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ジョルジョ・アガンベン『残りの時』読書メモ

 Giorgio Agamben, Il tempo che resta : Un commento alla Lettra ai Romani, Bollati Boringheri editore, 2000.[ジョルジョ・アガンベン『残りの時 パウロ講義』上村忠男訳、岩波書店、2005年]の読書メモ。
 原書の副題にあるように、本書においてなされるのは、パウロの「ローマの信徒への手紙」の注釈である。同書簡の冒頭には次のようにある。「キリスト・イエスの僕、使徒として召され、神の福音のために選び出されたパウロから」。アガンベンの注釈は、この一節を中心にして「ローマ書」の哲学的・神学的コンテクストを再構成し、パウロのアクチュアリティを取り出すことをめざすものだ。
 いかなる場合に、過去のテクストが「アクチュアル」であるといえるのだろうか。現代に応用可能な意義をもつときであろうか。そうではない。ユニヴァーサルな問題に応答しているときであるか。それだけではない。「アクチュアル」であるとは、ひとに「行為」させる力をもつということだ(ラテン語actualisはagere「おこなう」に由来する)。いいかえれば、わたしたちに「翻訳」を要請するものが、真に「アクチュアル」といえるものである。「翻訳」することは、幾重にも重なり合い交錯した時間のなかで反省することを読者=翻訳者に強いるだろう。
 だからアガンベンにとって読むとは、テクストを「いま」読むべきものとして与えるということを意味する。それは、よく知られていないという意味で「マイナー」なテクストを世に知らしめることとは等しくない。むしろ、どれだけ人口に膾炙した文献であれ、つまり聖書やプラトンやアリストテレスであろうと、そのなかには「まだ」読まれていないものがあることを明るみに出すことだ。「一度も書かれなかったものを読むこと」。すなわち、テクストの潜勢力を解き放つこと(哲学的考古学の謂い?)。
 重ねていえば、読むことは、自分なりの解釈や説明を施す作業となるのだから、それはある種の注釈の試みとならざるをえない。さらに、あらゆるテクストは他者の言説を含むのだから、注釈はとりもなおさず、注釈の注釈となるにちがいない。注釈の注釈でない注釈はありえない。すると定義上、注釈とは、注釈の注釈を注釈することであることになり……以下同様。
 だが同時に、つぎのような倒錯した想いに駆られもする。アガンベンを論じる文献の多くは、みずからが注釈となることに耐えきれていない、と。見方を変えていえば、そうした注釈(「解説」「入門」)はアガンベンのテクストの潜勢力そのものをうまく引き出せているようには思われない。勝手な印象論であるから、わたしはそのことを論証しうる力も素材も持ち合わせていないのだが、アガンベンのテクストをたんなる学術的な論攷として取り扱うだけでは(もちろんそれが第一に必要なことである)、何かを決定的に取り逃がすことになるのではないか。いくつかの箇所でアガンベン自身が哲学の「詩的」な使命を語っていることを想起しておこう。みずからはある意味で「詩人」であるかもしれないと述べるときにアガンベンが引いていたのは、次のようなウィトゲンシュタインの言葉である──「そもそも哲学は、詩のようにしか書かれえない」。 


第1日 パウロス・ドゥーロス・クリストゥ・イエースゥ

アガンベンの仮説

当時の書簡の慣例にしたがって、パウロはかれの手紙を前口上でもって始めており、そのなかで自己を紹介し、名宛人を指名している。「ローマ人への手紙」の前置きが、長さと教義的内容とによって他のそれと区別されるということは、しばしば指摘されてきたところである。わたしたちの仮説は、さらに極端なものである。すなわち、それは書き出しのひとつひとつの言葉が、手紙のテクスト全体を、目も眩むような総括のかたちで(やがて見るように、「総括」というのはメシアニズムの基本用語のひとつである)自らのうちに縮約しており、このために書き出しを理解することはテクスト全体の理解を意味するだろうというものなのだ。

10頁

普通名詞としてのクリストス

パウロのテクストにおいて、冠詞を添えたホ・クリストス(ho christós)と冠詞なしのクリストス(christós)とを区別するのも、同じく意味がない。これとまったく似た仕方で、パウロはノモス(nomos)〔法〕を冠詞つきと冠詞なしの両方で書いているが、だからといって、冠詞つきのノモスがかれにとって固有名に転化したわけではさらさらないのである。反対に、パウロのテクストを形式的に分析してみれば、クリストスは普通名詞でしかありえないことが明らかになる。じっさいにも、パウロはけっして(意味の異なる二つの普通名詞をひとつに結合して)「キュリオス・クリストス(kýrios christós)」〔主である救世主〕とは書いておらず、つねに「キュリオス・イエースゥス・クリストス(kýrios Iēsoús christós)」〔主である救世主イエス〕、「キュリオス・イエースゥス(kýrios Iēsoús)」〔主であるイエス〕、「クリストス・イエースゥス・キュリオス・エモン(christós Iēsoús kýrios emon)」〔主である救世主イエス〕と書いている(Coppens, 133)。一般的にいって、いかなる著者にも、かれが生きている言語的コンテクストにおいて広く使用されている語を固有名に転化させる権限はないということを、けっして忘れてはならないだろう。ユダヤ教徒にとってメシアという語がそうであったように、それが基本的概念である場合には、なおのことである。したがって、パウロのテクストにおいて、語がその旧約聖書的意味を保持しているくだりを識別しようというような問題は、徹頭徹尾、似而非問題なのだパウロは明らかに、旧約聖書と新約聖書を、わたしたちがおこなっているように、つまりは二つのテクスト総体として、対立させることができなかっただけではない。かれが語っているカイネー・ディアテーケー(kainé diathēkē)〔新しい契約〕は、それ自体が旧約聖書の引用(「エレミヤ書」31:3)なのであって、まさしくトーラー(律法)のメシア的成就を意味しているのである(パライア・ディアテーケー(palaiá diathēkē)〔古い契約〕は「救世主において取り除かれるものだからです」「コリント人への手紙二』3:3)。

28-29頁

第2日 クレートス

「でないもののように」──消し去るのではなく、過ぎ去らせること

とすれば、パウロの「でないもののように」は、あるひとつの特殊な型の張力として立ち現れていることになるのであって、ある観念を別の観念の方向へ意味論的に傾斜させるのではなく、それを「でないもののように」という形式において自己自身との緊張のうちに置くのである。泣く者を泣くのでない者のようにといった具合に。すなわち、メシア的緊張は、どこか他のところへと向かうのでもなければ、なにものかとそれの対立物とのあいだにあっての無関心状態に終わるということでもない。パウロは「泣く者を笑う者として」とも、「泣く者を泣かない者として」とも言わず、「泣く者を泣くのでない者のように」と言う。メシア的クレーシスの原理によれば、ある特定の事実的状態は、その状態自体との関連に置かれるのであり―――泣く者は泣く者に向かって引き寄せられ、喜ぶ者は喜ぶ者に向かって引き寄せられる――、このようにして、形を改変することなく、棄却され、問いにふされる。それゆえ、「でないもののように」にかんするパウロのくだりは、「この世のありさまは過ぎ去るからです」(parágei gar to schema tou kosmou toutou) (「コリント人への手紙 一」7:3)という言葉でもって閉じることができるのである。あらゆるものを「でないもののように」の形式において自己自身へと向かわせつつ、 メシア的なものはそれを単純に消し去るのではなく、それを過ぎ去らせ、それの終末を準備するそれは別の姿、別の世界ではないそれはこの世の姿の過ぎ去りゆくありさまなのだ

39-40頁

メシア的召命を受けた奴隷──不活性化・無効化

「でないもののように」において、パウロは――かれに特徴的な所作によって――、あるひとつの純然たる法律的な規定を極限まで推し進め、律法に対峙する。じっさい、「でないもののように」の形式において奴隷でありつづけるとは、なにを意味するのか。ここでは、メシア的召命を投下された法律的・事実的状態は、その法律上の諸結果については、なんら否定されることはないのであり、それの場に――法的擬制の場合におけるように――異なった、あるいはただちに正反対の帰結を妥当させるようなことはない。むしろ、「でないもののように」をつうじて、それは――法律的には不変のままにとどまりつつ――事実上のものでも権利上のものでもなくて純然たる実践たんなる使用(「むしろそれを使いなさい」)として律法を免れるような地帯へと捉えなおされ移し換えられる。メシア的召命のなかにあって、自分自身との関係に置かれた事実的なクレーシス〔召命〕は、別のものに置換されるのではなく、働かなくさせられる(あとで見るように、パウロは、まさに不活性化、無効化を意味するひとつの専門用語として、この語を用いている)。そして、このようにして、その真の使用へと開かれる。このために、メシア的召命を受けた奴隷は、パウロによって――〔「フィレモンへの手紙」16節に〕ただ一度かぎり出てくるにすぎないが――、「ヒュペル・ドゥーロス」(hyper doulos) 〔超奴隷〕と規定されるのである。

46-47頁

「かのように」──ニヒリズムの超克?

じじつ、「かのように」の問題は、ファイヒンガーが想像することができたよりも限りなく深刻なものである。ファイヒンガーの著書より八年前、ジュール・ド・ゴルティエ――また違った意味で興味深い作家――は、かれの傑作『ボヴァリー夫人症候群』を刊行した。そのなかで、擬制の問題は存在論にかかわる水準という、それにふさわしい水準に復元されている。ゴルティエによれば、フロベールの登場人物たちには人間の本質――つまりは本質をもたない動物の本質――をなす、「自分は、自分がそうであるところのものとは違うと自ら信じる能力」が、病理学的様相を呈して現れているという。自分自身では無であることができないので、人間はそうであるところのもの(あるいは、よりよくは、そうでないところのもの)とは違ったものであるかのように行動することによってのみ、存在しうるのである。ゴルティエは、ニーチェの注意深い読者であった。そして、あらゆるニヒリズムがなんらかの仕方で「かのように」を含みもっていること、問題はどのようにして「かのように」のうちにあるかというあり方の問題であるにすぎないことを理解していた。ニヒリズムのニーチェ的な流儀における超克は、この根源的なボヴァリー夫人症候群を考慮に入れ、 それを正しい仕方でつかみとることができるものでなくてはならないのである(ここでニーチェにおける芸術家の問題の重要性が浮上する)。

60-61頁

要請

『真理論第一』において、ライプニッツは可能態と現実態の関係をつぎのように定義している。「あらゆる可能なものは、存在することを要請する、すなわち現実的なものになることを要請する」(omne possibile exigit existere)。ライプニッツへのわたしの無条件の感嘆にもかかわらず、この定式は正確ではなく、要請とはほんとうにはなんであるかを定義するためには、これを転倒して、逆に、「あらゆる存在するものは、自らの可能態を要請する、すなわち可能なものになることを要請する」(omne existens exigit possibilitatem suam)と書かなければならない、とわたしはおもう。要請とは在るところのもの――あるいは在ったところのもの――とその可能態との関係であり、この可能態は現実態に先行するのではなくて、後続するのである。

64頁

忘れえぬものの要請

想像するに、白痴の生について論じて、忘れえぬものとしてとどまりつづけるという要請のことを語ったとき、ベンヤミンはなにかしらこうした類のことを念頭に置いていたのではないだろうか。いうまでもなく、この要請はたんに、なにごとか――忘却されてしまっていたもの――が、いまや記憶に立ち戻らねばならない、想起されなければならないということを意味するのではない要請はまさしく、想起されることではなくて、忘れえぬものとしてとどまりつづけることにかかわっている。それは、個人的な生においても集合的な生においても、あらゆる瞬間に忘れ去られていくすべてのものに関係している。それらのなかで失われていくものの際限のない堆積に関係している。あらゆる種類の歴史家たち、筆記者たち、記録係たちの努力にもかかわらず、――個々人の歴史においても社会の歴史においても――取り返しがたく失われていくものの量は、記憶の保管庫に蒐集されることのできるものよりも無限に大きい。あらゆる瞬間において、忘却と廃墟の尺度、わたしたちがわたしたち自身のうちにたずさえている存在論的浪費は、わたしたちの記憶やわたしたちの意識の許容度を大きく超えている。しかし、忘れ去られてしまうもののこの無形のカオスは、不活性なものでも効力のないものでもない。それどころか、それはわたしたちのうちにあって、仕方こそ異なるにしても、意識的な記憶の堆積力に劣らず、力強く働いている。忘れ去られてしまったものの力と働きというものがあるのであって、それは意識的な記憶というかたちでは測ることができず、知として堆積することもできないけれども、それが執拗に存続しているということこそは、あらゆる知およびあらゆる認識の序列を規定するのである。失われてしまったものが要請するのは、想起され追悼されることではなくて、忘れ去られてしまったものとして、失われてしまったものとして、わたしたちのうちに、わたしたちとともに残ること――そして、もっぱらこのことによって、 忘れえぬものでありつづけることなのだ

64-65頁

忘れえぬものの伝統

ここから、忘れ去られてしまったものにたいする、たんにそれを記憶に取り戻そう。それを歴史の保管庫と記念碑のうちに書きとどめておこう、あるいはせいぜいが、それのために別の伝統と別の歴史、抑圧された者たちや敗北した者たちの歴史をつくりあげようとするにすぎない、あらゆる関係の不十分さが明らかになる。そのような抑圧された者たちや敗北した者たちの歴史は、支配階級の歴史とくらべて、書かれる手段こそ異なるものの、実質的にはそれと相違するものではない。 こうした混乱にたいしては、忘れえぬものの伝統は、伝統ではないということを銘記しておく必要がある。それはむしろ、あらゆる伝統に汚名もしくは栄光のしるしを、あるいは時としてその両方を、印しづけようとするものなのだあらゆる歴史を歴史たらしめ、あらゆる伝統を伝統たらしめるものこそは、まさしくそれが自らの内部に核心としてたずさえている忘れえぬものなのである。 ここでは、選択は、忘却することと想起すること、無意識なままでいることと意識することとのあいだにあるのではない。決定的であるのはただひとつ、――間断なく忘れ去られながらも――忘れえぬものでありつづけなければならないものなんらかの仕方でわたしたちとともにとどまっていることを要請しなおも――わたしたちにとって――なんらかの仕方で可能であることを要請するものに忠実でありつづける能力である。この要請に応えることが、わたしが無条件に引き受けたいと感じている唯一の歴史的責任である。逆に、もしもこの要請を拒むならば、もしも――個人の次元においても集団の次元においても――わたしたちに寡黙なゴーレムのように付き添う、忘れ去られてしまったものの堆積とのあらゆる関係を失ってしまうならば、そのときには、それはわたしたちのうちに、フロイトが抑圧されたものの回帰と呼んだもの、つまりは不可能なものそれ自体の回帰というかたちをとって、破壊的にして邪悪な仕方で立ち現れることであろう。 

65-66頁

第3日 アフォーリスメノス

パウロの普遍主義をめぐる解釈

最終的には宗教紛争にたいする国家の態度にかかわる「寛容」とか「善意」といった観念の正当性がなんであれ(ここには、国家を廃絶しようとしているのだと宣言する者たちがどんなにか国家的観点から自らを解き放つことに成功できないでいるかが見てとれる)、たしかにそれらはメシア的観念ではない。パウロにとって重要なのは、「寛容」あるいはもろもろの差異を通過して、それらを超えたところに自己および普遍的なものを見いだすことではない。普遍的なものとは、かれにとっては、そこからもろもろの差異を眺めることのできる超越的な原理ではないのであって――かれはそのような観点を自由に使いうる立場にはない――、律法上の分割自体を分割して、それらを働かなくさせるような、しかしながら最終的な土地に達することはけっしてない、ひとつの操作なのである。そもそも、ユダヤ人にとってもギリシア人にとっても、原理としても目的としても、普遍的な人間あるいはキリスト教徒は存在しない。そこには、ひとつの残余があるにすぎない。ユダヤ人やギリシア人が自己自身と一致することの不可能性があるにすぎないのだ。メシア的召命は、あらゆる召命を自己自身から分離し、それらにさらなる自己同一性を供給することはないままに、それらを自己自身との緊張のうちに置くのである。ユダヤ人はユダヤ人「でないもののように」、ギリシア人はギリシア人「でないもののように」。

86-87頁

民衆──残りの者

パウロの手紙のうちに直接アクチュアルな政治的遺産のようなものを指示しなければならないとすれば、残りの者という観念こそはそのひとつではないか、とわたしはおもう。それはとりわけ、時代遅れになったとはいえ、それでもなお、おそらくは放棄しえない、民衆とか民主主義といった観念を、新たな展望のもとに置きなおすことを可能にしてくれる。民衆とは、全体でも部分でもなく、多数派でも少数派でもない。それはむしろ、全体としても部分としても自己自身と一致することのけっしてできないもの、あらゆる分割において限りなく残っていて、あるいは抵抗していて、――わたしたちを統治する者たちと折り合いがよいことにも――多数派にも少数派にも還元されたままになっていることのけっしてないものである。そして、この残りの者こそは、民衆が決定的瞬間にとる形姿ないしは内実なのであり―――そのようなものとして、それは唯一の現実的な政治的主体であるのだ。

94頁

第4日 アポストロス

操作時間──クロノスに内在する時間

さて、ここで操作時間という範型を言語学の境界を越えて展開し、メシア的時間というわたしたちの問題に移し換えることを試みてみよう。わたしたちが時間についておこなうあらゆる表象、わたしたちが時間を定義し表象するさいのあらゆる言述には、それらに汲み尽くされることのできない、さらなる時間が内包されている。それはあたかも、人間が、考え話す存在であるかぎりで、クロノロジカルな時間にたいして、それについてのもろもろのイメージや表象がつくりだされうるような時間と完全に一致することを阻む、さらなる時間を産み出しているかのようなのだ。しかしまた、このさらなる時間は、もうひとつの時間、クロノロジカルな時間に外から付加される補足的時間のようなものではない。それは、いわば、クロノロジカルな時間の内部にあるひとつの時間――それに付け加わるのではなくて、内在する時間――であって、クロノロジカルな時間にたいするわたしの位相のずれ、わたしがわたしの時間表象にたいして断絶および不一致の状態にあることをしか測定せず、しかしまた、まさにこのために、わたしがわたしの時間表象を完遂し把捉することを可能にしてくれるものでもある。

109頁

メシア的な時間──時間を雇い入れる時間

そこで、わたしたちはメシア的時間の第一の定義を提出することができる。それは時間の終わりへとわたしたちを向かわせる時間――あるいは、より正確には、わたしたちがわたしたちの時間表象を終わらせるために、完遂するために、雇い入れる時間なのだ。それはクロノロジカルな時間の――表象可能ではあるが、思考不可能な――直線でもなければ、その終わりの瞬間を表す――同様に思考不可能な――点でもない。しかしまた、それはたんにクロノロジカルな時間の上に重ね合わされた復活から時間の終わりにいたるまでの線分でもない。それはむしろ、クロノロジカルな時間のなかで湧き出し、それに働きかけ、それを内側から変容させる操作時間なのであって、時間を終わらせるためにわたしたちが必要としている時間――この意味にお いて、 わたしたちに残されている時間なのだ。わたしたちがそのなかに存在しているところの時間(tempo in cui siamo)としてのクロノロジカルな時間についてのわたしたちの表象は、わたしたちをわたしたち自身から切り離す。そして、逃れていく時間、それらがたえず自己自身から欠如していくありさまを、時間のない状態でながめている、わたしたち自身の無力な観察者へと、わたしたちを変えてしまう。これにたいして、そのなかにあってわたしたちがわたしたちの時間表象を把提し完遂するところの操作時間としてのメシア的時間は、わたしたち自身がそれであるところの時間(tempo che noi stessi siamo)である――このために、それは唯一の現実的な時間、わたしたちが所有している唯一の時間なのである。

109-110頁

時間の終わりをめぐる不十分な表象・観念

臨在のパウロ的な解体がその真の意味を見いだすのは、操作時間という展望のもとにおいてである。操作時間であるかぎりにおいて、いいかえれば時間の表象を終わらせるためにわたしたちに必要とされる時間であるかぎりにおいて、メシア的な「今の時」は、けっしてその表象にとって内的なものであるクロノロジカルな瞬間とは一致することがない。じっさい、時間の終わりとは、クロノロジーの均質な直線上の最終点を表象するひとつの時間イメージなのだ。しかし、時間の空虚なイメージであるかぎりにおいて、それはそれ自体としては把捉不可能であり、それゆえ無限に遅延する傾向にある。カントが『万物の終わりについて』において、「わたしたちが最終目的を誤解するときにわたしたち自身のうちに産み出される時間の終わりという「自然に反する」「倒錯した」考え方について語るときに考えていたにちがいないのは、この種の時間のことであった。また、ジョルジョ・マンガネッリが、かれの驚嘆すべき異端宗派の指導者に、この世がすでに終わっていることにわたしたちが気づかないのは、この終わり自体が「それについてのわたしたちの経験をあらかじめ阻むような、わたしたちがそのなかに住まっている一種の時間を産み出すからである」と語らせるとき、暗にほのめかしていたようにみえるのも、終わりについての、この意味において不十分な表象のことなのであった。

114頁

以上をうけて──パルーシアの瞬間

ここでの誤りは操作時間をクロノロジカルな時間に付加されてその終わりを無限に順延するような補足的時間に変えてしまうことである。それゆえ、パルーシアという用語の意味を正確に理解することが重要である。それはイエスの「再臨」、「最初の到来に続いてやってきて、それを補完する第二のメシア的出来事を意味するのではない。パルーシアは、ギリシア語では、単純に臨在(文字どおりには、para-ousia = 傍らに在ること、いまの場合には、存在するものがいわば自分自身の傍らに存在していること)を意味する。それは、なにものかに付け加わって、それを完全なものにするような補完をも、けっして完了に到達することがないまま、さらに付加されていくような補足をも指示しない。パウロがその語を用いるのは、メシア的出来事の内奥に秘されている二分合一的な構造、それがカイロスとクロノス、操作時間と表象された時間という、連接してはいるものの加算することのできない二つの異質な時間からなることを描き出すためである。メシア的臨在(パルーシア)は、自分自身の傍らに存在している。というのも、それはけっしてクロノロジカルな瞬間と一致することはなく、またそれになにかを追加することもないまま、それを内側から把捉して完遂にもたらすからである。メシア的臨在のパウロによる解体の試みは、カフカの驚くべきテオログーメナ〔神事にかんする思弁〕に含まれている解体の試みに似ている。それによると、メシアはその到来の日にではなく、やっとその次の日に、最後の日にではなく、最後の最後の日に到来するというのである(er wird erst einem Tag nach seinen Ankunft kommen, er wird nicht am letzen Tag kommen, sondern am allerletzen)。 メシアはすでに到来している、メシア的出来事はすでに成就している、けれども、その臨在はその内側にもうひとつの時間を含んでいて、パルーシアを遅延させるためにではなく、逆にパルーシアを把捉できるものにするために、パルーシアを引き延ばすのである。このために、ベンヤミンの言葉によれば、あらゆる瞬間は「メシアの入ってくる小さな扉」でありうるのだ。メシアはつねにすでに自らの時間を形成している――すなわち、時間を自らのものにすると同時に、それを成就しているのである。

114-115頁

記憶と想起からなるメシア的時間

ここにおいて、死につつある者たちが、一瞬のうちに自分の全生涯が目も眩むような短縮を生じて眼前に展開するのを見るという、かれらの生についてもつパノラマ的なヴィジョンにおけるのと同様のことが起こる。この場合のように、メシア的総括帰一においても、なにか記憶のようなものが問題になる。しかし、それはもっぱら救済のことがらとかかわる特殊な記憶である(しかしまた、 このことはどんな記憶についてもいえることではないのか)。記憶は、ここでは救済の予備知識および先取りのようなものとしてあらわれる。そして、想起においてのみ、過去は生きられてしまったもののもつ疎遠さから解き放たれて、初めてわたしの過去となるように、人々は「時間の充満充溢」においてこそ、かれらの歴史を自らのものとするのであり、あるときユダヤ人たちに起こったことがメシア的共同体の予型かつ現実として承認されるようになるのである。また、想起において、過去がなんらかの仕方でふたたび可能的なものとなるように――完了していたものがいまだ完了していないものとなり、いまだ完了していないものが完了してしまったものとなるように――、メシア的総括帰一において、人々は過去から永久に決別し、過去も反復も知らない永遠のうちへと入る準備をするのである。

125頁

第5日 エイス・エウアゲリオン・テウ 一

メシア的なデュナミスの「弱さ」

弱さにおいて実現される力なるもののテロス〔目的〕を、わたしたちはどう理解すべきなのか。ギリシア哲学は、欠如 (stérēsis) も無能力 (adynamía) もともあれ力の一種である、という原理を知っていた(「あらゆるものは、なにかを所有していることによっても、あるいはその欠如を所有することによっても、能あるもの〔可能的なもの〕である」(『形而上学』1019b 9-10)。「あらゆる能力は、それぞれに対応する無能力の属するのと同じものに属し、それぞれに対応する無能力の関係するのと同じものに関係している」(『形而上学』1046a 32) )。パウロにとっては、メシア的な能力はそのエルゴン(ergon) 〔力〕に尽きるものではなく、それのうちにあって、弱さという形式において可能的なものでありつづけている。メシア的なデュナミスは、この意味では、構成上「弱い」ものである。しかし、まさにその弱さをつうじてこそ、それは効果を発揮することができるのである。「力ある者に恥をかかせるため、神は世の弱い者を選んだのです」(「コリント人への手紙 一」1:27)。

158頁

第6日 エイス・エウアゲリオン・テウ 二

信仰の経験/愛の経験

それでは、パウロにおいて、信仰が名詞の連辞「救世主イエス」によって表現され、動詞を含む「イエスは救世主である」によってではない、という事実はなにを意味するのか。パウロは、イエスが救世主であるという性質をもっていることを信じているのではない。「救世主イエス」を信じているのであって、あくまでもそれだけのことなのだ。救世主は、主語イエスに付加された述語ではないのであって、主語イエスから分かつことができず、しかしまた、このために固有名を構成することはない何ものかなのである。そして、これがパウロにおける信仰なのだ。それは存在と本質のかなた、主語と述語のかなたにあるものの経験であるしかし、これこそはまさに愛において到来するものではないのか。愛は、繋辞による賓述を認容せず、けっして性質あるいは本質を対象とすることはない。わたしは、美しい―黒髪の―優しいーマリアを愛するのであって、美しくて、黒髪で、優しいといった、あれこれの賓辞をもっているがゆえにマリアを愛するのではない。「である」と言うことは、それがなんであれ、愛からの顔落にほかならない。愛される者があれこれの性質をもち、あれこれの欠点をもっている、とわたしが計算するようになったとたん、わたしは取り消しがたく愛の外に出てしまっている。たとえ、――残念ながら、しばしば起こることなのだが――彼女を愛していると信じつづけており、それどころか、そう信じるいくつかの確かな動機があるにしても。愛には動機はない。このために、パウロにおいては、愛は信仰と緊密に結びついてい る。このために、「コリント人への手紙一」13:4-7の讃歌にあるように、「愛は寛大です。 愛は情け深く、人をねたみません。愛は自慢せず、高ぶらず、礼を失することなく、自分の利益を求めず、いらだたず、人のした悪を計算せず、不正義を喜ばずに、真実を喜びます。すべてを忍び、 すべてを信じ、すべてに期待し、すべてに耐えます」。

207-208頁

分割不能な転移と転位の場──信仰の世界

とすると、信仰の世界とはいかなるものなのか。それは実体と性質とからできているのではない世界であって、草は緑で、太陽は暑く、雪は白いという世界ではない。いや、それは賓述の世界、存在と本質の世界ではなく、分割不能な出来事の世界であって、そこでは、わたしは、雪は白いとか、太陽は暑いと判断したり信じたりすることなく、白い―雪で―ある、あるいは、暑い―太陽―である、へと転移され転位されている。最後に、それは、わたしはイエスというある特定の人間が神のひとり子として生み出されたのであって、創造されたのではなく、父と実体を同じくする救世主であるというようなふうに信じるのではなく、ただ救世主イエスを信じ、「もはやわたしが生きているのではなく、救世主がわたしのうちに生きているのだ」というようにして、かれのうちへと引き寄せられ追いやられていく、そのような世界である。

208頁

行為遂行的(な言葉と事物の関係)

このことが意味しているのは、行為遂行的なものとは、言語活動が事物に――わたしたちがそうと考えることに慣れているように――事実確認的あるいは真理検証的関係にもとづいてかかわるのではなくて、言葉が事物に誓いを立てるような、言葉がそれ自体基礎的事実であるような、そのような特別の操作をつうじてかかわる、人間文化の一段階の証言であるということである。それどころか、言語活動と世界のあいだの指示的関係は、言葉と事物のあいだの本源的な魔術的ー行為遂行的な関係が断裂した結果生じたものでしかないということができる。

216頁

信仰の言葉

信仰の言葉は、ここでは、言うことの純粋な能力の現実的な経験として提示されており、そのようなものとして、それは指示的な命題とも言い表されたものの行為遂行的な価値とも一致することはなく、言葉の絶対的な近さとして生じる。そのときには、なぜパウロにおいてはメシア的な権能がそのテロスを弱さのうちにもっているのか、その理由も了解される。言うことの純粋な能力の働きそのもの、つねに自分自身の近くにとどまりつづけている言葉は事物の状態にかんして真実の意見を述べる意味作用的な言葉でもありえなければ自らを事実として立てる法律上の行為遂行的なものでもありえない。信仰の内容といったようなものは存在しない。信仰の言葉を公に言い表すということは神と世界について真実の命題を定式化してみせることをいうのではない。救世主イエスを信じるとは、かれについてのなにごとかを信じる (légein ti katá tinos) ことを意味するのではない。そして、信仰の内容をシュムボラ〔象徴〕において表現しようとする公会議の試みは、この意味からすると、ひとつのこのうえないアイロニーとしてのみ通用しうる。メシア的であって弱いのは、言葉の近くにとどまりつつ、あらゆる言われたことを超え出るだけでなく、言う行為そのもの言語活動の行為遂行的な能力そのものをも超え出るような言うことの能力こそがそうなのである。それは、行為のなかで消尽してしまうことなくそのたびごとに行為のうちに維持されてとどまりつづける能力の残余である。この能力の残余が、こうした意味において弱いものであるとすれば、ひいては知識や教義として蓄積されうるものでも法として課されうるものでもないとすれば、しかしまた、それは受動的なものでも不活性なものでもない。反対に、それはまさしくその弱さをつうじて活動するのであり、律法の言葉を働かなくさせもろもろの事実上ないしは権利上の状態を廃絶し放棄する──すなわち、それらを自由に使用できるものと化すのである。カタルゲイン〔止揚〕とクレースタイ〔使用〕は、弱さのうちで成就される能力の行為なのだ。しかしまた、この能力が弱さのうちにそのテロスを見いだすということは、それがたんに無限の順延のうちで宙吊りになったままではいないということを意味している。むしろ、それはそれ自体へと向き直って、あらゆる意味されるものにたいする意味作用の過剰そのものを成就させて不活性化するのであり、異言を消失させる(『コリント人への手紙 一」13:8)。かくては、表現されることも意味することもないまま、永遠に言葉の近くにあっての使用でありつづけていることの証言者となるのである。

220-221頁

閾あるいはトルナダ

ベンヤミンにおける「引用」

ベンヤミンは、かれのノート〔『パサージュ論』〕の(認識の理論にかんするノートを収めた)セクションNの覚え書のひとつで、つぎのように書いている。「この作業は引用符なしの引用術をぎりぎりのところまで推し進めなければならない」。よく知られているように、ベンヤミンにおいては、引用は戦略的な機能をもっている。過去の諸世代とわたしたちの世代とのあいだには密かな約束があるように、過去の文書群と現在とのあいだにも同様の約束がある。そして、引用は、両者の出会いの、いってみれば取り持ち婆さんなのだ。ひいては、それは慎み深くあらざるをえず、時としてその作業を人知れずに果たすすべをわきまえていなければならないとしても驚くにはあたらない。しかも、この作業は、保存しようとするものではなくて、破壊しようとするものである。「引用は言葉を名前で呼び、言葉を文脈から剝ぎ取って文脈を破壊する」と、クラウスにかんする論考にはある。また、それは同時に「救い、そして罰する」とも。論考「叙事詩劇とはなにか」では、ベンヤミンは「あるテクストを引用することは、それが所属するコンテクストを中断することを意味する」と書いている。ベンヤミンがこの論考において言及しているブレヒトの叙事詩劇は、もろもろの仕草を引用できるものにしようとしている。「役者は」とベンヤミンは付言している。「植字工が字間にスペースを置くように、その仕草に間隔を置くことができるほどでなければならない」と (Benjamin 1974-89 5

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過剰に読むこと、二度読むこと

ここに「間隔を置く」と訳したドイツ語の動詞はスペルレン(sperren)である。これは印刷上の約束事――ドイツ語に限らず――で、なんらかの理由からある言葉を際立たせようとするとき、斜体を用いる代わりに、その字間を空けることを指している。ベンヤミン自身、タイプライターを用いるときには、この約束事を利用している。古文書学的にみると、これは筆写者が写本中に頻出する、いわば読む必要のない――あるいは、トラウベによるとユダヤ教で口にすることを禁じられていたという「聖なる名」(nomina sacra)のことを考慮するならば、読まれてはならない――言葉にたいして用いていた省略の逆にあたる。字間を空けられた言葉は、いわば過剰に読まれる二度読まれる。そして、この二度読みは、ベンヤミンが示唆するように、引用の重ね書き的読解とでもいうべきものでありえたのであった。 

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