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ハン・ガン『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社、2024年)

 邦訳が出てから、すぐに買って読んだ。一読して、『別れを告げない』はハン・ガンの集大成のような作品だと感じた。ハン・ガンを特異な作家たらしめているモチーフや主題が勢揃いしている。個人的には、『少年が来る』や『ギリシャ語の時間』のほうが好きなのだが、いずれにしても『別れを告げない』はすごい本だと思うので、前々からハン・ガンについて何となく考えていたことと併せて、すこし論じてみたい。


構成

第I部 鳥
 1.結晶
 2.糸
 3.豪雪
 4.鳥
 5.残光
 6.木
第II部 夜
 1.別れを告げない
 2.影たち
 3.風
 4.静寂
 5.落下
 6.海の下
第III部 炎(章分けなし)

 構成だけを見てもわかるように、ハン・ガンの作品の主要なモチーフが多く現れている(雪、沈黙、塩、炎・灯、光、喪)。訳者あとがきを読んで初めて気づいたが、たしかに「鳥」も重要な役割をもっていると思う。小説の最後の言葉も、「世界でいちばん小さな鳥が羽ばたきするように」だった。死とすれすれのところにあるほど脆弱な、けれども決して失われることのない何かを示唆するこの一節は、結語にふさわしい緊張感と清澄さを湛えている。

第I部の概要

 第I部は、ある冬の夜、ソウル在住の作家キョンハ(「私」)が旧友のインソンからメールを受けて病院へ向かったのち、インソンの「頼み」をきいて済州島に赴くまでの過程を描く。済州島に居を構えるインソンは、自宅近くの工房で作業中に電動のこぎりで人差し指と中指を切断し、治療を受けた直後にキョンハへ連絡を入れたのだった。インソンの指の縫合跡には三分に一回ずつ針を刺さねばならなかった(36-37)。インソンの「頼み」とは、飼鳥のアマを保護しに済州島に行ってほしい、というものだった。インソンには兄弟や姉妹がおらず、母は四年前に亡くなっていた。
 「あの都市で起きた虐殺に関する本」(光州事件に関すると思われる)を2014年の5月に出版した「私」は、資料を調査するなかで悪夢をみるようになるが、2014年の夏以来、「黒い丸木」の夢を見るようになる。小説の冒頭に置かれるその夢は次のようなものだ。「ちらちらと」雪が降る野原に立つ「私」は、野原に連なる低い山を見ている。「その尾根から裾野に向かって何千本もの黒い丸木が植えられていた」(9)。「私」はそれを見て、墓碑のようなものだと感じる。少しずつ足元には水が溜まり、振り向くと、墳丘の反対側はで、今まさに潮が満ちてくるところだった。丸木が海にさらわれてしまうと考えるが、あまりに多くの木を移動させなければならない。膝まで水が満ちてきたところで、走っていた「私」は目を覚ます(この夢は小説内でわずかに形を変えて繰り返される)。「私」はこの夢をインソンに話し、ドキュメンタリー映画作家であるインソンは、キョンハの夢を題材に映像作品をつくることを提案していたが、着手されずに何年も経っていたところ、キョンハは連絡を受けたのだった。
 済州島の豪雪のなか、怪我を負いながらもなんとか「私」はキョンハの自宅に至り着くが、鳥のアマは冷たくなっていた。「私」はアマのからだを布で包み、「背の低いシュロの木」の下に埋葬する。

 第一部は150ページくらいで、物語として大筋をまとめるならこんな感じになる。ただ、途中で回想が何度も挿入され、「私」の子供のこと(言及は僅か)、インソンのこと、インソンの母のこと、南北分断直後の済州島での虐殺の記憶などが叙述される。「私」はインソンから、インソンの母の話をきく。その話を想い出す、回想のシークエンスをはさみながら、「私」が済州島へ向かう過程が描かれる。

フォントと方言

 要約を終えるにあたって二点のみ述べておくと、『ギリシャ語の時間』や『菜食主義者』、同じ白水社の『回復する人間』でもそうだったように、途中で文字のフォントが変わる箇所が何度もある(同じ明朝体だが、より細くより柔らかい印象を与えるフォント)。このフォントのことを、便宜上「別のフォント」と呼んでおく。ここでそれを再現することはできないが、たとえば以下のパッセージがそれにあたる。

母さんが小さいとき、軍と警察が村の人を皆殺しにしたんだけど、そのとき国民学校の最上級生だった母さんと十七歳だった伯母さんだけが、海の近くの親戚の家にお使いに行って泊まっていたので助かったと、母さんは言っていた。翌日、姉妹二人は知らせを聞いて村に戻って、午後じゅうずっと国民学校のグラウンドをさまよい歩いたんだって。両親と兄さんと、八歳だった妹の死体を探してね。あちこちに折り重なって倒れた人たちを確認していくんだけど、どの顔にも昨日降った雪がうっすら積もったまま凍っていて。

ハン・ガン『別れを告げない』斎藤真理子訳、白水社、2024年、75-76頁。

 ここはインソンの言葉を「私」が思い返している箇所なので、「別のフォント」は他者の言説のしるしとして用いられているように思われる。じっさい、第II部では、そのような使用のケースが多く見られる。また、判断に迷う微妙な箇所だが、以下の箇所では、かつて「私」に向けられた言葉も別のフォントで提示される。

半分倒れた人のようには生きたくない、あなたみたいに。
生きていたいから、あなたから離れる。
生きている人間らしく生きたいから。

『別れを告げない』、16頁。

  この一節は他人から――たとえば元夫からだろうか――「私」にあてられた非難である、と考えてみるのが素直な解釈だろう。直前の記述もそうした解釈を補完する。その場合、「あなた」とはほかならぬ「私」、すなわちキョンハのことなのだが、じつはもうちょっと複雑なことが起こっているのではないか、とも思う。どういうことか。
 原文を参照していないので確言できないが、以上の一節は口語で翻訳されているから、誰かからキョンハにあてられた実際の言葉をキョンハ自身が回想しているものと考えてよい。ただし、他者の言葉を思い返し、そこに痛切な現実を感じ取るとき、それはたんなる他者の言説ではなく、実存のもっとも深いところにふれる言葉に変容する。その言葉は、他人ともわたし自身とも単純に言い切れない誰かの声になると言えないだろうか。とすれば、『別れを告げない』の「別のフォント」を、引用符なしの引用を示すものと考えて済ましてしまうことはできなくなる。じっさい、「私」の独白や地の文でも「別のフォント」は用いられており(160-161、244頁)、やはりたんなる他者の言説のしるしとみなすことはできないように思う。「別のフォント」はハン・ガンのほかの作品にも確認される特徴であるから、これだけを主題化として論じることもできるように思われる。
 つぎに、方言に関して。「訳者あとがき」で斎藤が述べるところによれば、済州島の方言は、発音や語彙などの点で標準韓国語とは大きく異なるとのことで、これを日本語に翻訳するにあたり、沖縄語に訳すことにしたという。今回の邦訳において無視できないポイントである。翻訳という営みが、たんなる言葉の置き換えでは到底なく、いわば異なる文化の間に橋を架け、越境と普遍化を可能にする営為にほかならないということが、沖縄語の導入によって示唆されているのではないだろうか。

痛み

 主人公であるキョンハが「健康」なひとではない、あるいは、つねに疲弊しているという点はいくら強調してもしすぎることはないだろう。偏頭痛胃痙攣に悩まされ(15)、不眠の夜、悪夢の夜から抜け出すことも難しい。インソンの工房へ向かい道中でも胃痙攣の症状に苦しんでいる。キョンハの生にはつねに「痛み」がともにある。
 『別れを告げない』を、『少年が来る』や『すべての、白いものたちの』、『ギリシャ語の時間』や『菜食主義者』といった他の作品と並べてみるとき、まず共通項として浮かび上がるのは、そうした「痛み」にとらえられている人物を小説のアクターとして据えているという事実である。この点はきわめて重要だと思う。『すべての、白いものたちの』を読めば明らかであるように、作家自身が「痛み」につねに悩まされている。つまり、キョンハを始めとするハン・ガンの主人公たちは、作家自身をあるていど投影した存在として造形されていると考えられる。だがむしろ重要なのは、「痛み」が作品のなかに場所を持つことにはそもそもいかなる意味があるのか、という問いのほうだ。ここで手掛かりとなるのは、『すべての、白いものたちの』からの一節である。以下で言及される都市はワルシャワであり、ハン・ガンは現地の博物館で、ナチス・ドイツに弾圧され、連合国からは爆撃を受けたワルシャワが廃墟と化し、「白い」都市となったことを知る。

その日、家に帰る途中で私はある人のことを想像していた。その都市の運命に似た、破壊され、しかし根気強く再建された人を。それが私の姉だということを、私の生と体を貸し与えることによってのみ、彼女をよみがえらせることができるのだと悟ったとき、私はこの本を書き始めた。

『すべての、白いものたちの』斎藤真理子訳、河出書房新社、2018年、184頁。

『すべての、白いものたちの』で主題となるのは、作家の母が出産し、産後まもなく亡くなった幼子の存在、つまりハン・ガンそのひとの「姉」である。ハン・ガンはこう仮定し、想像する──もしも「姉」が生き延びていたら、わたしは生まれなかったのではないか。ひるがえって、わたしとは、いわば「姉」の存在を写し取った鏡像のようなものでもあるのではないか。そこでハン・ガンは、仮定法的な現実、つまり「もしも」の過去と現在を「姉」に付与するにいたる。

その子が生き延びて、その乳を飲んだとしたら、と考える。
懸命に息をして、唇を動かし、乳を飲んだとしたら。

『すべての、白いものたちの』、45頁。

ハン・ガンの小説的な想像力の核心は、「私の生と体を貸し与えること」にある。「私の生と体を貸し与えること」によって、「もしも」の現実を創造するのである。
 そこで重要になるのが、おそらく「痛み」である。
 一方で、痛みは、ほかの誰にも代わってもらうことができないという意味で、すぐれて一人称的な経験である。痛みの痛さ、そのリアリティは、痛みを耐えるこのわたしにしか理解できない。つまり、その理解はほとんど身体的なレベルで生起する。痛みは、〈わたしは、ほかならぬこのわたしでしかありえない〉、〈わたしはわたしであることから逃れられない〉という、生存の根本的な事実を特徴づけている。
 だが他方でハン・ガンは、痛みを、客観的な、というより一般的な視点から描いてもいる。たとえば、ワルシャワの「運命」について述べるくだりがそうである(『すべての、白いものたちの』、33頁)。こうした視点はとりわけ、歴史上の悲惨として記憶される虐殺や弾圧、戦争について踏み込む際に浮上してくる。要するに、ハン・ガンにおいて「痛み」とは、わたしの実存の特殊性と死者や歴史をめぐる記憶とが結節する、媒介のような地点であると考えられるのだ。『すべての、白いものたちの』から、証左となる一節を挙げよう。

私の生をあえて姉さん──赤ちゃん──彼女に貸してあげたいなら、何よりも生命について考えつづけなくてはならなかった。彼女にあたたかい血が流れる体を贈りたいなら、私たちがあたたかい体を携えて生きているという事実を常に常に手探りし、確かめねばならなかった──そうするしかなかった。私たちの中の、割れることも汚されることもない、どうあっても損なわれることのない部分を信じなくてはならなかった──信じようと努めるしかなかった。

『すべての、白いものたちの』、185頁。

 「私たちがあたたかい体を携えて生きているという事実」。それは、「わたし」が生きているかぎり「痛み」から逃れられないという生存の根本的な事実にほかならない。だが同時に、「痛み」は、同じ「痛み」を抱える「あなた」をたぐり寄せもする。
 そのようにして垣間見える「私たち」の創造が、じつはハン・ガンにおいてきわめて重要な主題となっているように思われる。このことについて、『別れを告げない』の内容に立ち戻りつつ考えてみたい。

中間地帯

 ハン・ガンが創出する人物たちには、どこか利他的なところがある。無償の愛とは異なるように感じるが、困っている人がいたら手を貸し、身を粉にして助けることを厭わない、そんな潔癖さがあるように思う(その点で『菜食主義者』はちょっと異質だ)。いや、そのような「ケア」を社会的に余儀なくされている人物たちを中心に据えている、と考えたほうがよいかもしれない。
 『別れを告げない』の主人公キョンハもそうで、どこか義務感のようなものに取り憑かれて、友人のインソンの願いをきいて済州島へ向かう。
 小説の第I部については上で概略を示したが、第II部以降の展開をかいつまんで述べるなら、以下のようになる。
 インソンの飼鳥アマを埋葬した直後、横になって眠りについた「私」の耳元に、鳥の鳴き声が聞こえてくる。埋葬したはずのアマがそこいるのだ。と思えば、そこには病室で治療を受けているはずのインソンが、何事もなかったかのように姿を現す。インソンの事故と怪我について、二人は話さない。そのかわりに、この夢のような、此岸と彼岸のあわいのような場所で、インソンの両親の過去──南北分断直後の混乱と弾圧、済州島の島民の虐殺──がインソン自身の口から語られてゆく。
 序盤で明かされるのだが、インソンの工房での事故は、じつはキョンハの「黒い丸木」の夢の映像化をインソンが一人で進めていたさなかに起きたものだった。だからキョンハは、インソンの痛みをもはや他人事として感じることはできなくなっている。
 ハン・ガンの主人公における「痛み」については先に触れたが、結局のところ、「痛み」がハン・ガンの小説において根本的に重要であるのは、他者を救済すること、弔うべき死者に哀悼を捧げることが、ひいては私自身の救済を示唆することになるからである。他者を「救済」することが、わたし自身の生を掬い上げることでもあるような地点を、ハン・ガンは垣間見せようとする。
 そのような地点とは、たとえば、枯れ川に転倒して怪我を負いながら工房にたどり着いた「私」が身を置き、インソンと語らう、想像世界のごとき空間である。そこは、「私」とインソン、インソンと彼女の母、インソンの母とその家族が微妙に溶け合い、歴史的な出来事がたんなる事実であることから逃れ、「私」がほかの誰かでもありうるような中間地帯である。
 「黒い丸木」の夢や、『菜食主義者』のヨンヘが見る夢も、これと同じ中間地帯であると思う。「私」が私であるという個別性・特殊性を徹底的に突きつめた深層に見出される、普遍化の可能性に根差した想像的な空間というべきだろうか。
 (たとえば、『ギリシャ語の時間』でつよい象徴的な意味を付与される「雪」(「消滅のイデア」)も、こうした中間地帯を示唆する形象として理解してよいかもしれない。)
 だが、この宙吊りの時空間を創造することは、ハン・ガンの結語ではないと思う。むしろ、生と死が単純に区別されることのない、そのような中間地帯を通り抜けること。横断すること。「私」とともに、読者が夢から目覚めることも、『別れを告げない』は要求しているのではないだろうか。そのことを示すために、異なる二つの作品から引用をおこなって、論を終えることにしたい。それぞれは小説の終結部にあたる。

息を吸い込んで、私はマッチを擦った。火はつかなかった。もう一度擦るとマッチ棒が折れた。折れた棒を手探りで握りしめてまた擦ると、炎が起きた。心臓のように。脈打つ花のつぼみのように。世界でいちばん小さな鳥が羽ばたきするように。

『別れは告げない』、299頁。

私は両手を胸の前で合わせている。
舌先で下唇を濡らす。
胸の前で重ねた手が静かに、小刻みに震える。
両のまぶたが震える、昆虫が激しく羽根をこすり合わせるように。
すぐに乾いてしまう唇を、開く。
根気強く、さらに深く息を吸い込んでは吐き出す。
ついに最初の音節を発音する瞬間、力をこめて目を閉じ、また開ける。
目を開けたらすべてが消えていると覚悟したように。

『ギリシャ語の時間』斎藤真理子訳、晶文社、2017年、229頁。



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