【春秋戦国編】第1回その3【戦国時代概要】
概要
紀元前403年周は晋から分裂した趙・魏・韓を諸侯として承認しました。これにより天下に下剋上の気風、周を侮る風潮が強くなり、情け無用の戦国時代へと移行していきました。
戦国時代の始まりは紀元前403年説や、三晋が実質的に独立した紀元前453年説。歴史書『春秋』の記述が終わった紀元前481年説があります。ここでは周の権威の低下が戦乱を加速させていったという文脈でお話をしているので、紀元前403年説を採用しています。
一方、戦国時代の終わりは紀元前221年の始皇帝の天下統一です。これに対して異論を唱える人は今まで見たことがありません。ちなみに周は紀元前256年に秦によって滅ぼされてしまいます。始皇帝のひいおじいさんの時代ですね。
戦国七雄
戦国時代は7つの超大国・戦国七雄によって覇権が争われました。七雄以外にも周や中山、衛、魯などの中小国家も存在していました。中山とかは結構な大国でしたけどね。
韓
最弱です。七雄の中で最初に滅ぼされてしまいます。
晋から分裂した三晋の一角です。周の首都・洛邑周辺を抑えています。現在の河南省ですね。交通の要衝であることから多くの商業都市を抱え、経済的には非常に豊かな国でした。そしてその経済力を背景に他国より優れた武器を生産していました。
しかし、その一方で各都市の独自性が強く挙国一致で動くことができませんでした。戦国最大の決戦・長平の戦いは韓の都市・上党が本国の意向を無視したことが原因でした。
名宰相・申不害がいた時期以外は残念ながら七雄最弱のポジションでした。
大思想家・韓非は韓の王族でしたが吃りが強かったため、国内ではめちゃくちゃバカにされていたそうです。韓非の才能を一番評価していたのが敵国秦の始皇帝というはなんとも皮肉です。
趙
晋から分裂した三晋の一つで現在の山西省や河北省を支配していました。韓や魏と比べて中原の中心から外れていたため経済や人材確保の面で苦労していました。さらに遊牧騎馬民族・匈奴や謎の異民族国家・中山と境界を接しており、彼らの侵略に頭を悩ませていました。
しかし、武霊王の出現により状況は一変します。彼は胡服騎射と呼ばれる軍制改革を実行します。これは騎兵戦術に優れる遊牧騎馬民族の服装など文化を取り入れ、本格的な騎馬隊を育成するというものでした。この改革により趙は戦国七雄の中でも強力な軍事国家となります。
武霊王は悲劇的な最期を迎えますがその後も趙は藺相如、廉頗、趙奢、平原君、李牧など優秀な人材を排出し、天下統一を目指す秦の強大な敵となります。
長平の戦いでは秦の将軍・白起に敗れ、四十五万人を虐殺されるという悲劇に見舞われ、最終的には韓の次に滅ぼされます。
魏
戦国最初の覇権国です。晋から分裂した際に特に中心地を抑えた状態で独立した豊かな国です。
名君・文侯が全国から人材を募り、他の七雄から頭一つ抜けた存在となります。特に有名なのは中国初の成分法を定めた李克や、孫氏と並ぶ天才兵法家・呉起でしょう。呉起の手腕により秦の領土を大幅に削り取ります。
しかし、文侯の死後呉起が楚に亡命するなど人材が流出し弱体化していきます。さらに中原の中央部は交通の要衝で、言い換えれば防戦になれば周囲が敵だらけという立地から斉や秦の侵略を受け続けてしまいます。
斉の軍師・孫臏は『史記』によると2度に渡り魏に大勝利を収めています。彼は魏で讒言を受けて足を切断、あるいは膝蓋骨を砕かれ二度と立ち上がれない体にされています。秦の宰相・范雎は外交戦略で魏を孤立させその領土に侵略しました。彼は魏にいる時、冤罪で暴行を受けた後便所に放り込まれ死にかけた過去があります。そりゃあ念入りに魏をボコボコにするでしょうね。。
信陵君という英雄の登場もありましたが結局はその才能を王に妬まれ失脚するなど、優秀な人材がいても使いこなせず衰退していきました。
七雄の中で3番目に秦に滅ぼされてしまいました。
楚
春秋以前から続く長江流域の古豪です。戦国時代の楚は長江下流域にも勢力を拡大し、長江下流の越を滅ぼしています。広大な領地を支配しており、春秋戦国時代を通しての強国です。
魏から亡命した呉起による政治改革が行われましたが貴族階級の反対により失敗。外交面で秦が誇る天才外交官・春秋戦国のおしゃべりクソ野郎こと|張儀《ちょうぎ》らに翻弄され、軍事でも首都・郢が陥落するなどしました。一時は春申君が国政を立て直したり、名将・項燕が秦を撃退するなどしましたが最終的には滅ぼされました。
文化的に黄河流域の中原とは異なる独自のものがありました。愛国詩人とも呼ばれる屈原や、楚の詩を集めた『楚辞』は有名です。そのためか秦の支配に対して最も反抗的で、始皇帝死後の大反乱も楚を中心に発生しました。
燕
西周の頃からある古い国です。始祖は周建国の功臣・召公奭です。周の武王の弟とも言われている人物です。現在の北京周辺を領有していました。現在の中華人民共和国の首都ですが、当時としては超ド田舎です。そのため古い国ですがあまり記録が残っていません。春秋時代のときに話題にしなかったのはそのためです。
七雄の中でも目立たない存在でした。王様が家臣に王位を譲って国内が混乱するというなかなかレアなトラブルも発生していました。この問題に超大国・斉が介入したため、斉に隷属していた時期もあります。
しかし、名君・昭王の時代に繁栄を迎え、名将・楽毅が仇敵にして超大国だった斉を滅亡寸前まで追い詰めました。しかし、昭王の死後は楽毅の実力を恐れて追放した挙句に斉の反撃を許してしまい主力部隊が壊滅してしまいます。
始皇帝の時代には軍事的に秦に対抗する力はなく、荊軻による始皇帝暗殺未遂事件を起こします。計画は失敗し燕も秦に滅ぼされてしまいます。
斉
春秋時代は覇権国にもなった超大国です。春秋時代の終わりに言いましたが、国を貴族の田氏に乗っ取られています。
経済力は依然として七雄の中でもトップクラスで、さらに|稷下《しょくか》の学と呼ばれる学者サロンを作り多くの人材を集めました。また、王族の孟嘗君は三千人もの様々な才能のある人材を食客として厚遇し、彼らの力を得て様々な危機を乗り越えていきました。
斉の人材でも特に有名なのは兵家の代表格、天才軍師・孫臏でしょう。彼の策により当時の覇権国・魏を馬陵の戦いで撃破します。
また、内乱に乗じて燕を隷属化させるなど、魏が弱体化した後は覇権国となります。同時期に勢力を拡大した秦と並び、秦が西帝・斉が東帝と呼ばれます。
しかし、高圧的な外交や侵略により国際社会の中で孤立化。燕・趙・魏・韓・秦の五カ国連合軍・合従軍を率いる楽毅の前に、国土にある72城のうち70城を約半年で陥落されるという事態に陥ります。
名将・田単の覚醒によって楽毅を謀略により更迭させ、後任の将軍を撃破した後70城を取り戻しました。しかし、消耗した国力はすぐに戻ることはなく、秦の前にほぼ無抵抗で降伏することになります。
秦
春秋時代に引き続き現在の陝西省を支配していました。三晋や斉に比べると辺境の後進国なのは相変わらずで、戦国初期は魏の侵略により大幅に領土を削られます。
しかし、魏で出世できないと判断して秦にやってきた商鞅が国政に参加する頃から風向きが変わります。商鞅は法律を整備し、貴族であってもその法律を適用しました。今までの優秀な王様や、優秀な政治家・将軍がその属人的な能力によって国家を運営していました。それに対して商鞅は優れた法律を作り、それを運用することで富国強兵を目指したわけです。呉起は楚で同じようなことを試みましたが彼の死によって頓挫しました。しかし商鞅の改革、変法は彼の死後も歴代秦王によって引き継がれて行きました。なお、近年の研究では商鞅の変法には前任者がいたことが有力視されています。
経済、軍事ともに最強国家となった秦は他の七雄をはじめとする全ての諸侯国を滅ぼし、紀元前221年始皇帝により史上初めて中華統一を成し遂げます。
秦の天下統一事業
秦以外の六国は名君や名宰相の出現により強くなり、彼らの死とともに衰退していきました。なぜ秦だけが強国であり続けたのでしょうか。それは秦が周や他の六国とは違う支配システムを作り、運用することに成功したからでした。
属人的な能力ではなく、富国強兵のためのシステムを作りそれを代々運用することで秦は時代を経るごとに強大になっていきました。
秦にも後継者問題等によるトラブルはありました。例えば秦の武王は趣味のウエイトリフティングの最中におもりが重すぎて20代前半で事故死するという不運に見舞われました。まだ若く子供もいなかったため激しい後継者争いが発生しましたが、新しく即位した武王の弟・昭襄王は秦の統治システムを引き継ぎ、国力を衰退させることなく天下統一に王手をかけます。
ちなみに昭襄王は始皇帝の曽祖父に当たる人物なので、武王の事故死がなければ始皇帝は出現しなかった可能性が高いですね。
商鞅の変法
秦の転機となったのは商鞅による政治改革・変法です。彼は富国強兵に必要な政策を法制化し、それを徹底しました。
例えば、
・戦場で功績があれば平民であっても出世し、功績がなければ貴族であっても出世できないという人事評価システムを運用。
・戸籍を作成して住民を管理し、更にお互いを監視・密告させる。
・農業や手工業を奨励し、商業者やニートには罰を与える。
・|度量衡《どりょうこう》の統一。
・国内に行政区画として郡と県を設置し、ここに中央から派遣した長官を赴任させ、中央政府の方針を国の隅々まで徹底させる。
などが挙げられます。
これらの政策は商鞅が失脚し死亡したあとも、これらの統治システムは後代に引き継がれていきます。
なぜ変法は成功したのか
法家的思想に基づく政治改革は商鞅が初めてではありません。古くは斉の管仲や魏の李克、楚でも呉起が改革を行っています。しかし、その中で長期にわたり継続できたのは秦だけでした。
あくまで個人的で私的な考察ですが、いくつか理由を考えてみましょう。
一つ目は秦に革命に対するニーズが他国に比べて大きかったことがあります。秦は文化・経済の中心地である三晋や斉にくらべて貧しい後進国でした。楚は中原からは辺境ですが、古くから長江文明が栄えた土地でした。
他国に負けないようにより豊かに、より強くという思いはかなり強かったでしょう。
二つ目は既得権益層が比較的弱かったことです。一つ目にも関連しますが、貧しい土地である以上自然と既得権益者は数も少なく、力も弱くなります。また、秦では春秋時代から他国出身者の採用が多く、他国に比べて貴族の影響力は弱かったようです。楚では呉起の改革は既得権益者である貴族階級に潰されてしまいました。とはいえ、既得権益者との軋轢がなかったわけでなく、商鞅自身は彼らとの権力抗争の中で命を落とします。
三つ目は商鞅の変法は王にとって非常に都合が良いものだったからです。軍功による昇進システムや地方長官を中央から派遣するやり方は、王以上の経済力・軍事力を持つ存在を抑制することができます。
特に封建制では与えられた土地は基本的に自由に裁量でき、更に身分が世襲されたため主君以上の力を持つ存在が出現する可能性がありました。周の弱体化、晋の分裂、斉の国家乗っ取り、これらは封建制の歪みから生まれた強者が、元の主より強くなって起きた出来事です。
王を超える存在を牽制する商鞅のシステムは王にとっては理想だったでしょう。実際殷と周は王以上に強くなった諸侯に滅ぼされましたが、秦はそのようなこと起こりませんでした。秦は農民反乱によって滅びます。
封建制から郡県制へ
商鞅の変法はいずれも後世に大きな影響を与えました。その中でも今回は郡県制に注目したいと思います。
郡県制は国土を郡に区分けし、更に小さく県に区分けします。日本の県と郡とは逆ですね。そして、この郡や県に中央政府から役人が派遣され統治を行います。
役人は能力や実績により任命され、その地位は世襲されません。もちろん人事異動もあります。また、行政担当や軍事担当、監察官など権力も分散されます。これにより常に中央政府の方針を理解した優秀な人材を配置することができます。更に中央政府以上の力を持つ権力者が出現しにくい状況を作ることにも成功しました。
デメリットとしては、封建制と比べて圧倒的に人的コストが高いことです。封建制は諸侯を任命して「後は任せた!」なのでコストは圧倒的に安上がりです。農業技術の発展に伴う食料生産量の増加。諸子百家の隆盛による学問の発展。これらの社会的進歩がなければ中央集権国家の成立はあり得なかったでしょう。
郡県制を元にした中央集権の政治システムは秦以降社会の変化に合わせたバージョンアップをしつつ2000年以上中華王朝で採用され続けました。
2000年以上通用する統治システムを完成させたこと。これが秦が他の六国を圧倒した最大の要因です。
おわりに
今回は第1回ということで、春秋戦国時代の概要について簡単に説明させていただきました。周の封建制が弱まり、周の東遷、三晋の分裂という2つの事件で戦乱が加速していきました。そして郡県制という新たな統治システムを完成させた秦が天下を統一しました。封建制のままではどの国であっても統一は困難だったでしょうし、仮に封建制を採用した状態で統一ができたとしてもおそらく後の中華帝国たちのような巨大国家には育たなかったでしょう。
次回からは春秋戦国時代に活躍した人物にスポットを当て解説していきます。第2回と第3回は春秋の五覇についてです。
第2回の前におまけがあります。