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【春秋戦国編】第3回その1【高潔な覇者か?時代遅れの愚者か?・宋の襄公】

 せい桓公かんこうのお話で最後の方にそう襄公じょうこうが登場しました。襄公は春秋の五覇に数えられることもある人物です。また、宋襄そうじょうじんということわざにもなっていますね。『宋』の『襄』公で『宋襄』です。

桓公かんこうの後継者として

斉の後見人

 襄公が宋の君主として即位したのは紀元前651年、斉の桓公が即位して35年目の年でした。ちょうど桓公が葵丘ききゅう会盟かいめいを行った年です。襄公もこの会盟に参加しています。世代的には桓公と親子程度の年齢差があったのではないかなと思います。

 宋は現在の河南省商丘市しょうきゅうし周辺を支配していた国です。規模としては中堅といった所でしょうか。一番の特徴は周以前に中華を支配したいん王朝の末裔であるということです。このような生い立ちもあってか、襄公は非常に伝統や礼儀を重んじ、非常に義理堅い性格だったようです。斉の桓公は襄公のそのような性格を信頼し、後継者である太子・しょうの後見を頼んでいます。

 斉の桓公死後、斉では後継者争いが勃発して太子・昭は宋に亡命。斉国内は内戦状態になりました。それに対し、襄公は周辺の諸侯を集めて会盟を開きました。
「斉が今大変な状態だから諸侯の力を集めて内乱を鎮圧するぞ!」
というわけです。襄公は太子・昭を擁立して斉の内戦に介入し、見事勝利しました。太子・昭は即位して斉の孝公と呼ばれます。紀元前643年、襄公が即位してから9年目のことです。

会盟での屈辱

 紀元前639年、襄公が即位して12年目に再び会盟を開きます。この時は南方の大国・楚も参加していました。当時の楚の君主は成王せいおうと言います。斉の桓公や襄公は周の臣下という立場なので『王』ではなく『公』を名乗っていますが、楚は元々周から半独立的な立場なので『王』を名乗っています。会盟には成王本人ではなく、将軍の子玉しぎょくという人物が参加しました。
 楚は中堅程度の実力でしかない宋が盟主、つまり覇者の座にあることが面白くなかったようです。
実力は楚の方がずっと強いのに、宋の下につくなんて!
というわけです。楚は管仲かんちゅうが健在だった時期の斉には敗れていたので、それ以降はおとなしかったのですが、管仲と桓公が世を去り内乱で斉が弱体化したため再び勢いを取り戻していました。
 楚の将軍・子玉はなんと会盟の席で襄公を捕まえて監禁してしまいました。他の諸侯が集まる場での出来事でしたから襄公の面目は丸つぶれです。身柄自体はすぐに開放されましたが、この屈辱を晴らすべく宋に戻ると楚との戦争準備を始めました。宋と楚の国力の差は歴然で、宋に勝ち目はありませんでした。国内からも無謀だとの声が上がりましたが、襄公は強硬姿勢を崩しませんでした。

宋襄そうじょうの仁

宋の襄公

泓水おうすいの戦い

 紀元前638年。会盟での屈辱の翌年、両軍は宋国内を流れる泓水おうすいという川を挟んで対峙しました。古来から川を挟んでの戦闘は先に川を渡ろうとしたほうが不利です。身動きが取れない状態で弓矢等の攻撃を受けてしまいますからね。
 先に動いたのは楚でした。兵力的には楚が圧倒していたため川を渡るスキを見せたとしても兵力差でゴリ押しできると考えたのでしょう。そんな楚軍の動きに対して宋の宰相・子魚しぎょ
「攻撃のチャンスです」
と進言しますが、襄公は
君子くんし、立派な人は他人が困っているときに更に困らせるようなことはしないものだ
と進言を却下します。子魚は
「我が君は戦を知らない」
と嘆いたと言われています。
 攻撃を受けることなく渡河を完了させた楚軍は宋軍を圧倒しました。襄公自身も足に矢を受けて重傷を負ってしまいます。襄公はこの時の傷が元で紀元前637年に亡くなります。即位14年目のことでした。
 後世の人々は戦争という非常時に無用の情けをかけた襄公の行動を『宋襄そうじょうじんと言い戒めとしました。

放浪の公子・重耳ちょうじ

 泓水の戦い後、襄公が亡くなる直前に宋にある人物が来訪してきました。現在の山西省当たりを支配するしんの公子・重耳ちょうじです。晋のお家騒動に巻き込まれた重耳は諸国を放浪し、帰国のチャンスを伺っていました。重耳はこの時60才前後で襄公と同世代か少し上くらいでしょう。
 敗戦により国力に余裕がなく、自身も重傷を負っていた襄公でしたが、重耳を丁重にもてなしました。亡命中はあちこちでひどい目にあった重耳は深く感動します。宋は元々大きな国ではないですし、敗戦直後だったため重耳は長居することなく宋を後にしました。

 この重耳こそ19年の放浪生活の末に晋の君主となり、中華世界に秩序を取り戻した春秋の五覇・晋の文公ぶんこうです。文公は泓水の戦い以降勢いづく楚に勝利し、宋の国難を救うことになるのは襄公死後の紀元前632年のことでした。

守株

覇者か愚者か

 泓水の戦いに代表されるように、襄公は古い慣習に囚われて敗北するなど失敗エピソードが目立つ人物です。実際に宋の国力や襄公自身の能力は覇者としては力不足だった感は否めません。
 しかし、殷の末裔という立場や当時の国際秩序、倫理観を鑑みれば一概に襄公は愚かな人物だったと判断するのは早計かなと個人的には思います。斉の内乱を早期に鎮圧した手腕。楚以外の諸侯から覇者に推されたことは紛れもない事実です。
 現代であっても立場の問題でベストと思える行動が取れないというのは、往々にしてあることです。管仲が魯に有利な条約を守ったり、燕に有利な国境を定めたりしたことも、結果につながらなかったらただの弱腰・お人好しな外交と非難されたでしょう。
 仮に襄公が覇者を目指さず、宋一国の繁栄を目指したのならまあまあの名君になれるだけの資質はあったのではないでしょうか。その場合は歴史に名を残すこともなかったでしょうけど。

まちぼうけ

 最後に余談を一つします。北原白秋の童謡『まちぼうけ』でおなじみの守株のエピソードは宋でのエピソードです。古いしきたりを守り失敗するというエピソードは襄公のイメージから来ているのではないかとも言われています。もしかしたら宋という国にそういう気風が実際にあったのかもしれません。

宋の襄公を通して思うこと

 私が歴史を学ぶ動機は楽しいから、おもしろいからです。この講座もエンタメ感覚で開講しています。しかし、歴史から何かを学びたい、人生の役に立てたいのであれば、失敗した人間をただ愚かだと評価するのは学びとしては不完全だと個人的には思います。
 愚かな人物が愚かな行動をして愚かな結果になっただけなら、学びとしての意義は少ないでしょう。そこには何の再現性もないわけですから。逆に成功した人間を天才だから、運が良かったからと思考停止してしまうのも同様です。
 少なくとも失敗した人間を見下したりバカにしたりするだけ、成功した人間を羨んだり妬んだりするだけの行動が、なにか意味があるとは個人的には思えません。

 もちろん状況や実績、記録をよくよく調べて、思考してその結果
「ああ、やっぱコイツ、クソ人間だわ」
となることもあります。みん正徳帝せいとくていとか。

 宋の襄公については以上です。その2に続きます。