉はありませんが、詳細やメッセージは伝わらなくても、むしろそれが直接伝わらないことによって、誰かの「伝えたい」という思いだけがどこまでも長く残る。お地蔵さんとは、そういう存在なのではないでしょうか。

そう考えてみるとお地蔵さんは、変わり続ける人と変わらない記録との関係、つまり、忘れるものと忘れられるものの関係、それ自体のようにも思えてきます。

お地蔵さんとは、残すこと・伝えることのそれ自体、石というメディウムを使って擬人化された「記録という営み」そのものではないか。
鈍行旅の最後に阿賀のお地蔵さんをお参りをして、そんなことを考えました。

『鈍行旅日記』をわすれン!で作った理由

わすれン!の作品をはじめとした震災の記録もいずれ、元々あったメッセージや文脈を失ってしまうかもしれません。そこに映っているものの意味を、見ている人が当時のようには受け取ることができなくなってしまう、忘れられてしまう時がいつか来ます。

しかし記録は、本当は変わりません。そこにはずっと誰かが、どこかが映っている。それを撮った誰かの視線、それを残そうとした思いだけはきっと残るでしょう。
お地蔵さんが「記録」という営みそのものだとすれば、逆に、残されたさまざまなモノとしての「記録」は、長い時間の果てに、最後にはそれ自体が「お地蔵さん」のようなものになるのかもしれません。

ある記録が、忘れないために作られながらいつか結局は忘れ去られるとしても、最後にお地蔵さんのようなものになって「伝える」ということだけでも伝わるのであれば、それでも構わないと私は思います。

そんな「記録」の解釈を、それごとわすれン!にアーカイブしておけたら、震災から10年が経ってそれまでの記録がどうなっていくかを考えて伝えようとした痕跡ごとこれからの人々に残せたらと、旅日記を映画にして「星空と路」で上映させてもらうことにしました。
直接震災を扱うのでなくても、それは実際「震災の記録」ではないかと思ったからです。
このような経緯で『鈍行旅日記』は、わすれン!の作品になりました。

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