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【春秋戦国編】第3回その2【栄光と没落を招いた覇者・秦の穆公と五羖大夫・百里奚】

秦の穆公

 せい桓公かんこうが大陸の東側で活躍していた紀元前659年、遥か西方では新興国・しん穆公ぼくこうが即位しました。秦は後に天下統一を果たすことになりますが、当初は辺境の新興国といった立ち位置でした。しかし、秦は穆公の時代に強国としての階段を一気に駆け上がります

 秦の穆公は個人的には春秋の五覇の中で最も人格・能力共に優れた人物ではないかと考えています。そして、穆公は個人としての能力以上に広く人材を求めたことでも有名で、この方針は秦が天下統一へ向かうための一番の原動力となりました。そんな穆公家臣団の中でも最も有名なのは、奴隷から宰相さいしょうにまで上り詰めた男・百里奚ひゃくりけいでしょう。

五羖ごこ大夫たいふ百里奚ひゃくりけい

波乱万丈の半生

 百里奚はの出身と言われています。他国に士官しようとしていましたがなかなかうまく行きませんでした。今で言う就職浪人ですね。やがて現在の山西省さんせいしょう運城市うんじょうしにあった小国・に仕えます。しかしこの虞はしんにあっさりと滅ぼされてしまい、百里奚は捕虜となってしまいます。この時70歳ほどだったと言われています。

買われた宰相

 百里奚は戦勝国・晋のお姫様に召使いとして仕えることになります。そのお姫様は紀元前655年に秦の穆公に嫁ぐことになり、百里奚もそれに付き従って秦に行くことになりました。そこで、百里奚と話をする機会があった秦の役人がその見識に驚き穆公に報告しました。。
 秦は辺境国であったため、人材の確保にはかなり貪欲でした。特に穆公は熱心で、他国出身であっても優秀であれば高い身分に取り立てました。こうした秦の風潮はこの後もずっと続くことになります。
 穆公はそれほど優秀な人間ならぜひ部下にほしいと思いましたが、百里奚は国外に逃亡してしまいました。田舎の秦に仕えるのは嫌だったのでしょうか?動機はわかりませんが、百里奚は楚で捕縛され奴隷として働くことになってしまいました。
 穆公は百里奚が楚で奴隷になっていることを聞くと彼を助けようとします。軍隊や大金を使っては楚が百里奚をスカウトする可能性があるので、このミッションは秘密裏に行われました。秦のエージェントは五枚の・羊の皮と百里奚の身柄を交換し、無事救出に成功しました。このことから百里奚には五羖大夫というあだ名がつけられました。

百里奚

 百里奚は穆公仕えて実績を上げ続け、約20年かけてついに宰相に上り詰めました。ざっと計算すると90歳を越えての就任です。更にその後も活躍し、紀元前621年頃に亡くなったようです。

西戎せいじゅうの覇者

百里奚の真価

 穆公の時代、秦は様々な問題を抱えた国でした。農地の開発は進まず、経済活動もあまり活発ではない。人材の確保も僻地であるため困難。そして一番の課題は異民族対策でした。

 秦の領地はかつて西周のあった地域です。西周は西戎せいじゅうと呼ばれる異民族の攻撃により滅んだというお話は以前しました。秦が支配するようになっても、秦やその上にある周の言うことを聞かない民族がたくさんいたわけです。どれだけ経済が発展しても略奪されてしまえばたまったものじゃないですし、防衛や治安維持に力を入れれば経済が苦しくなるという負のループに陥ってしまいます。

 百里奚はこの異民族対策で成果を上げました。彼は周辺の民族と敵対するのではなく、融和する道を選択しました。産業を教えて略奪に頼らなくても豊かに暮らせる手段を提供しました。百里奚の温厚で誠実、質素で控え目な人柄もあり、徐々にしかし確実に宥和政策は結果を出していきました。
 周辺の民族との融和をしていった結果、秦の人口も増加し税収や動員兵力が大きく増しました。もちろん防衛や治安維持に必要なコストも下がり本格的に東方へ進出する準備が整ったのです。

岐下きかの野人

 秦と異民族にまつわるエピソードがあります。これはマンガ『キングダム』や『東周英雄伝』でも紹介されたのでご存知の方も多いかもしれません。
 ある日穆公の飼っていた馬がい逃げ出すという事件がありました。役人が捜索したところ岐山きざん周辺に住んでいた人たち・岐下きかの野人が食べてしまったことが判明しました。
「無礼な野蛮人を処刑してしまえ!」
という声もありましたが、穆公は
「家畜のために人間を殺してはいけない」
と罪に問わなかったばかりか、
「馬肉を食べて酒を飲まないとお腹を壊すぞ」
とお酒まで振る舞ったのでした。
 この寛大な処置に感激した岐下の野人たち300人が秦の軍隊に参加し、穆公のと一緒に戦うことになります。
 また、穆公は西戎の王に仕える賢者・由余ゆうよを策略を用いて離反させ、自らの参謀に加えました。
 百里奚や穆公の手腕により、時には武力を用いながら秦の地盤を固めていきました。従わない民族を討伐し、やがて穆公は西戎の覇者と呼ばれるようになります。

秦と晋

仇を恩で返す

 穆公が即位して9年目の紀元前651年に秦の隣国・晋の献公けんこうが死に後継者争いが発生します。献公の息子の一人・夷吾いごは穆公に協力を依頼します。穆公は晋のお姫様、つまり夷吾の妹と結婚していることもありこの依頼を承諾します。夷吾は穆公に
もしも私が晋の君主になったら、黄河の西の土地を秦にお譲りします
と、約束しました。
 穆公の協力を得て夷吾は内乱を無事鎮圧。見事晋の君主となります。晋の恵公けいこうです。恵公は約束を破り土地の割譲はされませんでした。

 それから4年後の紀元前647年に晋では農作物が不作となり、食糧不足が発生したので晋の恵公は穆公に食料援助を要請しました。秦国内では
約束を破った晋を助ける義理はない!」
という意見が大半でしたが、穆公は
晋の恵公は確かに約束を破ったが、晋の国民に罪はない」
と言い、食料援助を行いました。
 次の年、逆に秦が不作に陥り食糧不足が発生しました。すると晋の恵公は
「今こそ秦の領土を奪うチャンスだ!」
と軍団を率いて戦争を仕掛けてきました。
穆公はかなり優しい人なのですが、流石にコレにはブチ切れます。穆公だけでなく秦では上から下までブチ切れます。

韓原かんげんの戦い

 紀元前645年、穆公が即位してから15年目の秋。両軍は現在の山西省黄河の東岸で激突します。秦は経済力に劣り、更に食糧難というハンデを抱え兵数的には不利でした。しかし、晋の恵公の所業にブチ切れまくっているため戦意は旺盛でした。一方晋は兵数は有利でしたが、戦意はあまり高くなかったようです。考えてみれば当然で、去年食料援助してくれた国を侵略するわけですから気乗りはしないですよね。
 しかし、やる気があるからといって戦争に勝てるなら苦労はありません。激戦の最中穆公の乗る戦車が晋軍に包囲されるという大ピンチに陥ります。その時穆公を命がけで守る部隊がありました。かつて穆公の馬を食べてしまった岐下の野人300人です。彼らの命がけの戦いぶりで戦況は逆転。晋の恵公の戦車を逆に包囲し捕虜にしてしまいます。
 怒り心頭の穆公たちは晋の恵公をブッ殺して勝利の儀式をしようとしましたが、穆公の妻・晋の恵公の姉が助命嘆願をしたため、晋の恵公はなんとか釈放されました。代わりにに晋の恵公の息子・ぎょが人質として秦で囚われの身となってしまいました。

穆公と文公ぶんこう

 紀元前637年・穆公が即位して23年目に晋の恵公が亡くなると、秦で人質生活を送っていた圉が逃亡して晋に戻り晋の懐公かいこうとして即位します。逃亡なのでもちろん穆公に無断です。この行動に穆公はじめ秦の人々は憤りを感じます。更に晋の懐公は恐怖政治を展開し晋は一気に政情不安に陥ります。
 良化していったとはいえ西に異民族問題という爆弾を抱えている秦としては、東の晋が不安定になるのは望ましくありません。穆公は新たに優秀な人物を新たに晋の君主にすることにしました。白羽の矢が立ったのは晋の恵公の兄、つまり晋の現君主・懐公の伯父にあたる重耳ちょうじという人物です。宋の襄公のときにも話題に出ましたが、重耳は晋の後継者争いの影響で諸国を放浪している人物です。晋を脱出して19年が経過していて年齢は60才間近でしたが、多くの優秀な人材を抱え国内外から信望の厚い人物です。
 穆公の支援を受けた重耳は晋に帰還しました。晋の人々は恵公・懐公親子の政治にうんざりしていたようで重耳を歓迎し、迎え入れます。晋の懐公は殺され、重耳が晋の文公ぶんこうとして即位しました。
 晋は建国以来最高の名君を得て急速に強大化していきます。穆公の目論見通り晋国内は安定しましたが、晋はやがて秦を圧迫する存在になっていきます。

暗黒時代の幕開け

リーダーとしての穆公

 紀元前627年、穆公が即位してから33年目に晋の文公が自身の即位9年目に亡くなります。晋の強大化に危機感を持っていた穆公はコレをチャンスと考え、3人の将軍を派遣し晋に攻撃を仕掛けます。ちなみに3人の将軍のうち1人は百里奚の息子です。
 新たに晋の君主として即位した晋の襄公じょうこうは自ら出撃して河南省西部・こうで戦い秦の3将軍に見事勝利します。3将軍は晋軍の捕虜となってしまいました。
 3将軍はやがて秦に送還されますが、穆公自身が国境近くまで出迎えます。
今回の敗戦は私の判断ミスであり、将軍たちに落ち度はない
そう言って穆公は3将軍に謝罪しました。
 彼らはその後、より一層穆公のために懸命に仕え、晋との戦いにも勝利を収め雪辱を果たしました。
 穆公の人柄や人気がわかるエピソードです。そしてその人柄や人気がとんでもない悲劇を招くことになりました。

殉死

 紀元前621年、即位から39年目に穆公は亡くなります秦には元々殉死の習慣がありました。殉死は自分の主君が死んだときに家来がその後に続いて死ぬ行為です。日本でも古代の殉葬や追腹おいばらといって江戸時代に流行しました。春秋時代は中原の国では既に廃れた習慣でしたが、中原から遠く離れた秦ではこの殉死の習慣が残っていました。秦で殉死が禁止されるのは紀元前384年と200年以上先のことです。
 多くの臣下に慕われていた穆公は、その死によって177名の殉死者を出してしまいました。政府中枢の大臣や将軍などが穆公と共に一気に消えてしまった秦はその力を急激に落としていってしまいました。秦が再び歴史の表舞台に経つのは戦国時代中期の紀元前361年に即位する孝公こうこうの出現を待たなければいけません。

 第4回に続きます。