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ずっとひとりになりたかったわたしが、ちょっと方向転換。ただいっしょにすごすこと。


娘、ことし二度目のRSウイルスに感染。

体調がわるいのだから当然だが、ごきげんななめで寝ても覚めても大暴れ。

それでもなんとか熱がさがったので、登園させた。娘をみながらのリモートワーク、限界だった。





看病疲れはたまっているけれど、なんとかきょうは集中して仕事ができそうだ、よかったよかった…。ホッと抱っこひもをおろそうとしたところで、連絡帳をチェックした先生からひとこと。

「下痢止めをのんだんですか?その場合は預かれないんですよね…」

びっくりした。くだしているわけではないのだ。ゆるめのうんちが続いていて、小児科で「少し硬くなるように、のんでみる?」と提案されたものだった。のみすぎると便秘になってしまうから、べつにのまなくてもいいよ、ともいわれていた。

体調はむしろよくなっているんですけど?それでもダメですか?と食いさがるわたしに、しまいには看護師の先生が登場。

「さいしょに交わした契約書に書いてあります」「だれかを特別あつかいするわけにはいかないので」

キッパリと断られた。

うなだれるわたしに、先生は「病児保育もありますよ…」とやさしく区のパンフレットをみせてくれた。

いや、なにがなんでも預けたいって主張しているわけじゃなくて、園の基準に納得したかっただけなんだけど…。親切で選択肢を示してくれているのはわかりつつも、モンペあつかいされたような気がしてさらに凹んだ。

きょうこそちゃんと仕事したかったなあ…。

脱力。

娘は理解しているのかしていないのか、ぽかんとした顔でやりとりを聞いていた。





しかたない。思いきって休もう。今までとはちがう小児科にいってみよう。せわしなく通勤する人たちを横目に、ゆーっくり引き返しながら、娘に声をかけた。

「きょうはおやすみして、おかあさんとおうちでゆっくりしよっか」

そのときの娘の表情。たぶん、ずっとわすれない。

「ウン!」とうなずき、顔がパーーーーーッと輝き、みるからに安堵したようだった。ふきだしをつけるとしたら、「いかなくていい?いいのね!?」「ホントにホントにずーっとおうち!?」「わーっ!うれしい!!」





先月の保育参観。四月うまれの娘は、ほかの子よりもできることが多かった。スプーンをくわえたまま口からはなさない子、おかずをまきちらす子をよそにもくもくと食べ、ごちそうさまをして食器をかさねる。おかたづけしますよ〜、といわれれば、ぼんやりすわっている子の分まで、ブロックをひろって持っていく。ずいぶんがんばっているな、と思った。先生たちはどうしても月齢のちいさい子に手がかかるようだった。

家ではたっぷり甘えさせてあげよう、とそのときは決意したのだっだが、あわただしい毎日で、すっかりわすれていた。

保育園よりもおうちがよかったんだね。

こんなわたしでも、おうちでいっしょにすごす時間を気に入ってくれていたんだね。





いまの仕事をまあまあ気に入っていて、やめたくないわたしにとって保育園は不可欠なもので、否定的な意見がすこしでも目に入ろうものなら、食ってかかっていた。

「預けるなんてかわいそう」は女性の社会進出をさまたげる呪いだ。罪悪感をかんじる必要なんてない。社会性も身につくし、おいしい給食だってでる。母子べったりより、ぜったいいい経験になる。

娘の気持ちなんてかんがえてもみなかった。いや、かんがえないようにしていた。「おかあさんがいい」「保育園いきたくない」なんていいだしたら、キャリアの障壁になってしまいかねない。





三砂ちづる氏は、ハンセン病について研究した教え子とのやりとりにふれ、このように記している。

「家族は抑圧の温床?持ちたくない?一人で暮らしていたい?子供はいらない?夫婦二人だけでいい?家事はできるだけ手を抜くほうがいい?子どもがいると仕事の妨げになる?自己実現のためには、子どもはいないほうがいい?いてもできるだけ自分の手をかけないように預かる施設が充実するといい?親戚づきあいは面倒なのでやめたい?私たちがこの数十年追い求めていたものは、ハンセン病の人たちが求めても得られなかった生活の実体とでもいうものではないのか。」(2016年、ミシマ社『女たちが、なにか、おかしい おせっかい宣言』)

映画「そして父になる」にも、おなじようなセリフがあった。仕事でいそがしく、休日もほとんと一緒に過ごしていない父親に、べつの父親が言い放つのだ。

「子どもは時間だよ」





子はおかあさんが育てるべき!なんておもわない。女性がはたらく権利は当然まもられるべきだ。たまには子どもと離れるひとりの時間だって必要だ。

でも、それはそれとして、「ただいっしょに時間をすごすこと」、これがどれだけ貴重なことだろうか。なにもすてきなことが起こらなくても、イライラすることばかりでも、ささやかな食卓をかこんで、日常のちょっとしたことを語らって、眠りにつく。家族として生きるとはそういうことで、それ以上のことはもうないのではないだろうか。

映画も読書も、友人との食事もぜんぶあきらめたくない、もっともっと自由な時間がほしい…、出産後、わたしはただそればかりを渇望してきたけれど、立ちどまる必要があるのかもしれない。イヤでもいっしょにいざるを得ない、いまこの一瞬は、もしかするとかけがえのないひとときなのかもしれない。





もうすぐ2022年。娘は2歳になる。トイトレをスタートし、きっとたくさん失敗するだろう。ときにはいらないと食事をほうりなげるかもしれない。道路につっぷして、手足をばたつかせる姿もすでに想像できる。わたしはそのたびに泣きたくなるだろう。ひとりになりたいと愚痴るだろう。

それでも。ただただいっしょにいられることの奇跡よ。

たくさんのふつうの日を、たいせつに過ごしたい。

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子どもに教えられたこと

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