【春秋戦国編】第1回その2【春秋時代概要】

概要

 先ほども言いましたが春秋時代の始まりは紀元前771年です。そして春秋時代の終わり、戦国時代の始まりはいくつか説がありますが、今回は紀元前403年の説を採用してお話をすすめていきます。
 参考までにこの頃の日本では紀元前660年に神武天皇が即位されたと言われています。伝説とか神話の世界ですね。

 春秋時代のはじめには100以上の国があって、熾烈な戦いを繰り広げていきます。もちろん以前から揉め事はあったんですが、調停役になるべきしゅうの力が低下してしまい歯止めが効かない状態です。
 どの国も基盤となる産業が農業なので領土拡大すれば、その分収入が増えます。さらに戦争となれば農地を広げるための奴隷をまとめて手に入れるチャンスですからね。戦争することのメリットが我々現代人が考える以上に大きいわけです。
 鉄製農具の普及もあり農地獲得のニーズは高かったと思います。

諸子百家しょしひゃっか

 諸侯しょこうは他国に滅ぼされないように様々な学問が出現します。そんなたくさんの学問の派閥をまとめて諸子百家しょしひゃっかと言います。
 法律によって国を強くしようという法家ほうかとか、道徳で組織をまとめる儒家じゅか、愛が大事だから戦争はやめようという墨家ぼっかとかそんな感じですね。他には軍隊を強くするにはどうすればいいかと考える兵家へいかや、人を説得する方法を研究する縦横家じゅうおうかとかもあります。

春秋の国々

 では次に具体的にどんな国々があったのかをいくつか簡単に紹介していきます。流石にすべてを紹介はできないので本当に主要なものです。

しん

 この時代の最強国家です。周の二代目・成王せいおうの弟の血筋です。現在の山西省《さんせいしょう》の黄河中流域を支配していました。当時のこの地点は文明の最先端と言える土地で、文化的にも経済的にも恵まれた国です。
 特に文公ぶんこうという君主の出現をキッカケに中原ちゅうげんと呼ばれる黄河流域のリーダー的ポジションになっていきます。
 春秋時代の主人公と言っても過言ではないでしょう。そしてこの国の滅亡が春秋時代の終わり、戦国時代の始まりを告げる口火となります。

せい

 東方の経済大国です。開祖は伝説的な軍師・太公望たいこうぼうと言われています。日本では釣りをしている人のイメージでしょうか。周がいんを滅ぼす戦争で活躍したと言われています。
 場所は山東省さんとうしょう。山東半島ですね。半島なので周りが海で塩の産地です。中国は海が東にしかないので塩がとても貴重なのでよく売れます。
 桓公かんこうという君主の時代に管仲かんちゅうという天才的な宰相さいしょうが出現し、覇権国の階段を駆け上がります。宰相は総理大臣的な人だと思ってください。

そう

 殷王朝の末裔が封建されて出来た国です。現在の河南省商丘市しょうきゅうし付近です。晋や斉と比べると弱いですが弱小というほどではない、中堅どころと言えます。
 国の成立過程からか伝統を重んじる風潮があり、襄公じょうこうという君主が特に有名です。

 周にとって最高の政治家・聖人である周公旦しゅうこうたんが封建された国です。現在の山東省の南部・曲阜市きょくふし周辺を治めていました。斉のすぐ近くです。
 宋と同様伝統を重んじる国風で、中華史上最高の教育者と言える孔子こうしの出身地です。
 国としては強国・斉に押され中堅止まりです。

しん

 ご存知の通り後に天下統一を果たす国です。支配地域は現在の陝西省せんせいしょうあたりです。当時の感覚だと辺境ですね。異民族の侵入も多いですし。
 以前にお話したとおり、春秋時代になってから諸侯となった比較的新しい国です。
 辺境の新興国と強い立場ではありませんが、他国からの人材登用に熱心な国です。穆公ぼくこうという君主の時代には晋や斉にも負けない国に成長します。
 ただ、この国は殉死の習慣があり穆公死後はパッとしない時代が続きます。

 長江ちょうこうの中流域を支配しています。現在の河南省かなんしょう南部や湖北省こほくしょうあたりです。黄河こうが流域の中原と呼ばれる地域からみたら完全に辺境ですね。
 同じ辺境の秦とは対象的に諸侯の中でもかなり古い国です。殷の時代から存在していたとも言われています。中原から移住した人たちが建てた国であるという説。長江文明圏の人たちが建てた国であるという説。2つの説がありますがハッキリした証拠は今の所見つかっていません。
 史記の記述では伝説上の人物の末裔とされています。要するにようわからんという訳です。
 文明の違いからか周に対してはかなり反抗的です。春秋時代以前から揉め事が多かったようで、楚に行った周の王様が行方不明になるという事件も起こっています。
 周や他の諸侯との血縁的・立場的な繋がりが希薄で、春秋時代はかなり野心的・好戦的な動きをしています。|荘王《そうおう》と呼ばれる名君が出現し覇権国となります。春秋時代の裏主人公的存在です。

 長江下流の諸侯です。周の王室からは遠縁の親戚に当たるようです。中原からはかなり離れた場所ですね。
 春秋時代の終わり頃、闔閭こうりょ夫差ふさの時代に伍子胥《ごししょ》や|孫武《そんぶ》という将軍を配下に加え、一時的にですが楚の首都を陥落させる程の強国となります。
 中原に進出して全盛を極めましたがその直後、お隣のえつによって滅ぼされてしまいます。

えつ

 呉よりさらに南方にある諸侯です。殷より前にあった王朝の末裔と言われます。夏王朝自体が実在が確認されていないので、ほとんど伝説の域ですね。
 一時期は呉の圧迫を受けますが、越王・|勾践《こうせん》と名臣・范蠡はんれいらの活躍によって呉を滅ぼして全盛期を迎えます。全盛期は長続きせず、戦国時代になると楚に滅ぼされてしまいます。
 児島高徳が後醍醐天皇に院庄で桜の幹に書いて贈った詩『天莫空勾践、時非無范蠡』はこの越の故事に由来します。岡山県民なら知っておきたいですね。

その他の諸侯

 他にも色々な国がありますが、今回は省略します。面白い逸話も多いのでいつか語りたいところです。

3つの対立構図

 これはあくまで個人的な解釈です。論文なんかをチェックしたわけではなんですが、春秋時代を理解する上で、対立構図を3つにカテゴリー分けするとわかりやすいので私は勝手に分けて考えています。
 詳しい方からはお叱りを受けるかもしれませんね。あくまで個人的な考え方です。

領土拡大に伴う周辺との対立

 これはわかりやすいと思います。自国の領土を拡大するために周辺に侵略、あるいは防衛することによって発生する対立です。弱小国は近くの強国に飲み込まれていってしまいます。時には両隣を大国に挟まれた小国が上手に立ち回って発展することもありました。
 時代の進行と共に淘汰されていき、戦国七雄せんごくしちゆうと呼ばれる超大国になっていきます。

楚と中原諸侯との対立

 楚はこの時代かなり好戦的な国でした。他の諸侯とは文化も血統も異なるので侵略することへの心理的ハードルが低かったと考えられます。
 困るのは楚に近い小国です。単独では楚に立ち向かうことができない彼らは、中原の強国に助けを求めます。
 こうして楚対中原の強国という対立が発生するわけです。城濮じょうぼくの戦いや、ひつの戦いは特に大規模な戦いでした。これはどちらも晋と楚の対決ですね。城濮の戦いは晋の勝ち。邲の戦いは楚の勝ちといった具合に勝ったり負けたりだったようです。
 米ソ冷戦のように晋陣営の諸侯と楚陣営の諸侯による代理戦争も発生しました。

諸侯間の盟主をかけた対立

 周の権威は低下していましたが、それでもある程度の影響はありました。どんな時代でも大義名分は大事ということです。政策でも条約でも相手を納得させるためのコストをカットすることができますからね。周王を補佐して他の諸侯の上に立つ立場を手に入れるための対立が発生しました。
 これは戦争だけでなく外交上での駆け引きも行われました。目立つ場所でメンツをぶっ潰そうとする、なんて事件も起きました。
 諸侯は時々会盟かいめいと呼ばれるサミットを開催しました。このサミットを仕切る人を覇者はしゃと呼びます。周王を助けるナンバー2になって他の諸侯に号令する。これが春秋時代の一番大きな対立の構図でした。

ちょっとした雑学

 余談ですが、会盟の儀式を行う時牛が生贄に捧げられました。この時覇者は牛の耳を切り取る役目があったそうです。つまり牛耳を執るということです。現在の牛耳ぎゅうじるの語源ですね。
 更に余談ですが、この覇者は王を助けて異民族などの侵略者から中原を守る存在とされました。これを尊王攘夷そんのうじょういと言います。幕末でおなじみのアレです。日本での天皇を助け外国に対抗するという尊皇攘夷につながるわけです。
 中国史やローマ史は現代につながる言葉がたくさん出てきてワクワクしますね。

春秋の五覇

五覇は何人いる?

 会盟で諸侯の頂点に立つ存在を覇者というのは先ほど言いました。この覇者の中でも特に強かったり、功績があった5人を春秋の五覇ごはといいます。「ナントカ四天王」みたいでかっこいいですね。春秋の五覇と呼ばれる人物は以下のとおりです。
斉の桓公かんこう
宋の襄公じょうこう
晋の文公ぶんこう
秦の穆公ぼくこう
楚の荘王そうおう
呉王夫差ふさ
呉王闔閭こうりょ
越王句践こうせん
鄭の荘公そうこう
晋の襄公じょうこう
晋の景公けいこう
晋の悼公とうこう
 五覇候補の人たちですが、明らかに5人より多いですね。書物によって諸説あるのでこんなことになってしまっています。
 並べてみて気がつくことがあると思います。まずひとつ、晋の君主が非常に多いということです。晋はこの当時経済力、軍事力も最大規模の国で、周の首都・洛邑にも隣接しているという地の利に恵まれていました。まさに覇権国家と言えるでしょう。
 また、楚・呉・越の南方の諸侯は王号を名乗っています。原則王とは周王一人で勝手に名乗って良いものではありません。しかし、文化的・血縁的に中原の影響が少ない長江流域の諸侯は勝手に王を名乗っています。戦国時代になると中原の諸侯も王を自称するようになっていきます。

覇者の中の覇者

 『史記』の注釈書『史記索隠さくいん』や儒教の経典の一つ『孟子もうし』では斉の桓公、宋の襄公、晋の文公、秦の穆公、楚の荘王が五覇とされています。
 この中で宋の襄公は人格的な評価は高いですが、国力や君主としての実力がイマイチです。秦の穆公は人格・実力共に覇者に相応しい傑物ですが、実は正式な会盟を開催していません。楚の荘王は実力は申し分ありませんが、勝手に王を称しているので尊王の面から覇者にふさわしくないという評価もあります。この3人は五覇から外されることもあります。
 対して、斉の桓公と晋の文公はどの書物でも五覇に挙げられます。覇者の中の覇者と言える存在です。

春秋の終わり、戦国の始まり

晋の巨大化と弱体化

 晋は五覇のひとり文公の時代に覇権国へと躍り出ました。彼は優れた家臣を多く抱え、彼らと力を合わせて中原に秩序をもたらしました。間違いなく名君と言える人物です。
 しかし、時が経つに連れ優秀な家臣団の末裔は貴族となり、特権階級化して晋の君主の言うことを聞かなくなっていきます。周と諸侯の間に起こった問題と同じ構図です。
 晋の貴族たちは自分たちの利益のために領土拡大に乗り出します。結果、晋は巨大化していきますが、それに反して晋の君主の力は相対的に弱体化していきます。国土が広がっても、実質的には貴族の支配地域が広くなるだけだったからです。

三晋さんしんの独立とその影響

 紀元前455年から453年にかけて晋の貴族同士による大規模な内戦・晋陽しんようの戦いが発生します。この戦いの結果、ちょう・|韓《かん》氏が勝ち残り晋の領土を分割して、実質的に独立します。そして紀元前403年に趙・魏・韓は周から正式に諸侯として承認されます。この3国を三晋と呼びます。
 この事件は他の諸侯にも大きな影響を与えました。
 一つは下剋上の風潮が強くなりました。過去にも分家が本家を乗っ取るということはありましたが、最強国家・晋が家臣により分割されるという事件はあまりにもショッキングな出来事でした。更に紀元前391年に東方の大国・斉でも君主が追放され、家臣のでん氏に国を乗っ取られました。この乗っ取られた国も名前は斉なので区別して田斉でんせいと呼びます。紀元前386年には周は田斉も諸侯として承認しました。
 そして、もう一つは周の権威が壊滅的に低下しました。理由は想像できると思います。権威が上の者を下の者が倒す、下剋上を一番偉い人が認めてしまったわけですから。誰も周王の言うことなんて聞かなくて当たり前ですよね。
 そしていよいよ戦国時代がはじまります。春秋時代以上に秩序なき争いが繰り広げられます。

 その3に続きます。