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第2回【凡庸な大器・斉の桓公と大宰相・管仲】

 今回は前回お話したとおり、春秋戦国時代に活躍した人物に注目して語って行きたいと思います。春秋時代天下を牽引するリーダー・覇者はしゃが出現します。彼らはどのような人物だったのか見ていきましょう。

覇者の誕生

せいの内乱

 紀元前686年斉の国、現在の山東省でのお話です。日本では紀元前660年に神武天皇が即位したと伝わっていますから、丁度その時分です。当時斉は襄公じょうこうという人が君主でした。この時代襄公という名前の君主が色々な国にいたのので、基本的には国名と合わせて斉の襄公といった呼び方をさせていただきます。

 この斉の襄公はかなりとんでもない人物だったようで、乱暴な言動が多く戦争好きなだけでなく、実の妹・文姜ぶんきょうと男女の関係にありました。更にその妹が隣国桓公かんこうと結婚した後も関係が続いていたというから驚きです。現代の倫理観ではとんでもない話ですが、当時の倫理観でもやっぱりとんでもない話だったようです。魯の桓公は烈火のごとく怒りますが、斉の襄公はなんと魯の桓公を暗殺してしまいます。絵に書いたような逆ギレですね。当然魯と斉は一触即発となりますが、斉の襄公は実行犯を処刑し謝罪しました。

 スキャンダルと為政者としての能力は別物ですが、この斉の襄公の倫理観の破綻ぶりは国政にもとんでもない悪影響を与えました。約束を破るなんて事は日常茶飯事で、他国はもちろん国民や家来からも嫌われていました。案の定、斉の襄公は従兄弟・公孫無知こうそんむちに殺害されてしまいました。その従兄弟もあまり優秀な人物ではなかったようですぐに暗殺されました。斉の襄公の2人の弟・きゅう小白しょうはく
「このままでは内乱の巻き添えを喰らいかねない」
と思いそれぞれ他国に亡命していきました。
 斉国内は大混乱です。後継者候補は亡命中の糾と小白です。この兄弟間で熾烈な後継者争いが発生しました。

暗殺者・管仲かんちゅう

 斉の後継者争いはどちらが先に国内に戻り即位できるかというスピード勝負になりました。既成事実を先に作ったほうが有利になるわけです。

 弟の小白は、亡命先である現在の山東省日照市にっしょうしにあった国・莒《きょ》から斉の首都まで移動していました。その道中どこからともなく矢が飛んできて小白に命中。小白はそのまま倒れてしまいました。
 小白を狙撃したのは管仲かんちゅうという男です。管仲は小白の兄・糾の側近でした。糾は弟を暗殺し、斉の国を手に入れようとしたのです。まさに骨肉の争いというやつです。
 小白に矢が当たったという管仲の報告。そして小白の家来は棺桶を用意したという情報を掴んだ糾は悠々と斉の首都に帰還します。
 しかし、そこで糾を待っていたのは死んだはずの弟・小白でした。管仲の放った矢は実は小白の帯の止め金、今風に言うとベルトのバックルに当たり、一命をとりとめていました。小白はとっさの機転で死んだふりをして糾と管仲を出し抜いた訳です。
 不意を突かれた糾が斉の軍隊を掌握した小白に敵うはずがありません。糾は急いで亡命先だった魯に引き返します。

斉の桓公(姜小白)

 こうして小白は斉の君主となります。後に斉の桓公かんこうと呼ばれ、春秋の五覇の筆頭に挙げられる人物です。以下単に桓公という場合は斉の桓公を指します。妻を義兄に寝取られた挙句殺された魯の桓公とは全くの別人です。念の為。

覇者を目指す

管鮑かんぽうの交わり

 兄・糾は魯の軍隊を借りて桓公に戦いを挑みますが負けてしまいます。基本的に魯は弱いのでこの講座で登場する時はだいたい負けてます。糾はまたまた魯に逃げ込みますが、桓公から魯に使者が送られます。
「斉は魯と積極的に戦うつもりはない。
 直接兄に手を下すのは忍びないので、魯の方で糾を処刑してほしい。
 管仲は直接ブッ殺してやりたいので身柄を斉に送ってほしい」
斉からの要求を聞き入れた魯は、要求通り糾を処刑管仲を斉に送還しました。

 管仲に殺されかけた桓公は怒り心頭で、どうやって処刑してやろうかと考えていました。そこに鮑叔ほうしゅくという桓公の側近が進言します。
「もしも主が斉一国だけを治める事が望みなら、我々の力だけでも大丈夫でしょう。しかし、天下を治めたいと思うのなら管仲の力は絶対に必要です」
実は鮑叔は管仲の古くからの親友で、管仲の才能をよく知る人物でした。敵味方に別れた後でも、鮑叔は管仲との友情を忘れず彼の命を救ったのです。2人の関係は管鮑かんぽうの交わりと呼ばれ深い友情を示します。
 ただ、鮑叔が管仲を助けたのは仲が良かったからだけではありません。鮑叔の言葉通り管仲は天下を治めるために必要な人材でした。管仲こそ、後世孔子こうしがその能力を称賛し、三国時代の諸葛孔明しょかつこうめいが憧れた、史上最高の政治家にも挙げられる大宰相なのです。

管仲のパッとしない前半生

 管仲の生年は不明なので、桓公が即位した時の正式な年齢はわかりませんが、おそらく30代〜40代の前半と想定されます。管仲の主君・桓公や親友・鮑叔も生年が不明ですがおそらく同世代と思われます。

 管仲を持ち上げたばかりですが、彼の前半生は順風満帆とは程遠いものでした。貧乏な家に生まれ、父を早くに亡くしたため、当時は卑しいとされていた商売を行いお母さんを支えていました。
 この頃には鮑叔とは友人となっていて一緒に商売をしていました。管仲はお金をごまかして鮑叔より多く取り分を懐に入れていましたが、鮑叔は
「家が貧しいのだからそれくらいは当然だ」
と気にしていませんでした。
 管仲が鮑叔のためになると考えて立てた計画が失敗し、逆に鮑叔の顔に泥を塗るということがありました。それに対して鮑叔は
「管仲ほどの天才でもタイミングが悪ければ失敗くらいする」
と気にしませんでした。
 管仲が兵士として戦争に出たこともありますが、何度も脱走してしまいました。みんなは管仲を臆病者だと笑いましたが、鮑叔は
「お母さんを大切にしている証拠だ」
と管仲をフォローしました。
 そして上記の暗殺失敗と、管仲の前半生はぶっちゃけパッとしないものでした。どちらかというと鮑叔のいい人ぶりが光ります。実際鮑叔を評価する声も多く、何より管仲自身が
私を生んでくれたのは両親だが、私を一番理解してくれたのは鮑叔だ
と発言しています。

倉廩そうりんちて礼節れいせつを知り、衣食いしょくりて栄辱えいじょくを知る

大宰相・管仲

 桓公との面会した管仲は軍事力を増強する前に国を豊かにすることの重要性を説き、それには民生の安定と規律の徹底が必要であるとしました。また、管仲自身が低い階層の出身であることから大臣たちを統率するのに必要な地位肩書、そして政治改革に必要な予算を自由にできる権限を求めました。
 それに対して桓公はすぐに、国政のトップである宰相の地位、おじさん・つまり桓公の目上という意味の仲父ちゅうほの称号、国家の収入を自由にできる権限を与えました。
 さらに管仲のサポート役として鮑叔を任命しました。今までこれといった実績のない管仲に対して、かなり破格の待遇と言えます。
 桓公の長所は個人としての知恵や武勇ではなく、人の扱いの上手さと言えるでしょう。中華文明では主人公になりやすい性質ですね。『西遊記さいゆうき』の玄奘げんじょう三蔵さんぞうや『水滸伝すいこでん』の宋江そうこう、『三国志演義さんごくしえんぎ』の劉備りゅうびタイプです。

 管仲の政治方針はまず第一に国民の生活を豊かにすることでした。管仲の言行をまとめた管子かんしには「倉廩そうりんちて礼節れいせつを知り、衣食いしょくりて栄辱えいじょくを知る」とあります。一般的には「衣食足りて礼節を知る」という言葉で有名です。
 貯えが十分になって初めて名誉や恥を気にするようになる。生活水準が十分になって初めてルールやマナーを守ろうとする。
 若い頃に苦労した管仲らしい政治方針と言えるでしょう。

 管仲の政策としては次のようなものが挙げられます。
・農地の測量・整備を行い、農業を保護・振興する
塩や鉄の生産を国営化して利益を得る
流通網の整備や貨幣の発行により経済を安定化する
・税制と兵制の改革を行い軍備を増強する
 また、管仲は物価とは常に一定のものでなく、需要と供給によって変動するものであることを理解していました。時には物価の変動により利益を出し、別の時には穀物価格を安定させ国民の生活を守りました。

春秋の覇者

奪わんと欲すれば、まず与えよ

 管仲を宰相にした斉は経済でも軍事でも他国を圧倒するようになります。特にその影響を大きき受けたのは隣国の魯でした。桓公が即位してから5年後、斉は魯に攻め込み領土を奪いました。その後講和条約を結びますが、調印の際に魯の将軍・曹沫そうばつが桓公に短刀を突き付け、領土の返還を要求しました。なかなか無茶なことをしたもんです。桓公は命の危険もあったので、この場ではやむなく領土の返還を約束しました。帰国後桓公はすぐに約束を反故にして魯に攻め込もうとしました。しかし、管仲は脅迫の結果とはいえ約束を破ってしまっては諸侯の信用を失うとして、桓公を諌めて領土を返還しました。
 この結果、諸侯は必ず約束を守る男・桓公を信頼するようになりました。

 また、現在の北京市周辺にあったえんに異民族が侵入した際は桓公自ら兵を率いて応援に駆けつけました。戦いは無事、燕・斉連合軍が勝利しました。喜んだ燕の君主・荘公そうこうは国境まで桓公を見送りました。しかし、おしゃべりに夢中だったのか国境を過ぎ、斉の国内まで入ってしまいました。当時、見送りの際は国境を越えないのがマナーでした。桓公はどうしたものかと管仲に相談すると、
見送ってもらった所を国境として新たに定めましょう」
と提案しました。桓公は内心では不満たらたらです。そりゃあ斉の方に国境を新しく引いてしまったら、その分斉の領土が減ってしまうわけですから。
 しかし、天下の諸侯は損をしてまで燕の荘公のメンツを守ってくれた桓公を称賛しました。燕の荘公が桓公に深く感謝したのは言うまでもないでしょう。

 管仲は経済感覚に長けた現実主義者でありながら、諸侯や人民の心理、何をエモいと感じるかということをよく理解していたことがよくわかります。

最強国家・斉

 黄河流域・中原ちゅうげんの国家にとって最大の脅威は、長江流域の大国・でした。楚は広大な領地を有し、周王朝への帰属意識も低いため他国に対して非常に好戦的でした。楚の北上に対して桓公は諸侯の連合軍を率いて見事撃退しました。
 紀元前651年、即位から35年目に諸侯を招集し、現在の河南省商丘市しょうきゅうしにあたる葵丘ききゅう会盟かいめいを行いました。これに対して周王や参加した諸侯は桓公が天下の盟主であるとしました。この事は桓公は覇者となり、斉は全盛期を迎えたことを意味します。

桓公、調子に乗る

 人生の絶頂を迎えた桓公はかなり調子に乗るようになります。封禅ほうぜんの儀式という聖天子にしか許されない儀式を行おうとして管仲に諌められています。また、妻と船遊びをしていた際、桓公をビビらせようとしてしつこく船を揺らす妻に対してマジギレした結果、妻の実家の国と戦争を引き起こすという失態を晒しています。私事で戦争を行うという、覇者失格と言われても仕方ないようなことをやらかしています。

 一方で管仲は暮らしぶりがかなり豪華だったという話が残っていますが、周王からの昇進の打診があった際、自分は陪臣、つまり周王の配下の桓公の更に配下であるという理由で辞退しています。当時の斉の人たちは、管仲が豪華な暮らしをしていたことを非難することはありませんでしたが、後世孔子からは非難されています。孔子は管仲の才能自体は非常に高く評価していますが、故郷・魯を大いに苦しめた管仲に対しては複雑な感情があったのかもしれません。

覇者の末路

管仲の死

 紀元前645年、桓公が即位してから41年目、管仲が病に倒れます。この頃には鮑叔も既に死んでいました。鮑叔がいつ亡くなったかは記録がありませんが、この時の管仲の悲しみ方は両親が亡くなった時以上だったそうです。
 管仲の見舞いにきた桓公は、後釜を誰にすべきか尋ねます。管仲は
「あなたは誰が相応しいと思いますか」
と逆に問いかけます。桓公は
易牙えきがが相応しいと思う
と答えます。易牙は元料理人で、かつて桓公が
「色々な珍味を食べてきたが人肉は食べたことがないなぁ」
とヤバイ発言をした際、自分の子供を料理して献上したヤバイやつです。管仲は
易牙は人としてありえません
と言います。私もそう思います。桓公は
公子こうし開方かいほうはどうだろうか
と尋ねます。公子開方は桓公に仕えるために故郷や両親を捨てた男です。管仲は
両親を捨てるのようなヤツも人としてダメです
と答えます。最後に桓公は
宦官かんがん豎刁じゅちょうは忠義者である
と提案します。豎は桓公の後宮で働くため自ら去勢した人物です。後宮こうきゅう、日本で言うところの大奥で男子禁制の場所ですね。管仲は
媚び諂いのために去勢するような人間は信用できません
と答えました。
 管仲は最後の力を振り絞って、この3人は絶対に信用してはいけないと言い権力の座から追放しました。

斉の没落

 管仲の死後、三貴さんきと呼ばれる3人の悪党たちは権力の座に返り咲きます。彼らは頭脳も品性も管仲には遠く及ばない連中でしたが、媚び諂いの才能は非常に恵まれていたようです。管仲の死後、桓公は彼らを再び重用しました。
 紀元前643年、即位してから43年目ついに桓公も病に倒れます。桓公と管仲は優秀なしょうを後継者に指名し、更に優れた人柄で知られるそう襄公じょうこうを後見人にしていました。しかし、軽い神輿を望む三貴は、桓公を病室に閉じ込め、後継者・昭を追放します。その結果他の桓公の息子たちが後継者争いを始め斉は大混乱に陥ります。
 混乱の中、桓公は病没しますが後継者争いで忙しい息子たちや三貴は桓公の亡骸を60日以上放置。結果、ウジ虫が部屋の外にあふれかえるほどだったと言われています。

歴史的評価

結局管仲が凄いだけなのでは?

 桓公を評価する際必ずついてまわるのは「結局全部管仲のおかげじゃん」と言う意見です。実際管仲死後はかなり酷い有様ですし、桓公のやらかしを管仲がフォローする場面は多々ありました。
 個人的な意見ですが、君主としての資質は最低限はあったのかなとは思います。本当に暗愚であれば管仲を信任することはなかったでしょうし、どこかで粛清をしようとしたでしょう。そもそも鮑叔の意見を聞き入れることなく管仲を処刑していたでしょうし。
 優秀な部下に仕事を丸投げしただけとは言いますが、それすら出来ない王や皇帝はいくらでもいるので、その点桓公は優秀とは言えなくとも、少なくとも暗君・暴君とまでは言えないでしょう。管仲死後は耄碌したのか完全に暗君化してますが。
 
個人としての能力・品格は凡庸だが、リーダーとしての器の大きさや魅力を持った人物。そんな人物だったのではないかなと思います。数々の小国を救い、秩序と文明の守護者であった事は紛れもない事実です。

管仲について

 最後に管仲についての評価ですが人格面以外で否定的な評価をされることはありません。元の主だった糾が死んだときに殉死しなかったのは忠誠心がないとか、暮らしが豪華で何人も愛人がいたとかそんな感じの批判はあります。
 しかし、能力については誰もが認める所です。
・現実と理想のバランスが取れた方針を定める企画力
・建てた計画を実際に遂行する行動力
・曹沫や燕とのエピソードでもわかる非常時に対する対応力
政治、軍事、外交全ての面で成果を出している万能性
・後世に大きな影響を与えた法治システムのパイオニアであるという先進性
・主君・桓公に疑われることなく信頼関係を死ぬまで築けた処世術
 管仲の評価点をパッと思いついただけ羅列してみましたが、まだまだあります。政治家としての総合力で管仲より明確に上と言える人間は、世界史を見渡してもちょっと思いつかないレベルの人物だと個人的には思います。

 斉の桓公と管仲については以上です。
 第2回は斉の桓公、宋の襄公、秦の穆公の話をしようと思っていたのですが、桓公と管仲の話だけで1時間が経過してしまいました。宋の襄公、秦の穆公は次回に解説します。

 続いてはおまけと言うか補足です。