【春秋戦国編】第1回その1【西周時代概要】
はじめに
今回から中国史ぷち講座の記事を投稿させていただきます。
内容としては2023年10月13日に開催した講座の脚本です。参加できなかった方や予習・復習したい方向けです。
第1回ということなので、その1のみ講座の前に公開させていただきます。その2以降は講座終了後に公開していこうかなと思います。
一応予防線を張っておくようですが、私はただの歴史が好きなだけなオジサンです。歴史に詳しい方からすれば物足りない内容になるかと思いますので、先にごめんなさいしておきます。
今回は各種資料を元に自分なりの見解、考察を交えて歴史を皆さんにお伝えしていこうかなと思います。あくまで「オレ流で解釈する歴史」なのでそのへんご理解ください。
あまり込み入ったお話はできませんが「歴史って面白いな」と思うきっかけになれば幸いです。
今回取り扱う内容については中国の春秋戦国時代です。リクエストもありましたし、漫画や映画でも今話題の時代ですね。この時代を題材としたエンタメ作品の設定資料集のような楽しみ方をしていただけたら幸いです。
資料について
本題に入る前に参考資料についてお話します。今回は『史記』『春秋』『戦国策』の記述を中心にお話をさせていただこうと思います。
軽く説明すると、『史記』は秦の始皇帝の統一から100年ちょっと後の時代、紀元前90年ごろに完成した歴史書です。漢の武帝という非常に有名な皇帝の時代ですね。司馬遷という人とそのお父さん司馬談という人が編纂したものです。内容に矛盾があったりもするんですが、現在の古代中国史観のベースになっている書物です。後、読み物として面白いですしね。
『春秋』は春秋戦国時代の国のひとつ・魯という国について書かれた歴史書です。孔子が書いたと言われていますね。魯は現在の山東省南部です。元々の春秋は内容が非常に淡々としたもので、のちの時代に注釈書がいくつか作られました。その中の一つ『左氏伝』を元にお話をしていきます。三国志の関羽なんかは『春秋左氏伝』の愛読者ですね。
『戦国策』は『史記』の少し後に完成した逸話集です。正確な年代は不明ですが、編纂した劉向という人は紀元前6年に亡くなっているので、『史記』のからは70年から90年くらい経っているんじゃないでしょうか。逸話集と言った通り歴史書ではないんですが、春秋戦国時代の政策なんかがまとめられた書物なので、この時代を語る上では外せません。
ご存じの方、お気づきの方もいると思いますが、この『春秋』と『戦国策』が春秋戦国時代の名前の由来になっております。だから、春秋戦国時代の人は
「おれは春秋戦国時代の人間だぜ!」
なんて言わないんですね。本筋とは関係ない話ですが、ちょっとした雑学です。
周と春秋戦国時代
先ほどから春秋戦国時代と言っていますが、一応この時代の大半は周という王朝の時代でもあります。日本の戦国時代が室町時代の中にあるのと同じようなものですね。周というリーダーはいるけど各地で勢力が争っているという状態です。それこそ日本の戦国時代をイメージしてもらうと飲み込みやすいと思います。天皇や足利将軍はいるけど各地で勝手に争っている感じです。そして、周は春秋戦国時代の途中紀元前256年に滅んでしまうんですが、春秋戦国時代は紀元前221年まで続くことになります。
周の時代は紀元前1024年から紀元前256年までです。800年近く続いていることになります。その中で春秋戦国時代は紀元前771年からなので、周という国ができてから約250年後に春秋戦国時代が始まる計算になります。
この春秋戦国時代はひとまとめに呼ばれることも多いですが、結構違いがあります。今までボスだった周の力が段階的に落ちて行って、それに伴って社会が変化していっています。社会の変化により周の力が落ちたとも言えますけどね。
紀元前771年には春秋時代になるキッカケの事件が発生します。そして、紀元前403年には戦国時代と呼ばれるようになる出来事があります。今回はそこを中心に話していこうかなと思います。戦国時代のはじまりは解釈次第で前後しますが、別に受験生ではないのでその辺は気にせずいきましょう。
殷から周へ
周という国を説明する前に、その前にあった国・殷について少しお話します。最近の教科書は商という呼び方が増えたようですが、今回は殷で統一します。
殷は現在実在が確認されている中で最古の中華王朝です。黄河流域・現在の河南省あたりにあった都市国家です。この時代は各地方に邑と呼ばれる都市国家がありました。各邑にはその土地を治めるリーダー・諸侯がいて、更にその諸侯たちのリーダーが殷だったというわけです。このような統治システムを邑制と呼びます。別に覚えなくてもいいです。
今の王様というイメージとは違って他の都市国家を完全に支配していたというわけではありません。殷王は、
「地元のことは地元のリーダーでなんとかしてね。手に負えないことがあったら相談してね。あと貢物ちょうだい」
といったスタンスですね。
殷王は異民族の侵入があった時や災害が発生した時、邑同士で揉め事が起きた時のトラブル解決や調停を行いました。王は常に強いリーダーシップを発揮しなければいけませんでした。なにせ諸侯や邑に住んでいる人たちにとって、殷王なんて他人ですからね。
「いざという時に頼りにならないなら、王様なんていらない」
と、なっちゃうわけです。
実際飢饉への対応が良くなくて殷は他の都市国家の支持を失ってしまいます。そして今の陝西省西安市付近を支配していた諸侯・周が殷をやっつけるわけです。
封建制とその崩壊
周は殷の失敗を見ているわけですからちゃんと対策します。周は自分の一族や手柄のあった家来たちを各地のリーダー・諸侯に任命します。この体制を封建制といいます。周の国がピンチの時は身内や家来の諸侯が助けてくれるという事が期待できます。殷の時代と違って他人じゃないですから。
もちろん殷の時代に引き続き地元のリーダーたちがその地域を支配する諸侯になるケースもありました。
諸侯と貴族
ちなみにこの諸侯にはランクがあって、公・侯・伯・子・男の爵位があります。伯爵とか男爵という言葉はここが由来ですね。諸侯とか公とかの言葉はこの後よく使うので覚えておいていただけたら幸いです。テストはしませんけど。
更に諸侯や周王には直属の部下たちがいて、卿・士・大夫といいます。いわゆる貴族階級の人たちで、卿が一番偉くて諸侯国の大臣クラスです。
封建制の成功
それでこの封建制ですがいきなり機能します。
周の初代・武王が殷を倒してからすぐに亡くなっちゃいます。跡継ぎは成王と言いますがまだ子供でした。周は建国早々に大ピンチが訪れたわけです。殷に親しかった諸侯だっているわけですしね。実際殷の残党による反乱も発生します。
そんな中、武王の弟・周公旦という人が亡き兄の子どもを支えて周の国を守るわけです。周公旦は魯という国の諸侯でしたが、任地の方は息子に任せて自身は周を守り、成王を支え続けました。なので周公旦はたくさんの人から尊敬されています。特に魯出身の孔子は周公旦の政治を理想としていますね。
こうして周は封建制というシステムでピンチを克服しました。そして周は封建制というシステムを更新できないために滅んでいきます。やっぱり成功したシステムを改革するのは相当の難しいということです。失敗は成功の母といいますが、成功は失敗の母でもあります。
封建制の崩壊
この封建制には欠点があります。時が経つほど、血が薄まるほど、諸侯の結束は弱くなり周が制御できなくなってしまいます。これは、システム的な宿命と言えるでしょう。
また、農業技術の発展により人口が増加し、経済的にも軍事的にも周より豊かで強い国ができてきたことも、諸侯の独立化を招きました。諸侯は支配地域で徴税をしたり、軍隊を組織したりすることができましたからね。
周の東遷
乱世の始まりを告げる大事件
建国から250年ほどするとかなり周の権威は落ちてしまいます。そして紀元前771年に異民族の襲撃を受けて当時の周の王・幽王が殺されるという大事件が発生します。首都の鎬京も被害を受けます。鎬京は現在の陝西省西安市付近ですね。
平王と呼ばれる王家の生き残りが周を復興させます。この時襲撃を受けた鎬京にいるのは危ないということで、東にある洛邑に遷都します。洛邑は現在の河南省洛陽市です。
この事件以前の首都が西・鎬京にあった時期の周を西周、首都が東・洛邑に遷った後の周を東周と呼びます。
春秋時代の始まり
一応周は完全に滅んだわけではないのですが諸侯に対する権威が大きく低下します。そりゃ首都が陥落して王様が殺されちゃったわけですから、みんなから舐められちゃいますよね。諸侯が周の王様の言うことを聞かなくなってしまう訳です。先に言った周から春秋時代へ移行していったキッカケがこの事件です。
この紀元前771年が長い長い戦乱の時代、春秋戦国時代のスタート地点となります。
覇権国の産声
この時、異民族との戦いで周の王族を守って活躍した人がいました。この人は諸侯ではなく周の直属の家来でした。周の平王はその功績に対して諸侯としての地位と岐山とういう山より西の土地を与えました。
岐山は現在の陝西省の西の方ですね。
この新たに諸侯になった人は秦の襄公と呼ばれます。彼の子孫が秦の始皇帝です。大乱世の始まりと共に生まれたこの国は、周を完全に滅ぼし大乱世を終わらせることになります。
その2に続きます。
その2とその3は第1回の講座終了後に公開させていただきます。