【春秋戦国編】第6回 三晋の成立と魏の盛衰 その3【商鞅変法 最強国家の礎】
魏は名君・文侯の死後、優秀な人材が他国へ流出してしまいます。その中でも最も致命的だったのが、後に秦を覇権国へと押し上げる商鞅でした。
商鞅の経歴
商鞅は紀元前390年に衛の国、現在の河南省で公族の一人として生まれました。呉起が楚で命を落とす9年前です。ちなみに衛は呉起の故郷でもあります。
衛の公族出身であるため、衛鞅とか公孫鞅とも呼ばれます。正確には商鞅という名前はずっと後になってからの名前なのですが、ここでは商鞅で統一させていただきます。
商鞅は故郷の衛ではなく魏で仕官を目指します。衛は戦国七雄にも含まれない弱小国で、それに対して魏は新興とは言え当時の覇権国でした。まず商鞅は魏の宰相であった公叔痤という人物の食客となります。公叔痤は呉起との権力闘争に勝利して宰相の座を掴んだ人物なので、なかなかのやり手であったようです。
公叔痤は商鞅の非凡な才能を見抜き、名君・魏の文侯の孫・魏の恵王に推挙しようと考えていたようですが、病に倒れてしまいます。病状は恵王が直々に見舞うほど深刻だったようです。公叔痤は恵王に自分の後任に商鞅を推薦しました。しかし、恵王の反応がイマイチだったことを察すると、
「もし商鞅を重く用いないのであれば殺してしまいなさい。もしも他国にいってしまったらとんでもない災いになるでしょう」
恵王は否定も肯定もせず帰ってしまいました。
恵王が帰った後、公叔痤は少し冷静になると商鞅を呼び出して話します。
「私は王にお前を重く用いるか、殺すかするようにと言ってしまった。王は重く用いる気はない様子だったからお前は殺されてしまうだろう。早く逃げなさい」
商鞅は笑って答えます。
「王があなたの言うことを聞くならば私を重く用いるでしょう。もし言うことを聞かないのなら、重く用いることも殺すこともしないでしょう」
果たして恵王は、
「無名の若者を後任にしろと言ったり殺せと言ったり、公叔痤は耄碌したようだ」
と言って、商鞅の考えたとおり商鞅を登用もしなければ殺害もしませんでした。商鞅は公叔痤の葬式を済ませると、悠々と魏を後にしました。紀元前360年、商鞅30歳のときでした。
商鞅は魏で出世することはできませんでしたが、李克や呉起の残した富国強兵のための政策をよく学びました。魏としては最悪の敵を育てるだけ育てて敵国に送り出してしまったようなものです。
王道か覇道か
商鞅は魏の西隣にある秦を目指します。秦は長く魏の圧迫に苦しんでいましたが、当時の君主・孝公は国内外の優秀な人材を招いて富国強兵を目指していたからです。
はじめに商鞅は景監という宦官の口利きで孝公と面会することができました。始め商鞅は神聖性で国を治める『帝の道』について説きましたが孝公には受けが悪かったようです。2度目の面会では人徳で国を治める『王の道』について説きましたがこれもイマイチでした。そして3度目は知恵と実力で国を治める『覇の道』を説いたところ孝公は身を乗り出して聞き入ったそうです。孝公は古代の理想の政治より現実に即した富国強兵のノウハウを必要としていたということです。
商鞅の政策案にワクワクの孝公はでしたが、ここで商鞅は釘を刺します。
「疑行は名なく、疑事は功なし。行動に自信や確信が持てなければ、名誉も成功も得ることはできません」
商鞅と孝公はその言葉通り、強固な信念を持って政治改革に臨みました。
改革とその成果
商鞅の改革、つまり変法に真っ先に抵抗したのは既得権益を持つ貴族たちでした。商鞅は孝公の御前で貴族たちを次々と論破して行きます。
太子の付き人だった公子虔という貴族は太子をそそのかして法を破らせました。太子や貴族に重い処罰をすることはできないだろうから、これで商鞅の変法を有耶無耶にしてしまおうという目論見です。
商鞅は孝公に直々に申し出て、この陰謀に加担した者の処罰を求めました。次期秦公である太子は直接処罰されませんでしたが、公子虔は鼻削ぎの刑。他の教育係は顔面に入墨の刑、別の付き人は死刑と極めて重い罰が下されました。
この処置に対して秦の貴族たちは震え上がり、以降商鞅の法を守るようになりました。
また、民衆たちも最初は新しい法に馴染めず、なかなか従いませんでした。そこで商鞅は都の南門に三丈、8.3メートルほどの木の棒を置き、
「この棒を北門に動かしたものには十金を与える」
とお触れを出しました。十金が現代の何円くらいかはわかりませんが、まあまあの大金だったようです。
このお触れを読んだ民衆は胡散臭く思い、棒に触れる者は誰もいませんでした。そこで商鞅は賞金を5倍に増やしてみます。五十金もらえるならものは試しと一人の男が木の棒を北門に動かすと、約束通り賞金を受け取ることができました。
こうして民衆は、法は必ず守られるものと知り、よく法律に従うようになったと言われます。
法治国家の完成
具体的な商鞅の政策について触れていくとそれだけで何時間かかるかわからないので、かいつまんでお話していきます。
商鞅の政策の柱は富国強兵と中央集権であると、個人的に解釈しています。戸籍制度の制定や開墾の奨励により農業生産量と人口が増加した結果、秦の動員兵力は飛躍的に上昇しました。戦場での功績によって出世できたり報奨が出たりするようになったので、戦争に対するモチベーションも高くなりました。
貴族に土地を与えて世襲させる従来の封建制から、国を郡や県といった行政単位に区分けして長官を派遣する郡県制によって秦の隅々まで君主の権力を及ぼすことができるようになりました。
法律の施行や軍事行動は命令者が複数いた場合、その力を十分に発揮する事は困難になります。過去に解説した城濮の戦いや邲の戦いでも、行動の統制が取れたほうが勝利しています。どんなに豊かな経済と強い軍隊を持っていても、それをコントロールできなければその力を十分に発揮することはできません。春秋時代に覇権を握った晋も内部に晋公に匹敵する実力者が次々に現れたため衰退していきました。
秦は富国強兵と中央集権に成功し、次第に強国となっていきます。商鞅が軍団を率いて魏を大いに打ち破ることもありました。
商鞅はこれら功績を讃えられ、商という土地を与えられます。商鞅という名はこれ以降のものです。
順風満帆に見えた商鞅の人生でしたが、紀元前338年に孝公が亡くなりました。後を継いだ恵文王は太子時代の経緯もあり、商鞅を嫌っていました。鼻を削がれた側近の公子虔はもちろん恨み骨髄です。危険を悟った商鞅は逃亡を図りますが、途中の宿屋に泊まろうとした時
「商鞅さまの法律により許可証を持たない者は宿泊できません」
と拒絶されてしまいました。商鞅は
「法を徹底させたことの弊害が、こんな形で現れるとは……」
と、嘆息しました。商鞅は自分の目指した法治国家の完成を、我が身の破滅という形で知ったのです。
なんとか魏まで逃亡した商鞅ですが、戦争で魏をボコボコにしていたこともあり逆に殺されそうになります。そして与えられた商の町に立て籠もりますが秦軍の攻撃を受けて戦死してしまいます。享年52歳でした。
商鞅の亡骸は都で車裂きの刑にされ晒し者にされてしまいました。
商鞅個人は悲惨な最期を遂げましたが、商鞅の政策は秦に引き継がれました。商鞅を殺害した恵文王も有能な王様であり、天才外交官の張儀、異母弟の樗里疾、キングダムにも登場する名将・司馬錯など優秀な人材を活かして中華の西方に巨大勢力を築いていきます。