【春秋戦国編】第1回おまけ【春秋戦国時代の戦争】

武器について

青銅から鉄へ

 春秋戦国時代は鉄製農具が普及し食料生産料が拡大した一方で武器は青銅製が主流でした。鉄製武器の方が性能が良いのですが、鉄よりも低い温度で加工できる青銅の方が武器としてはメジャーだったようです。
 当時は木製の柄にかぶせて使うほこという武器が主流です。柄にくくりつけたり埋め込んだりするやりは当時ではメジャーではありませんでした。槍は固定方法の関係上サイズを小さくする必要がありますが、青銅製の武器はサイズを小さくすると強度が落ちてしまうので鉄製武器が普及するまでは製造が困難でした。

 矛は見た感じは槍に近いですが強度を確保するため大きめに作られています。そのため純粋に刺すというより斬ることに向いた武器です。さきっちょを細く鋭くすると、刺すことには向きますが前述の通り青銅では強度が落ちてしまいます。

 戈は『ほこ』とも読みますがややこしいので『か』と呼びます。戈は柄の側面に刃が飛び出た武器です。見た目は鎌や登山用のピッケルが近いでしょうか。ブンブン振り回して刃部分を叩きつけて使います。

弓と

 もちろん飛び道具もありました。春秋時代は弓が多く用いられましたが、戦国時代に入ると技術力の向上により機械じかけの弓・が本格的に使われるようになりました。いわゆるのクロスボウです。製造コストや連射性能は弓が優れていますが、技術が低い兵士でも取扱ができる弩の普及は戦争の大規模化を招きました。素人でも使える武器が普及することで職業軍人以外を動員できるという現象は、日本の戦国時代における鉄砲にも見られますね。
 余談ですがボウガンは和製英語なので日本人以外には通じません。

 武器の王様・剣もこの時代には登場しています。特にえつは名剣の産地として有名です。春秋戦国時代を舞台にした剣豪や名剣の伝説が呉・越などの長江流域の国家に残されています。
 1965年に発掘された越王えつこう勾践こうせんけんは2400年以上前に作成された銅剣ですが往時の切れ味・美しさを現代でも保つ名剣です。
 日本では剣と刀という言葉は同じように使われますが、中国の剣は、諸刃で先端が尖っていて真っ直ぐであるという特徴があります。普通の戦場では矛や戈の補助武器ですが、乱戦や船の上での戦いでは有効な武器となります。川が多く船での移動が多かった長江流域で剣が発展したのはこのためです。長さは戦国時代初期で50センチ程度、戦国時代後期で80センチ〜90センチ程度のものが用いられました。

兵士について

戦場の華・戦車

 周から春秋時代にかけての戦争の主役は戦車でした。もちろん現在のキャタピラで走るタンクではなく、4頭で牽く戦闘用の馬車・チャリオットです。この馬車に運転を行う馭者、戦闘員として弓と持つ兵と戈を持つ兵が乗り込むのがオーソドックスなスタイルでした。正面からぶつからずにすれ違いざまに攻撃する必要があることから、矛よりも戈が優先されました。すれ違いざまに相手の顔面をフルスイングするわけです。メッチャ痛そうですよね。
 戦車は1乗、2乗と数えます千乗せんじょうの国とは「戦車を千台分の戦力を動員できる国」という意味です。春秋時代の初期では戦車1台につき乗る人とサポート役の歩兵が25〜30人程度がついていたようです。春秋時代の終わり頃は戦車1台につき75人程度がついていたようです。千乗の国と言うと動員兵力は25,000〜75,000人程度、万乗の国ならその10倍という計算です。
 歩兵では止めるのが困難な戦車は長らく戦場の主役でした。しかし平野部でないと軍勢を展開できないという制約がありました。そして、機動力と柔軟性に勝る騎兵の登場により戦国時代が終わると次第に廃れていきました。
 戦車は古代中国だけでなく、エジプトやペルシャでも戦争に用いられていましたが、こちらでも同様に小回りの悪さやコストの高さから廃れていきました。戦国時代と同年代の紀元前331年に起きたガウガメラの戦いでは大規模なペルシャ軍戦車部隊がマケドニアのアレクサンドロス大王の前にほぼ何も出来ないまま敗北しています。

脇役から主役へ・歩兵

 当然ながら戦車は将官クラスの身分の高い人が乗りました。それ以外は矛や弓を持って徒歩で戦う歩兵となります。春秋時代は貴族と平民の中間・いわゆる中産階級の人々が歩兵として戦いました。
 戦国時代になると戦闘の大規模化していき、次第に平民も歩兵として戦う機会が増えてきました。特にしんは戦場で多く首を獲れば平民でも出世出来たので、多くの平民が戦闘に参加しました。
 弩が本格的に運用されるようになったのも平民が兵士になるハードルを下げていきました。
 低コストで柔軟に運用できる歩兵は、当初の戦車のサポート役から次第に戦場の主役へと出世していきました。

最強の兵種・騎兵

 騎兵は馬に乗って戦うという性質上、戦車兵や歩兵以上に高い技量が求められます。そのため農耕民族では騎兵の育成がかなり困難で、春秋時代はメジャーな存在ではありませんでした。
 戦国時代の中頃、ちょう武霊王ぶれいおうという王様が出現し、胡服騎射こふくきしゃと呼ばれる軍事改革に着手し、本格的に騎兵の育成・運用をはじめます。その結果、趙は戦国七雄の中でも最強クラスの軍団を組織することが出来ました。また、しんも西方の遊牧民族との戦いや交流が多かったことから騎兵が多かったようです。
 騎兵と言うとヨーロッパの中世騎士のようにガッチガチのフルプレートアーマーを着込んでランスで突撃して戦うイメージがあるかもしれません。しかし、当時は馬具が未発達でありあぶみもなかったことから騎兵突撃は不可能でした。そのため当時の騎兵の戦い方は弓を使って戦う騎射がメインでした。スピードを活かして遠くから攻撃するヒットアンドアウェイです。
 スピード、小回りに優れ、遠距離から攻撃してくる騎兵は事前に対策をするか、同じく騎兵で対抗するしか対処法は存在しません。歩兵や戦車が後出しジャンケンで騎兵に勝つのはほぼ不可能です。銃火器が登場してもなお機動力という騎兵の強みは相変わらずで、1904年の日露戦争で秋山あきやま好古よしふるが騎兵を率いて活躍したことは小説やドラマで知った人も多いでしょう。

 第2回に続きます。